彼女の囁きごと
「今日はありがとね」
机を挟んで目の前に座る女子がそう口にした。
「ん、たいしたことはしてないよ」
「いやー結構今回のテストやばそうだったからさ。教えてもらってかなり助かったよ」
彼女は水を口にしながら、やはりそう言う。もう食べ終わって空になった皿を重ねながらふうと一呼吸ついた。
本当に大したことはしていない。ただクラスメイトの彼女に勉強を教えてほしいといわれたから教えただけ。
テスト週間ということで部活もなく、まだ空は紅に染まりだした頃。彼女との仲も異性の中ではいいほうで、そのまま流れで早めの夕飯を一緒に食べに来てしまったけど。
「はあ……」
小さく、聞こえない程度にため息を吐く。友人との放課後のこんなひと時は悪いものじゃない。でも後ろ髪を引かれるような思いがあるのもまた事実だった。
「ねえ、君って、彼女いるの?」
突然彼女はそんなことを訪ねてきた。
やっぱり年頃の女子といったところか。キラキラ光る瞳を、俺は見つめ返す。そこにあるのは見た通り単純な興味だけ。それを受けやはり俺はもう一度ため息を吐いた。そして逃げるように視線を外に向ける。
俺たちの座る席はちょうど窓際で、ガラス張りになっている窓からは外の様子がよく見える。
いつも通りの光景だった。帰りなのかいつもより多い車が忙しなく路上を駆け抜け、それを朱色に夕日が照らす。最近冷え込んできたこともあり、道を行く人々も厚着の人やそうでない人が半々といったところ。
そこでふと、道路を挟んだ向こう側に女子高生の一団が目に入った。
紺色のブレザーとスカート、そして胸元に水色のリボンを咲かせていた。目の前の友人と同じ格好だからうちの生徒だ。学校帰りなのだろう、五人ほどの女子高生は楽しそうに談笑しながらゆっくりと道を歩いていた。
その時、一人の女子がこちらを向いた。黒髪のショートカット。それを際立たせる異様に白い肌。物腰は柔らかく、どことなくまじめな印象を受けた。
僕の眼と、その髪と同じく真黒できれいな瞳が交差する。
「――っ」
その瞬間、ゾワゾワと背筋に悪寒が走った。表情は引き攣って、心臓はわしづかみにされたかのように苦しい。なんだか変な汗も流れている気がする。
対してその女子生徒は、そんな俺の状態を知ってか知らずか、軽い笑みを浮かべた。
その笑みから目が離せない。蛇ににらまれたカエルとはまさにこのことか。
「ねえ、どうしたの?」
その時、友人がそう声をかけてきた。俺は思わずそちらに視線を向ける。不思議そうにこちらを見つめる彼女を見ると、途端に体から緊張が抜けていく。
重く、嘆息を一つ。
「あ、ああ……いや、なんでもない」
愛想笑いを浮かべながら、そう答えた。友人はと言えば、「そ」とだけ言うだけでとくに気にした様子はない。
「で、どうなの? いるの?」
そして、結局その話に戻るのかと、心の中だけでうなっておいた。
とくに何も答えたくないのだが、どうにもそのようにはいかなさそうだ。
「……ああ、一応な」
視線を逸らして、苦々しく。小さく呟くように。
友人は不思議そうに首をかしげていた。
「んー。彼女いてもそんなにおどろかないけど、なんか反応おかしくない?」
「おかしい?」
「うん。そんな言いたくなさそうにしなくても、なんなら自慢げにするくらいでもいいのに」
「別に自慢することじゃないだろ」
「それは現在彼氏なしの私に対する嫌味ですかー!」
友人は「あー!」と叫ぶと突然頭を掻きむしりだした。
そういえばつい数日前に彼氏と別れたんだったか。ナイーブな時期にこんな話はきつかったのかもしれない。
なんてことも考えたが、結局この話を振ってきたのは他ならないこいつだ。急に叫びだして周囲の注目を集めるこいつにかまうことなく、俺は我関せずで水に口をつけた。
「あれ? ならさ」
突然彼女は素に戻り、そう口にした。
「私と二人で今いるのってどうなの? そのか、の、じょ、さん的にはオッケーなの?」
彼女の一文字一文字を区切って厭味ったらしくそう言った。もちろん無視だ。
だがその質問に、俺は思わず顔をしかめてしまった。
「え、何。やばい感じ?」
「……いや、たぶん大丈夫だと――」
ピコン、と。
俺の言葉を遮るように、テーブルの上に置いてあった俺のスマホが音を出した。さらに顔をしかめながら、そのスマホを手に取る。それはメッセージの着信だった。
なんとも憂鬱な気分だ。なんとなくその相手も、なんならその内容までなんとなく予想はついていた。
予想はついているが、予想がついているからこそ憂鬱なのだ。
だが見ないわけにもいかない。俺は一つ息を吐き、そのアプリを立ち上げた。
「もしかして彼女さん? なんだって?」
「ん……いや、まあ」
言葉を濁しながらメッセージを見て、そして電源を落とした。
いいの? と友人は視線で問いかけてくる。
「まあ大丈夫だ……多分」
自信なさげにそう言う俺を見る彼女の眼は、なんとも呆れたようなものだった。
『先輩へ。
いつもの場所で、いつもの時間に待ってます』
◆
そのメッセージを見た後、俺はすぐに友人と別れた。何となく察したのか、彼女は何も言ってこなかった。
冷えた青い空気の中、俺も道を歩く。紅色だった空も、次第に黒く変わり始めている。だんだんと冷え始めてもきた。あまり長く待たせてもあれだ。自然と進む足は早くなる。
迷うことなく俺は進み、住宅街へと差し掛かった。ポツポツと窓や街頭に灯りがつき始める中、帰宅途中の人や、散歩途中の犬とすれ違った。
真っ直ぐ進んでその角を右へ。そこにあるのは小さな公園だった。迷うことなく、その中へと入っていく。
いくらか錆びついて年月を感じる遊具に視線を滑らせながら、辺りを見渡した。
ところどころ穴の空いたフェンス、そして低い生垣に囲まれたそこは、何とも閑散としていた。時間も時間だからしょうがない。きっともう遊んでいた子供達も帰ってしまった。
もともとあまり大きくもない公園だ。全体を見渡すのに対して時間もかからない。左から右へ、八割ほど見渡しても誰もいない。あれ、いないなと思いつつ、残りの二割に視線を向けただった。
公園の入り口から入って左手。そこにある小さな古ぼけたベンチに彼女は座っていた。
どちらかといえば見慣れた制服はもう来ていない。スェット、そしてジーンズとラフな格好で、腹あたりのポケットに両手を突っ込みながら足をブラブラと揺らしている。冷えた風に黒髪を揺らしながら、真上をぼーっと見つめていた。
ふぅと、一つ息を吐く。よし行こうと一歩踏み出した時、ジャリと砂の音がなった。それに反応するかのように、彼女はこちらに視線を向けた。
「おや」
落ち着いた、雪のような声だった。
「先輩、早かったですね」
「……もう少し暖かい格好をしてくれ。最近は冷え込んできたんだから」
「そんなに長い時間待ってたわけじゃないので大丈夫ですよ先輩」
「まあ結果そうなったかもしれないけど……。あのな、呼び出すならもっと具体的に時間と場所を教えてくれ。俺たちが会う時間も場所も、そんな『いつもの』とか使うほど一貫してないだろ」
「でも先輩なら来てくれるでしょう?」
何の悪びれることもなく彼女はそう言った。俺は特に言い返せない。事実、『いつもの場所』に心当たりはなかったが、何となくなんて理由で彼女の元にたどり着いてしまったのだから。
だがこの後輩の思惑通りというのも気に入らない。気に入らないが事実そうなのだから、俺はついつい苦々しく顔をしかめてしまう。そして彼女はそれを見て嬉しそうに笑っていた。
チョイチョイと、彼女がこっちに来て手招きをする。彼女の元に行くと、次に彼女は彼女が座っているところの隣を軽く叩いた。座って、ということらしい。特に思うこともなくそのまま腰を下ろせば、ギィと不安げにベンチが軋む。
「ところでですよ、先輩」
持たれていた背を背もたれから離して俺に向き直り、首を少し傾げながら彼女はそう言った。
「私はなんでしょう?」
「は?」
あまりに突拍子もなく、答えも分かりきっているような質問についついバカみたいな声を漏らした。それに彼女はクスクス笑い、俺は小っ恥ずかしくて視線をそらす。
ただその質問にはすぐに答えられなかった。
彼女が何者かという意味なら、彼女の名前。俺にとっての彼女が何かという意味なら、後輩なり恋人なりと。
そう言えばいいのだが、彼女のことだ。何か変なひっかけのようなものがあるのではと、ついつい無駄に頭を動かしてしまう。
だがニヨニヨといやらしい笑みを浮かべているところを見るに、それも結局裏目に出ているらしい。
「おや、先輩。わからないんですか?」
「いや、わからないっていうか――」
「私は先輩のかわいいかわいい後輩ちゃんですよー。私は先輩のかわいいかわいい彼女ちゃんですよー?」
がくりと、俺は肩を落とした。
結局それか。何のひねりもないのか。
何だか無駄に疲れた気分だ。
はぁとすこし顔をうつむかせ息を吐くと、途端に視界が薄暗くなった。もともと時間もあって薄暗かったが、これはおかしい。ふと頭を上げれば、隣に座っていたはずの彼女はいつの間にやら俺の目の前に立っていた。
そして何か言うこともなく俺の足の上にまたがって座り、向き合うような体勢になる。
「さて、そんな先輩の後輩ちゃんであり、彼女ちゃんである私ですが、それを踏まえて一つ、聞きたいことがあるんですよ」
彼女は人差し指をピンと立ててそう言った。ただでさえ体勢的に距離が近いのに、さらに顔をグイッと近づけてきて思わず俺は仰け反り気味になる。彼女は相変わらずニヤニヤと笑っていた。
雪のような肌も、真っ黒な瞳も、その漆黒の奥まで見えそうなほどに顔が近い。顔をそらしたいところだが、なぜかできなかった。
立てた人差し指を俺の顎あたりに当て、顔をさらに近づけて俺の耳元へ。
そして囁くように、そっと口にした。
「ねえ、先輩。もしかして、浮気ですか?」
やっぱりそれかと、俺は頭をうならせた。
店の中から彼女を見つけ、そして目があった時やばいとは思ったんだ。
彼女の声色自体からは怒りは感じなかった。彼女自体も束縛は激しくもないし、嫉妬深いわけでもない。今の彼女はそれこそまるで普段の会話のような調子なのに、俺は心臓を鷲掴みにされたような心地だった。
きっと彼女は俺が浮気をしていないとわかっていると思う。だけどなぜ聞いてくるのかと言えば、やっぱり不安だからなんてかわいいものじゃなく、きっとそれは俺の反応を見て楽しみたいから。全て憶測だが、彼女との付き合いもそこそこ長い。それくらいなら察することができる。
「ねえ先輩。どうなんです?」
生温かい息が俺の耳をくすぐった。ゾクゾクとした悪寒が背中を駆け上がる。
彼女がわかっているなら、そんな考える必要もない。『あれは浮気じゃない』と、ただ事実を口にすればいい。いいのだが、どうにも俺は変なところで律儀らしい。何もやましいことはないのに、もしかしたら彼女に不快な思いをさせたのかと、不安な気持ちにさせたのかと、罪悪感が付いて離れない。
彼女の肩を掴み、俺から引き剥がした。彼女の息の代わりに耳元を撫でる風がやけに冷たい。虚をつかれたように目を少し見開いた彼女が、少しおかしかった。
「あれは、ただの友達だ。勉強を教えて、そのままお礼に飯をおごるって言われたんだ」
思ったよりもその声は強張っていた。
納得してくれただろうか。何か言われるだろうか。
そんなことを考えながら彼女を見つめるが、キョトンとしたまま動かない。
どうしたんだろうと首を傾げた時。突然彼女の表情は崩れ笑みを浮かべ、フフフと楽しそうに笑いだした。
「可愛いですね、先輩は」
そっと、一言。
「私が先輩の反応を見て楽しんでいるのを分かりつつ、それに乗っかってくるところも。私が先輩は何もやましいことをしていないとわかっていることを知りつつも、罪悪感を感じているところも。適当にあしらえばいいのに、わざわざ律儀に弁解するところも」
彼女の両手が俺の頬を包む。彼女の手はやけに冷たく感じた。
何がそんなに待ってないだ。こんなに冷たいのにやせ我慢して。
急に愛おしくなり、そっと彼女の両手に自分の両手を重ねた。
彼女にとって意外だったのか、キョトンとした顔になる。だがそれも一瞬。すぐにいつもの笑みを貼り付けた。
「可愛いですね、先輩は」
「それは褒めてるのかバカにしてるのかどっちなんだ?」
「褒めてますよ。絶賛です。大手を振って喜べばいいんですよ」
「男としては可愛いと言われても少し微妙なんだけどな」
「先輩は男を語れるほど男っぽいわけでもないでしょう」
「……うるさいな」
否定しきれずに顔だけそらした。そんな俺を見て、いつも通り彼女はクスクス笑っている。
「でも――」
彼女のそんなつぶやきとともに、俺の体に重さがかかった。体の正面に感じる人にしては軽めの、しかし確かな重みと温かな温度。肩に顎が乗せられ、甘い香りが鼻腔をくすぐる。彼女の冷たい両手が俺の背に回された。
「好きですよ、先輩」
「っ!」
彼女はそう呟いた。俺の耳元で、囁くように。
一気に顔が赤くなる。心臓も急に鼓動を刻むのが早くなって、息苦しさすら感じた。
くそ、俺はどれだけ初心なんだ。
だが彼女は普段からそんなこと言わない。一年近く前彼女から告白を受けた時以来だろうか。いつもそんな感情をほぼ見せることなく、ひたすらにからかってくる彼女だからこそ、その言葉の威力は計り知れなかった。
唯一救いがあるとすれば、今ハグをしているから彼女に真っ赤な顔を見られないことだろうか。
「おや、照れてるんですか? 先輩。初心ですねー。男子高校生とは思えないほどに初心ですねー」
「っ!?う、うるさい!」
誤魔化すように俺も腕を彼女の背に回し、力を込めた。彼女は「お」と驚いた声を漏らしつつも、抵抗することなくなすがままに。
誤魔化そうとした結果さらに恥ずかしいことをしているのに気づいたのは、一〇分後彼女に言われた時だった。
◆◆◆
〜おまけ〜
「ふむ」
俺の後輩であり、恋人である彼女はそう息を吐いた。
「これは……一体どういうことでしょうか」
腕を組みながら、机の上に並べられた五枚の紙を睨みつける。
ここはいつぞやに友人と夕飯を食べに来たレストラン。昼間だと言うのに思ったよりも客入りが少ないのは、今日が平日だからだろうか。そうは言っても客が少ないわけではない。老若男女のざわめき、窓の外で響く車の音。全てが耳に入っていないと言うかのように、意識をまっすぐその五枚の紙に集中させている彼女は、よっぽど頭を悩ましているようだ。
「先輩。わかりますか?」
黒真珠のような瞳が俺を捉えた。コテンと首を少し傾け、黒いショートヘアがわずかに揺れる。
「どう言うことってお前――」
そこまで言って俺も紙に視線を向ける。
A4の紙を見てまず目につくのは紙上に乱雑に散らばる赤い丸とバツ。比率で言えば、バツの方が多いようだ。そして紙の右上あたりに一〇から三〇あたりの数字がデカデカと鎮座している。
それが計五枚。
そこで俺は視線を彼女に戻し呆れ気味にため息を漏らしつつ、一つ口にした。
「お前の頭が悪いってことだよ」
彼女が固まってたっぷり一〇秒。そこでようやく彼女は息を吐いた。しかもムカつくことに、かなり哀れみを含んで。憐れみたいのはこっちだというのに。
「まったく。先輩は本当に馬鹿野郎ですね」
「バッ……!? ……お前に言われたくはないな」
「そんな私の頭が云々はこのテストを見れば一目瞭然ではないですか。なに馬鹿正直に当たり前のことを口にしているんです? 彼氏なら、テストの結果が悪く落ち込む彼女の私を誠心誠意慰めるべきです」
「もっとあからさまに落ち込んでくれれば、俺もそうできたんだけどな。……いや、すまん」
「……まったく、まったくです。やっぱり先輩は馬鹿野郎ですよ」
俺は気まずげに視線を逸らした。その先でグラスに入った水が、光を反射してゆらゆら揺れている。
落ち込んでいるように見えないんじゃない。彼女が落ち込んでいるように見せてないだけだ。
それをどこかでは分かりつつも無神経なことを口にしたと、自己嫌悪に陥った。
普段の行動や落ち着いた雰囲気からは意外だが、彼女はすこぶる頭が悪い。特に暗記系がひどい。平均点を超えたところを見たことはないし、いつも赤点ギリギリ。そのくせ本人は真面目できちんと勉強してるんだから、また救えない。
「お前、今回頑張ってたもんなぁ」
「ですね。がんばったんですけど、なんででしょう」
彼女ははぁと一つ息を吐きながらテスト用紙をしまい込んだ。ムキになって破いたりクシャクシャにしないあたり、なんとも彼女らしい。
俺自身もため息をつきたい気分だった。
彼女がどれだけがんばったかは知っている。放課後は毎日残って勉強していたし、家でももちろん勉強していた。わからないところは積極的に俺にも聞きに来たし、勉強会もした。勉強会と称したおしゃべり会ではなく、本気の勉強会。
これだけやってあれなのだから、なんとも声をかけづらい。
彼女自身、かなりくるものがあったらしい。彼女はあぁぁと唸りながら机に突っ伏した。
「もういいです。勉強なんて知りません。あんなもの社会に出たら使わないじゃないですか」
「算数のできない小学生みたいなことを……。社会に出たら使わなくても、社会に出るために使うんだよ」
そう言えば彼女は顔だけあげて俺を睨みつける。正直俺が睨まれる筋合いはない。だが彼女の気持ちがわからなくないともまたつらいところ。特に何かを言うこともなく、俺はそれを受け止めた。
「で、実際何があったんだよ。事前に確認テストみたいなのをやった時、まあまあ解けてただろ」
テストの前日の勉強会で、俺は過去問やら出そうな問題をまとめた簡単なテストのようなものを彼女に解かせた。彼女はそれを七〇点くらいは取れていたのだ。
問題があくまで俺の予想とはいえ、そこまで外れてはいまい。ならなにか、他に理由があるはず。
そう彼女を見つめれば、彼女にしては珍しく逃げるように顔を逸らした。
俺はそれに疑問を覚える。彼女が俺から逃げる? なんならいつも俺の一歩先で、からかうように俺を見下げている彼女が?
よくよく見てみれば、どことなく顔も赤い。
少しの間彼女を見ていると、彼女は視線だけこちらに向けた。そして諦めるように息を吐くと、俺に向き直る。だが相変わらず視線は逸らしたまま。
「……あれです、あれ。その、ご褒美のことを考えてたら、集中できず……」
「ご褒美って……あれか……」
今度は俺が視線を逸らす番だった。
彼女の言うご褒美とは、テスト週間に入る前に約束したことだ。つまり、『一つでも平均点を超したらキスをしてやる』。
もちろんこんな上から目線じゃないし、言い出したのは彼女だ。
彼女はキスは俺からするなんてよくわからない考えを持っていた。だが俺は自他共に認めるヘタレだ。未だできたことはない。いい加減しびれを切らした彼女が俺に発破をかける意味でも言い出したのが、その『ご褒美』。
正直意外だった。あれは彼女がふざけて言い出したことだと思っていたし、それを本気にしていたかはともかく、それが原因でこいつが集中力を切らすなんて。策士策に溺れるといったところか。
そんな感情が視線に出ていたのだろう。彼女は不満げに眉をしかめながら俺を見つめ返してきた。
「そもそも先輩がさっさとキスをしないからこんなことになったんです」
「無茶言うな。俺はもれなく最近増加中の草食系なんだ。ヘタレなんだ。そんな簡単にできれば苦労しない」
「草食系だの、ヘタレだのを逃げ道に使うのはやめたほうがいいのでは? 男ならヘタレだろうが時には勇気を見せてくださいな」
「男なら、とか言うんじゃないよ。俺はそう言うのがあまり好きじゃないんだ」
「全く先輩は馬鹿野郎ですね。性別に違いがあるんですから、扱いに違いが出るのは当たり前です。さっさと勇気出してください。さっさとガッとしてチューしておせっせです」
「仮にも女子なんだからそんなこと言うもんじゃないぞ」
「私、女子だからとか言われるの嫌いなんですよね」
「奇遇だな。俺もだ」
中身があるようなないような、いわゆる雑談をたらたらと昼間ののんびりした空気に垂れ流した。
気がつけばテストが悪くて落ち込んだ空気とか、だからこそ少し尖った雰囲気とか、全てなくなっていつも通りになっていた。
うん、やはりこれが一番いい。全て忘れて、なんて言うのは褒められたことじゃないが、いつまで引きずってもそれはまた意味がない。テストというちょっとした非日常を少しだけ引きずりながら日常へ。それが一番いい。
時計の短針が真上の時に来店して、気づけばもう二時間。店の客も少なくなり、かなりまばらになっている。
最近冷え込んできたとはいえ、朝や夜に比べれば昼間は暖かい。昼飯を食べた後ということもあり、宙に浮いたような不思議な心地になり始めていた。
彼女もそんな調子だろうかとそちらを向けば、彼女は「どうしました?」と首を傾げてみせる。ぱっと見そんなことなさそうだが、よくよく見てみれば少し目の開きが浅い。
「そろそろ行くか」
そう提案した。
このままここにいたら、下手すれば寝てしまうかもしれない。
「ん、そうですね。どこに行きますか?」
「あー……ま、家でいいんじゃないか?」
「……先輩。確かに私は先輩の性欲を鼓舞するようなことを口にしましたけど、急に言われても私困ってしまいます。心の準備とか――」
「ちがうわ」
自分の体を抱くような体勢をやめながら、「なんだ」とつまらなさそうに彼女はつぶやいた。
テスト終わりで疲れているだろうし今日は解散でいいのでは、という意味で俺は言ったんだ。自分で言って情けないが、そういうことはまだ無理だ。欲求がないわけではないが。
伝票と自分の荷物を持ち机に手をついて立ち上がろうとしたところで、ふとあることを思い立つ。
「…………」
……バカなんじゃないのか、俺は。無理、無理だ。
でも彼女も結果こそついてこなかったが、頑張ったのは事実。それに俺自身それをするのはやぶさかでもない。
でも……。
「先輩、どうしたんです?」
机に手をついて少し腰を浮かした状態で固まった俺に、彼女はそう声をかけた。
「彫刻の真似事のつもりですかねー。もしそうだとするなら、少し容姿が……」
「確かに自分はイケメンではないって自覚はしてるけど、それが彼女のセリフか」
「容姿の話題に彼氏彼女友人他人は関係ありませんよ。あくまで客観的に。もちろん贔屓というのもある人もいると思いますけど、私はありませんし。それはともかく、本当にどうかしました?」
黒い瞳が俺を捉えた。特にやましいことはない。いや、やましいと言えば確かにやましいのだが、つい逃げるように顔をそらしてしまう。
「いや、あー……なんでもない」
「……まあいいです」
彼女は興味なさげに視線を逸らす。俺が言わないというのを察したのだろう。
あー、クソ。もういい、やろう。もうやけくそだ。
頭を乱雑に掻きむしった。
今度こそ席を立つ。そして立ち上がろうとしている彼女を見つつ、足早に彼女の隣へ。次いで、軽く肩を叩いた。
すると荷物の整理をしていた彼女はこちらを向いた。雪のような肌。黒真珠のような大きな瞳。いつものムカつくニヤケ顔はそこになく、ただ純粋に俺を見つめていた。それを見てつい、決意が鈍りそうになる。
いや、せっかく彼女も頑張ったんだ。俺も頑張らないと。
自分にそう鞭を打つ。
自分の顔を彼女に近づけた。足を曲げ座っている彼女に高さを合わせつつ。
きっとそれは他人にとってはなんてことないことなのかもしれないが、自分で認める通り俺はヘタレだ。心臓がうるさい。
人形のような顔が近くにあり、さらに鼓動が早くなるのを感じた。
「ああもう、なるようになれ……」
俺は彼女に顔を近づけて。
そっと、頬にキスをした。
「――――ッッッ!!!」
瞬間、彼女の顔が爆発したかと思うくらいに一気に赤く染まった。
肩は大きく跳ねて、頬は真っ赤に上気して。
それだけ見届けると、俺はとっさに背を向ける。そしてゆっくりとだが歩き出した。
「ぇ……ぁ、ぅ……せ、先輩はやはりヘタレですねー。どうせなら口にすればよかったのに」
「うるさい。無理だ」
頬にキスするだけ。それだけなのにここまで心臓が痛くなるものか。頭もうまく回らず、彼女への返答もやけに端的なものになってしまう。
今は雑多な周りの騒音や、ほのかに残っていた料理の香りも何も感じない。感じることができない。それくらいに俺の頭は真っ白だったし、羞恥に染まっていた。それをごまかそうと自然と足は早くなり、彼女も俺を追って隣に立つ。俺は無意識に顔をそらしていた。
「……別に、今回はダメだったけど頑張ってたから。それだけだ」
「…………」
それだけ言い残してさらに歩くスピードを上げた。さっさと会計を済ませて外に出たい。外に出れば少しは熱くなった顔も頭も冷えるだろうから。こんな顔を彼女に見られたくはなかった。きっとからかってくる。
俺が歩く速さを早めれば自然と彼女との距離は開く。彼女が俺の横から離れていく、その瞬間。
「……ほんと、先輩は馬鹿野郎ですね」
セリフとは裏腹に心地いいその声が俺の鼓膜を揺らしていた。