act8☆贅沢はいらない
ハッと我に返ったのは、「あら?」という聞き慣れない女性の声がした瞬間だった。
迂闊だった。無音の時間と心地よく涼しい室温に招かれて、私もフロンやネコたちとうたた寝していたのだ。
フロンは呑気にまだ寝こけている。2匹のネコたちは「なーん」という甘えた鳴き声でリビングの扉へと駆寄っていった。
恐る恐る振り返る。もう一度「なーん」と鳴くネコたちを足元に、フロンとそっくりの女性が立っていた。テレビでしか見たことのない高級ブランドのショルダーバックを手にしたまま、小首を傾げている。
それはそうだろう。連絡もなしに帰ってきた娘と、その友人らしき女が、自分のいない間に上がり込み、呑気に寝こけていたのだ。驚かないわけがない……。
「あっ、あのっ、お邪魔しています!」
一瞬で眠気が覚めた私が立ち上がり頭を下げると、フロンそっくりの女性は「あらあら」と近付いてきた。
「フロンのお友達ね? まあまあ、よくいらしてくださったわね」
「すみません、勝手にお邪魔していまして……」
ゆっくり頭を上げると目が合った。女性はトロンとした垂れ目を細めて、「いいのよ」と私の手を取った。優しそうな笑顔だった。
「フロンがお友達を連れてくるなんて珍しいと思ったら……あなた、とっても奇麗な目をしているのね。お名前は?」
突然手を握られた事にもびっくりだが、この目を奇麗だなんて褒められた事にもびっくりだった。思わず「え?」と声が漏れる。
「え、えっと、芹澤蝶子と申します。フロンさんとはルームメイトでして……」
「あぁ、あなたが蝶子さんね? まあまあ、そうだったのぉ。お噂はフロンから聞いていたわ。フロンがいつもお世話になってます。フロンの母です」
深々と頭を下げられて、つられてこちらもまた下げる。足元のネコたちが私たちを見上げていた。
「座って? 冷たいお茶でもいれましょうね」
「あぁ、いえ、おかまいなく。さっきフロンさんからいただきましたので……」
「え? フロンが?」
お母さんが不思議そうに振り返る。そして未だ目を覚まさないフロンを見た。私もそちらを見る。お母さんはまた「あらまあ」と視線を私に戻した。
「ものぐさなフロンがお茶を入れるだなんて……。フロンにとって、蝶子さんはとっても大事な存在みたいね。ありがとう、蝶子さん」
微笑まれる意味が分からない。御礼を言われる意味が分からない。とまどっているとお母さんはうんうんと頷いた。何に納得しているのだ。全く分からない。
「さあ、座って座って。お中元でいただいたおいしいデザートを持ってきてあげるわ。さあ、座って?」
言われるがままソファに座る。清楚なワンピースがキッチンへ消えていく。ネコたちは考えたあげく、お母さんについて行った。
すかさずフロンを叩き起こす。すぐにパッチリ起きる時もあれば、いくら叩いてもつねっても起きない時もある。現在後者。焦った私はフロンの耳元で、「スパッツ脱がすわよ?」と、ドスを効かせて囁いた。
「あぁーん、まだダメですよぉ蝶子さぁーん……。こういう営みはまずムード作りからですねぇ……」
むにゃむにゃと、だけどにたにたと起き上がるフロン。明らかにいやらしい想像をしている。まぁそれが狙いなわけだが。
「バカ言ってないで起きなさいよ。お母さん帰っていらしたのよっ」
にたつきながら私の両肩を掴むフロンの額をはたく。「ふぇ?」と間抜けな疑問符を飛ばしているフロン。浅い瞬きをパチパチと2度して、ようやく周りを見渡した。
「帰ってきたのですか? 母が」
「そうだって言ってるでしょっ。あなた、お母さんは夕方まで帰らないって言ったじゃない。気まずいったらありゃしなかったわよ」
「あぁ、それは申し訳なかったですぅ。まさかこんなに早く……」
と言ったところで一緒に時計を見る。すでに17時を過ぎていた。どんだけ寝こけていたのだ私たちは……。
「あらフロン、起きたの?」
キッチンから戻ってきたお母さんは、お盆にゼリーを乗せていた。私は慌てて態勢を整える。娘を小突いているところを見られてはいまいかとヒヤついたが、お母さんの嬉しそうな表情を見る限りセーフのようだ。
「母様、お久しぶりですぅ。ただいま帰りましたです」
「うふふ、帰ってくるなら連絡欲しかったわ。ちょうどゼリーがあってよかったけど、お友達も連れてくるならもっとたくさん用意しておいたのに」
親子の会話を聞きながら、本当に顔が似ているなと見比べた。特に目元が見ている。口調こそ違うものの、穏やかな雰囲気も母親譲りだ。
「母様、お菓子教室じゃなかったのですかぁ?」
「そうよ? でも今日は簡単なお菓子だったからね、ちょっと早く終わったの。……もしかしてフロン、お母さんが帰ってくるまでに出ようと思っていたの?」
お母さんがいたずらっ子を諭すような顔をする。フロンはたじたじしながら「ち、違いますよぉー」と首を横に振った。……誰が見ても怪しい。
「そう? まあいいわ。蝶子さん、冷たいうちに召し上がって?」
テーブルにコトンと置かれた宝石のようなゼリー。つやつやしている表面も、中の大きな果肉もおいしそう。上品な金のスプーンがまた高級感を増幅させている。
フロンと一緒にいただきますをする。今までに味わったことのない滑らかな食感と、濃厚なマンゴーの甘みが絶妙。思わず「おいしい!」と声が漏れた。
「良かったわぁ。別の味もあるから、よかったらおかわりしてね」
「母様、おかわり!」
「はいはい。フロンはマスカットが好きだったわよね。待ってて?」
久しぶりの再会、そして娘の好物を与えられるという嬉しさが表れた笑みだった。フロンもご機嫌。再びキッチンへ消えるお母さんの後ろ姿を見て、いいな……と思ってしまった。
私の両親は繁華街の隅っこでラブホテルを経営している。祖父の代から60年以上続いていると言えば聞こえはいいかもしれないが、要はオンボロ宿なのだ。
故にお客は少ない。売り上げも少ない。母は人件費を削るため、父と共に経理から掃除までせわしなく働いている。
だから3時のおやつも夕飯も、私は母親と過ごしたことがほとんどない。ただテーブルに用意されていたお菓子や食事を食べるだけ。こんな風におかわりなどねだることもできなかった。
「幸せね、あなた」
思わず口に出てしまった。フロンが不思議そうに顔を上げる。
「どうしたのですか? 蝶子さんも遠慮なくおかわりしてもらっていいんですよ? 蝶子さんは何がお好きですかぁ?」
「……ううん、これだけで充分よ。私にはあなたがいるもの」
「……へ?」
小首を傾げるフロン。いいの、分からなくていいの。
贅沢はいらない。このまったりと、ゆったりとした些細な幸せをあなたが与えてくれるから。
「蝶子さん、何て言ったのですかぁ?」
「何も」
のんびりと、まったりと、羽根を休めていられるだけで心地いいから。
「えー、何か言ったじゃないですかぁ。あなたがどうのこうのって」
「さぁ?」
「えぇー?」
ふふっと私が笑うと、不服そうなフロンもつられて笑った。