汗馬
波のような恋情が押し寄せ、私の心を虜としてしまった。
奔放な汗馬でありたかったものを、手綱を執られてしまった心持ちだ。
あらゆる言葉の花束を、惜しみなく彼女に注いだ。
清らかな泉のようだった彼女は、初めは戸惑いがちに、しかしやがてそれらを泉深くへと受け取ってくれるようになった。
私は古い洋館を、彼女が暮らせるよう整理することにした。
実のところ、私はこの家が苦手だった。
父の昔の恋への固執。母の嘆き。
漆喰の壁はそれらを吸収し、また、吐き出しているようだった。
両親が死んだ今でさえ。
館内に手を入れ、一新しようかと考えた私を止めたのは彼女だった。
とても素敵だからこのままで、と。
だからリビングの天井の太い梁も、石造りの暖炉も、そのままだ。私は彼女の言うことであれば、何でも聴くような気がする。そんな心境は、私に父を思い出させた。
父の書斎の扉を開ける。重いマホガニー。
私は父を疎んじていた。過去に拘泥し、母を蔑ろにする父を。
葬儀の時も泣かなかった。
ただ、終わったのだなと感じた。
父に、結婚したい相手が出来たら書斎の机の右側、二段目の抽斗を開けるよう言われていた。死ぬ直前のことだった。
嘗ての恋人に渡そうと思っていたカメオが入っている。
結局、加工せず、渡せず仕舞いだったが、私にそれを譲ると父は言った。
愛する人にあげなさい。
父が明瞭な言葉を発したのはそれが最後だった。
抽斗を開けると、透明の蓋で封をされた小さな黒い箱に、馬の意匠のカメオがあった。
背景は野山と樹で、前脚を上げた白馬が精緻に細工されている。美しいと素直に思った。同時に遣る瀬無さが込み上げた。父はこれを、ついに母に贈ろうとは思わなかったのだ。
過去の恋慕にただ捧げたのだ。
そして私には後悔するなとばかりに遺した。
愚かなのかもしれない。
けれど今の私には父の心情が理解出来ないではないのだ。
恋情に囚われたから。
愚かで残酷で惨めで。
愛がもたらすものは混沌としていて、私は父と語らう時間を持たなかったことを悔やんだ。
父が亡くなってから私が初めて落とす雫を、白い汗馬が見ていた。