第一話
(手入れのされていないここが好き。自然なままの、ここが好き。自由で、好き)
ナナは城下町の見下ろせる丘の上に来ていた。高い建物のないこの場所には絶えず風が吹き、サワサワと草木が葉を揺らしている。膝の高さまで伸びた自由な草たちがナナの足をくすぐり、一際目立つ大きな木がそれを包み込む様に見下ろしていた。
青々と茂った雑草は種類も様々で、空高く伸びるものもあれば地に這うように育つものもいる。花をつけたり実をつけたり、ただただ葉のまま一生を終えてみたり。いろんなものが共存して創り出している。
(ここでも、私はやっぱり異物)
「ナナ」
透き通った声でナナを呼ぶのは、隣に住んでいる幼馴染のアーシャ。ナナが振り返ることもなく草の苦い香りのする地面に腰を下ろすと、当然のようにアーシャもその隣に腰を下ろした。左隣でふわりと揺れるシルバーの髪、座っていても座高の高さで分かる華奢な体型。アーシャにとっての普通は、ナナにとっては喉から手が出るほど欲しいもの。
「そろそろナナが戻る頃じゃないかって、チルダおば様が言っていたから迎えに来たの」
「お母さんったら、きっとユーリの誕生日会が待ち遠しいのね」
「ナナが心配だったのよ」
「___そうね。帰りましょう」
ナナが立ち上がると、続いてアーシャが立ち上がる。歩き出せば少し後ろでカサカサと草を踏みしめる音が聞こえてくる。一歩後ろに下がる女性らしさと呼ぶべきなのか、ナナにとっては「先に毒味してください」と言われている気がしてならない。
アーシャは何不自由なく育った、シダ村の村長の娘。大きな屋敷に沢山の使用人、可愛らしい外見に純粋な心。そんなアーシャをナナはいろんなものから守ってきた。それは、これからもきっと
丘からシダ村まではおよそ十分の道のり。いつものように他愛のない話をしながら砂埃の舞う道を進んだ。
ポツポツと民家の見え始めているところまで来ていた二人の耳に、ふと遠くから声が聞こえてくる。言い争っているような、大人の声だった。
「一体何事かしら?」
「さあ、家の方向からだよね」
「急ぎましょう」
声の只ならぬ雰囲気に、ナナとアーシャは手を取り走り出した。生まれてきてからずっとここで暮らしてきた二人には、目をつぶっていても走れる程の通い慣れた道だ。繋いだ逆の手でスカートの裾を持ち上げながら軽やかに進み、数十秒で声の主の元へと辿り着いた。
場所はアーシャの邸宅前。
「いやぁ、存じ上げませんな」
「村長殿。僕はただ、お会いしてみたいだけなんですよ」
「そう言われましても、そんな娘はうちには・・・」
大声で話していたのは、アーシャの父親であり村長でもあるエンドールだった。そのエンドールに対峙しているのは、黒髪の少年。ナナの角度からでは背中しか見えないものの、分厚い生地のジャケットに黒のズボンとブーツ姿の少年からは高貴な身分が伺える。思わずアーシャの手を強く握り、背中に走るゾクっとした違和感にナナは思わず後ずさっていた。
「一体何事ですか? お父様」
アーシャの透き通った声にザワザワとエンドールたちを囲んでいた人垣が割れ、中心へと向かう一本の道が出来上がった。もちろんナナに逃げる時間など無く、二人に好奇の視線がチクチクと突き刺さる。ナナはアーシャの正義感がたまに憎い。確かに自分の父親が知らぬ者と争っていたら助けるのは当然のことなのだろうけれど。
「___貴女が」
渦中の二人がこちらを向いたときにエンドールは血の気を無くし、少年は驚いた顔をしてからにっこりと微笑みながら歩み寄って来た。関わるべきでは無い。ナナの頭の中でけたたましく警報が鳴り響いている。それでも、二十三年間守り抜いて来たものがナナにはあった。
ぎゅっと拳を握りしめてから、ナナはアーシャと少年の間に割って入る。頭一つ分小さな少年を見下ろし、震えてしまいそうな声をなるべく落ち着かせながら絞り出した。
「何事ですか? 貴族様がこんな田舎の村まで」
「___ええ。僕は貴女の後ろにいらっしゃる方に会いに来ました」
「どのようなご用件で?」
「それは・・・貴女に伝えなければいけないことでしょうか?」
少し長めの前髪の隙間から見える大きな瞳に、ナナは全てを見透かされているようで背中がじっとりと汗ばむのを感じる。少年のあどけない表情の合間に見え隠れする冷やっとする視線に、早くも心が折れそうだった。
「僕は、彼女とお話ししたいんです。全てを皆様の前でお話しするのは、ちょっと・・・恥ずかしくて」
可愛らしくはにかみ視線を左右に揺らしながら頬を掻く少年に、周りにいた人だかりから抗議の声が上がる。
「ナナ! もう、野暮なこと聞くんじゃないよ」
「そうよ。アーシャが可愛いのは今に始まったことじゃないわよね」
「話ぐらいさせてあげなさいよ」
近所のおば様方のハートは少年にガッチリと掴まれたようだった。くりっとした目が瞬きをする度に揺れる長い睫毛に、スッと通った鼻筋に黄金比の小鼻。収穫前の果実のように赤く熟れた唇は、誘うように弧を描いている。身長だってナナが百七十センチと高いだけで、少年だって百六十センチはある。こんな少年がシダ村にいたら、モテて仕様がないだろう。
「ナナ。私は大丈夫よ」
「アーシャ・・・」
「アーシャさん。素敵な名前ですね。僕にお時間頂けますか?」
「ええ、もちろんです」
まるで咬ませ犬なような扱いに、ナナは二人が歩いていく後ろ姿を呆然と見送るしか出来なかった。二人が去ると民衆は興味を無くしたように散っていき、ポツンと残されたナナとその数メートル後ろには完全に蚊帳の外だったエンドールが立ち尽くしていた。
「ナナ!」
「何です、おじ様」
「あぁ、あ、アーシャの後を付けてくれないか?」
「そんなに慌てて、相手は貴族様ですよ。おじ様からしたら喜ばしいことじゃないですか」
「そんな流暢なこと言ってられんぞ。アーシャが美しいのはわかっている。しかし、遠くへは嫁に行かせたくないんだ」
懇願するようにナナの足にへばり付くエンドールに、ナナは長い溜息を吐く。
「おじ様、アーシャが見たら泣きますよ。そんな姿。私はもう慣れましたけれども」
「そうだ、ナナ。これまでずっとお願いしている通り、これからもアーシャを守っておくれ」
「___はあ。で、何なんですかあの少年は?」
幼き頃から見てきたエンドールの一生のお願いポーズを横目に、ナナは腕組みしながら二人の去って行った方向に視線を移した。
「突然やって来て、髪が美しく白い娘は居ないかって言うんだ。すぐにアーシャだとわかったが、嫁に寄越せと言われたらどうしようと「だから、シラを切ってやり過ごそうとしていたんですね? まあ、完全に失敗していましたけれども」
「ナナ。おじさんの胸にこれ以上傷をつけないで貰えるかい?」
大袈裟に心臓を抑えて見せるエンドールに、「あっ、人が来た」と指指して見せたらすっと背中を伸ばす姿にナナは抑えきれず吹き出す。昔からこのお人好しでチキンのくせに村長を頑張って演じてるエンドールに、ナナは弱い。きっと奥さんとナナしか知らないこの姿に、情が湧いてしまっているのだ。エンドールにはたくさん助けられて来た。もちろんその何倍も助けて来たが、そんなことナナには関係ない。
「行ってきますよ」
「ありがとう、ナナ。ユーリの誕生日会には特大のプレゼントを用意して行くよ」
「それ、最高。よろしくお願いしますね」
ザワザワと心が騒いでいる。二人が行ってしまったから十分程経っていた。少年が探しているのは、美しい白髪の娘。心臓を多足虫が這いずり回るような感覚に吐き気がする。
(どうか、平和な日常が終わりませんように)
ナナは小道を抜け、アーシャの家が所有する庭園へと向かった。