6話 それからの事とこれからの事
――それからの時間は長かった。
特に何かが変わったということはないのに一日がとても長く感じられる。
お昼を食べる場所が変わった。
一緒に食べる相手が変わった。
ただそれだけ。
これまでずっと過ごしてきた毎日に戻っただけ。
ただそれだけなのに
毎日が、とても虚しい――
「海咲、海咲、みーさーきー」
「ん?あぁ、英美ちゃん。どうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ、さっきから呼んでるのに」
「あ、ごめん。聞いてなかった」
「んもぅ、あれ以来ずっとそんな調子なんだから。だいじょうぶなの?ちゃんとご飯食べてる?」
「うん、だいじょうぶだよ。だいじょうぶ」
と返す海咲の言葉にはまるで気力がなかった。心に重症を負った友を前にどうしたものかと英美はため息をつく。
「重症だねこりゃ」
「まさか海咲がここまで恋愛中心になるタイプだったとはねぇ」
「今はそっとしておいたほうがいいよ」
「そうね。初めてのことだし、傷を癒す時間も少しは必要かもね」
――それからの時間は短かった。
特に何かが変わったということはないはずなのに一日がとても短く感じられた
昼を食べる場所が変わった
昼食の献立が変わった
それだけのこと
自分の本来あるべき姿に戻っただけのこと
それなのに
なぜこんなにも飯が美味しくないんだろう――
「これ、夏川君のでしょ?コピー機に印刷しっぱなしだったわよ」
「あっ、すみません。ありがとうございます」
「次の授業の準備はできてる?」
「はい、ばっちりです」
「そう。あら?前の時間に集めたノートは?」
「え?あ…あれ?前の教室に置き忘れてきちゃったのかな…」
「大丈夫?ここ最近なにかとぬけてることが多いけど、疲れがきてるんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。すみません」
――それなのにどうしてだろう、何も変わらないはずなのになにか違う
――それなのにどうしてだろう、やるべきことをこなすだけで時間が足りないほどなのに何かが足りない
――自分の心の中に空白が住みついているような感覚を常に感じている
――暇がないほどの日常に追われていても、埋まることのない物足りなさを常に感じている
――たったひとつ
――そう、たったひとつの些細なもの
――ほんの少しのものだけど、いちばん大切なもの
――離れて始めて感じた
――自分の中の、その存在の大きさに
――失って始めて気づいた
――自分の抱いている正直な気持ちに
海咲と夏川の間に溝ができて何日経っただろうか。あれ以来、周囲もその事には触れないようにしていたが、何を思ったのか、英美がおもむろかつ唐突に話題を切り出した。
「ねぇ海咲~。あんたこのままでいいの~?」
「ん?なにが?」
「夏川先生のこと」
「ちょ、この前そっとしておこうって話したばっかりだろ」
「そう思ったけどやめた!このまま放っておいたら海咲が立ち直る前に教育実習期間が終わっちゃうわ。やっぱりあたし、このままじゃダメだと思うの。あんた最近、夏川先生から避けられてるでしょ?」
「え…う、うん。たぶんそうだと思う」
「どうしてかわかる?それはね、あんたのことが好きだからよ!」
「どうしてそうなるのさ」
外野手・佐田のするどい送球が光ったがこれを英美はヒラリと躱す。見当違いなツッコミに指をさし興奮度をさらに増す。
「しゃらっぷ!お子様ランチは黙ってなさい。いい?本当に夏川先生があんたのことをなんとも思ってなかったら避ける必要なんてないのよ。普通に先生と生徒として接すればいいだけ、自分でそう言ったんだから。だけどそうできない、それはなぜか!それはね、先生があんたを意識してるからよ。夏川先生が海咲に向けて特別な感情があるからあんたとの接し方がわからなくてついつい避けてしまっているのよ」
「僕の推測が正しければ夏川先生も海咲ちゃんに負けず劣らず自分の気持ちに鈍感なタイプみたいだからね。そのうえ不器用。あの時の行動もなにかに影響されての事だと思うんだ」
「まったく、だいたいあのヘタレンジャーがもっとしっかりしてれば海咲がこんなに悩むこともないってのよ。男ならもっとこうガシッときてグワッとしてグイッって感じで。ねぇ」
「ねぇ、と言われてもその説明はまったくわかんないよ」
相変わらずの秋園節を炸裂させる英美。その主張には不甲斐ない夏川への憤怒が咲き乱れていた。しかし海咲はそれに急き立てられることなく、ゆっくりと口を開いた。
「でも、先生が言ってたことは理解できるし。伝えるほうも辛かったと思うんだ。ずっと私が一方的にいろいろ押し付けちゃってて申し訳なかったなって。それをちゃんと、はっきり言ってくれたんだから、そ
の事は感謝しないといけないと思うの。だから私もそれで納得しなきゃいけないと思う」
そう言いながら海咲は眉をハの字にひそめたまま、笑ってみせる。しかしその苦しい笑顔は英美にとってはさらにモヤモヤを掻き立てられる燃料にしかならなかった。
「うああああああもうっ!どこまでお人よしなの!?いいえ、そんなのお人よしでもなんでもないわ。ただの泣き寝入りのお蔵入りよ!教師だの生徒だのそんなこたぁ関係ないのよ。前に海咲にも同じ質問した
ことあったわよね。夏川先生が学級委員海咲をどう思ってるかじゃないの!いち夏川好樹が春風海咲という女の子の事をどう思っているかってことなのよ!!」
「きっとこのまま二人が自分の気持ちを偽り続けたら、それが自分の本心なんだと思い込んで本当に敬遠になってしまうよ」
「そうよ。夏川先生だって海咲の事が好きなのは確定的明らかなんだから!今この瞬間素直になれなかったら2人は今後一生疎遠になるのよ。それでもいいの?」
「それは……嫌だけど」
「そうでしょ、愛し合う二人がひとつになれないなんてそんな世の中は間違ってるわ。運命の相手とは絶対ぜ~~ったい一緒にならなきゃだめなの!」
「海咲ちゃんもまだ自分の気持ちちゃんと伝えられてないし。夏川先生の本当の気持ちも聞けてない。二人はまだ全然終わってない。ううん、まだ始まってすらない。動くならもう今しかないんだよ」
「うん~。でも、私どうしていいのかも…」
「あ~~~もうじれったい!わらわは退屈しておるのじゃ~~~~!!なにかイベントのひとつでも起こしてみせぃ!」
「ここまできといて本音それかよ!」
佐田、3投目の投球にしてやっと正論を吐く。しかしもともと相手にされているわけでもなく、スルーされ話は進んでいく。
「はぁ…なにか一発逆転の秘策でもないかしら」
「あ、おまじないしてみるとか」
「おまじない?」
「あったろ。瀬那美川高校に古くから伝わる伝統の恋のおまじない」
「そんなの………もしかして、体育館のあれのこと言ってんの?」
「あれはだめだろう、ていうか無理だろう」
「あんなの論外よ。詳細不明、効果も不明、そもそもやる人もいないのになんでそんな噂が生き続けてるか自体が意味不明だわ。却下よ却下。そんなのよりもっと現実的な方法を考えるべきだわ。食パンくわえた海咲が夏川先生とぶつかるとか。男子トイレで」
「どうやったら女の子が男子トイレで食パンくわえる状況になるんだよ」
「とにかく!なんかこう、うまい具合にメルヘンチックでノスタルジックな状況に二人をおとしいれてやるわ。覚悟しとしなさい!もうこれ決定事項だから。そうと決まればさっそく作戦会議よ。さぁみんなついてらっしゃい!」
「イエス!高○クリニック!」
「がんばってね」
「なに他人事みたいな顔してんの佐田、あんたも来るのよ」
「えぇ、なんで俺まで」
「いいからきなさーい!」
英美は嫌がる佐田の首を捕まえて無理やり引きずっていく。
「あしたはホームランだぁ!」
教室の向こうから英美の勇む声が響く。
「あっ、ちょっと…、いっちゃった」
教室にひとり置いていかれた海咲。英美達のおかげか、諦めていたその瞳に少しだけ輝きが戻っていた。
一方その頃、夏川が廊下を歩いていると窓の外から声が聞こえてきた。
「せーんせっ、調子どうよ」
「村井…またさぼりか?」
「まぁまぁそう言うなって。それよりおまえの方はどうなんだ?」
「あ?なにが?」
「あの~…なんだ?春風ちゃん、だっけ?」
「海咲がどうかしたのか?」
「下の名前を呼び捨てか、好きなんだろ?」
「は?俺が海咲をか?」
「ほーらやっぱり気づいてない。そういうところは相変わらずか」
「俺は別に――」
「気持ちがわからなくても自分のとってる行動振り返るりゃわかんだろ。側から見てて気づかない方がおかしいっつの」
「………」
そう思わないようにしていた。そう思われないように振舞っていた。しかしそれでも、そうかもしれないという思いも夏川自身も持っていた。確信を突く村井の言葉に返す言葉はなかった。
「さて、夏川君は自分の気持ちにきづいてしまいました。彼はこれからどうするのでしょう」
「……」
「まぁ俺はお前の好きにしたらいいと思うよ。優しい優しい夏川君が勇気を出して突き放したんだもんな。ただこのまま終わらせてしまうのも酷だな~と思って。お互い宙ぶらりんだろ。おまえも、あの子も」
「どうしろっていうんだよ」
「さぁ」
「俺は教師であいつは生徒だぞ」
「まっ、確かに今の俺たちは先生といえば先生だ、一応な。少なくとも大半の生徒からはそう見られてる。でも所詮は教育実習生、ただの大学生だ。そんなもんに縛られることもないっしょ」
「そういうわけにはいかないさ。それにこのまま続いたところで海咲を傷つけるだけだ」
「それこそお前次第だろ」
「とにかく俺はもう海咲とこれ以上特別な関わりを持つ気はない」
そう言い捨てて夏川は行ってしまった。
「ほんと、わかってねーなぁ。そういうもんじゃねーんだよ、恋ってのはさ」
海咲はひとり、教室で悩んでいた。秋園と剣谷の二人に強く諭されて、自身の感情の中に夏川を想う気持ちが存在するということはぼんやりと感じるようにはなったが。しかし、これからどうすればいいのかとなると、どうしていいのかまったくわからず身動きが取れないでいた。ただ、夏川の事がグルグルと回り続けるばかりでその先に何かしらの答えがでる目処はまるで立たないでいた。
海咲(わたしは、どうしたいんだろう…)
剣谷『二人はまだ全然終わってない。ううん、まだ始まってすらない。動くならもう今しかないんだよ』
秋園『今この瞬間素直になれなかったら2人は今後一生疎遠になるのよ。それでもいいの?』
(わたし、やっぱりこのままじゃ…)
「まったく、いつもいつも。いててて――」
「佐田君!」
2人から解放されて教室に戻ってきた佐田。その姿に海咲にひとつの考え浮かび、食い入るように迫った。
「ん?なに?」
「あの、さっき話してたおまじないってなんなの?」
「あぁ、あれ。海咲ちゃん知らないんだ。あれはね――」