act4☆憂鬱
夏休みの初日、目が覚めたのは5時20分過ぎ。きちんと閉めたはずのカーテンから差し込む早起き太陽のビームで叩き起こされた。
それでも今日から夏休み、あと3時間寝ていたところで誰にもとがめられない。もぞりと窓に背中を向けてひとつため息をついた。
「蝶子さぁん?」
ルームメイトの声がする……気がする。
「蝶子さぁん? 起きてるなら起きてくださいよぉ」
聴える気はするが、うちのルームメイトは毎朝私が起こさないといつまでも寝ている寝ぼすけ。自力で起きるはずがないのでこれは睡眠不足による幻聴か、もしくはすでに二度寝中の夢か、はたまた彼女の寝言か……、うん、寝言説が有力かしらね……。
「蝶子さんってばぁっ」
横顔を埋めていた枕がいきなりスライドし、私の頭はだるま落としのようにバフンとベッドに着地した。
「……フロン、何するのよ。っていうか、何で起きてるの?」
「ヒドイですよ蝶子さんっ。今日は私とアバンでチュールなデートをしてくれると約束したでしょう? ずっと前から約束したじゃないですかぁ」
「約束? そんな約束いつしたのよ」
「えぇっ! 本当に忘れてしまったんですかぁっ? ヒドイです、ヒドイですよ蝶子さぁん」
フロンは私から取り上げた枕を抱きしめながら、細身の体を大きく左右に振った。その姿をぼーっと眺めながら、私は寝起きの脳をゆっくり作動させる。しかし寝不足の脳ではまだ真実にたどり着けず……。
「悪いけど全く思い出せないんだけど」
「うぅ……蝶子さんの私への愛はそんなものだったんですかぁ? 私とは遊びだったんですかぁ? そうでしょう、そうなんでしょう蝶子さぁんっ」
カッと見開かれたその目には嘘や冗談の色が見えない。ずずいっと近づいてきた顔面を全力で押し戻しながら私は身を起こした。
「ばながっ、ばながつぶでますぅっ」
「分かったわよ、私が約束とやらを忘れていたのは謝るけど、一体何の約束だったわけ?」
っていうか、この子はアバンチュールの意味を理解して使っているのかしら?
「私の地元でデートしてくれる約束ですよぉ。ショッピングしたあとに一緒に海岸デートしてくれるって言ったじゃないですかぁ」
私は首を傾げた。フロンの実家は海の近くで、毎年花火がどうのこうのという話を聞いたところまでは思い出せる。それは確か4月の話、ルームメイトになって間もない頃、お互いの自己紹介の時に聞いたんだった。
「一度行ってみたいって言った気もするけど……具体的に今日だと約束した? 本当に思い出せないんだけど」
「もーっ。中間テストの前日ですよぉ。私が勉強せずに寝ようとしていたら、机の上を片づけてちゃんと勉強したら、夏休みデートしてくれるって蝶子さんの方から言ってくれたんですからねー? 俄然やる気が出てきた私が楽しみすぎて、じゃあ初日にお願いしますねって言ったじゃないですかぁ」
「あー……あれね。はいはいとは言ったけど、まさか……」
「ちょっと蝶子さんっ? まさか約束やぶるわけじゃないですよねぇ? もう母上には伝えてあるんですからねー? お嫁さん紹介しますってぇ」
「はぁっ?」
こちらこそ目をかっ開く。フロンの抱きしめていた枕を奪い返し、続けて何か言おうと口を開いたその顔面にばふんと押し当てた。それでもめげずにもごもごと枕の向こうで何かほざいていたが、しばらくしてバタリとベッドに倒れ込んできた。
私はその柔らかいボブヘアを一度撫で、怒気を強めて上から諭す。
「いい? 私とあなたの中での約束ならまだしも、第三者を交えての約束は、私の予定を確認して。私は今日、10時から部活なの。ううん、部活じゃなかったとしても、何であなたのお母さんに……」
言いかけたところで思い出す、今日の憂欝の根源を。
いつの間にかフロンは私の手を取り、すりすりと子猫のように頬ずりしていた。憂欝がゆえに寝付きが悪かったところを起こされ、さらに勝手な約束に腹を立てていたけれど、そんなことはフロンにはお構いなし、らしい。
夏の朝日はとっくに上がっていた。白く光るレースのカーテンに目を細めてもう一度念を押す。
「部活は17時までだから今日は無理。ショッピングと海岸散歩は今度、あなたのお母さんに紹介はなし、いいわね?」
「ぶー……」
「口尖らせてもダメなものはダメ」
そもそもこの子のお母さんは、娘が嫁候補とやらを連れてくることにどう思っているのだろう? そもそも娘にそっちの気があることを知っているのだろうか。いや、知っていたとしても、日本では合法化されていないのに認めているのだろうか……。
いやいや、そもそものそもそも、私はそっちの気でも何でもないし、そうだったとしても嫁になるなんぞ一言も……。
「あなた、もしかしてずっと起きてたの? それとも自力で起きたの?」
「失礼なこと言わないでくださいよ、蝶子さぁん。私だって自力で起きれるんですからね? 蝶子さんに早朝の海岸を見せたくてうずうずしてたんですからぁ」
「あー、はいはい。どうもありがとー」
私がわざとボー読みで言うと、フロンはふてくされたのか、自分のベッドにごろりと横たわりネコのように丸まった。
「行かないとは言ってないでしょ? 金曜は部活ないから、もし天気が良かったらちゃんと連れて行ってもらうわよ。ショッピングと海岸だけ、ね」
返事がないので顔を覗き込むと、フロンはすでにすやすやと寝息を立てていた。今日2回目のため息をついてシャワーの支度を始める。
無駄に早く起きてしまったし、上がったら台本でも読み返そう。降ろされてしまったボスではなく、子分役の台詞を……。
『芹澤さん、ガチすぎて怖いんだけどーぉ』
シャワーを浴びている間、先輩に言われた言葉がグルグル回っていた。真剣に演じて何が悪いのだ……。本気でビビる先輩の引きつった顔が忘れられない……。
子分といえど真剣にやればまたビビられ、ボスより目立つなと言われる。かといって手を抜けば本気でやれと言われる……。
それならいっそ裏方で結構よ。
笑おうが怒ろうが、私にビビらないのはフロンだけ。だからこそ甘えてしまうんだろう。傷つけたいわけじゃないのについ本音を口にしてしまう。今まで言えなかったことも言えてしまう……。
稽古は10時集合。まだまだ時間はあるというのに、睡魔はフロンに吸い取られたらしい。さすがにドライヤーをかける図太さはないので、濡れた髪をタオルで巻き上げた。。
デスクに向かい、台本を手に取る。せっかく暗記した台詞……キャスト変更のために1から覚え直しになってしまった……。
今日から立ち稽古。ほとんどのキャストが台詞をほぼ安徽してくるだろう。急に変更を言い渡された先週から必死に私も覚え直そうと努力した。
なのに……。
「どうしろって言うのよ……」
1年坊主でラスボスの役をもらい、しかし迫力がありすぎてヒロインが立たないと言われ、下ろされて子分役になったものの、それでもキャラが濃いと言われ、あげく先輩より目立つなと言われ……。
目立つつもりなんて全くない。むしろ目立たない役でいい。どうせ役のイメージが強く残り、現実に性格悪い女のだと印象付いてしまうのがオチなのだから。
いっそ、性格悪い女として生きていこうかしら。その方が楽なのかも……。
雑念で台詞が入って来ない。だめだ、やっぱりトラウマが過ぎる。悪役を演じる度に孤立していった中学時代を……。
台本をそっと閉じ、代わりにスマホを手にする。画面には6時5分と表示されていた。7時になったら部長に送信しよう。
『演劇部、辞めます』と……。
打ち込んで虚しくなった。
好きで始めた演劇……。私は演劇に何を求めていた?
芝居の中で、私じゃない私になれること、みんなで作り上げていく楽しさ、終演後の高揚感、いつもたまらなくそれらを味わって求めていた。
ドーパミンに溺れていた。
「バッカみたい」
スマホを放り投げる。ベッドに落ちていくそれをしらけた顔で眺める私。あぁ、きっと今だって怖い顔をしているのだろう。なんかもう、どうでもよくなった。
演じるのは、誰のため……?
「蝶子すわぁん……」
ムニャムニャ言ってるフロンが羨ましい……。努力しなくても何でも手に入っているフロンと、努力しても何も変わらない私……。不公平だ。
「どうしたのですかぁ……? 悲しい顔をして……」
よく見ると、デフォルトで眠たげな瞼がうっすらと開いていた。