船上の池鯉鮒衆
水平線近く、鰯雲が僅かに見える。それ以外は深い碧一色に染められた空。
海から吹き込む晩秋の風が頬を刺す。
「今日は冷えるな。明六つの鐘がなったってのに」
尾張の国、知多湾に面した鳶ヶ崎のうら寂しい浜。
仙太郎は岩場の奥に隠してあった小早と呼ばれる小型の軍船を引っ張り出しながら、仙太郎は白い息を吐いた。
「手がかじかむぞ、ちゃんと手袋はめとけよ」
「あ、は、はいっ」
腰掛けて竹筒から水を飲んでいた雲二郎は、慌てて懐から馬の革でできた分厚い手袋を取り出した。
「ほら雲も手伝え。予定の時刻より半刻近く遅れてるんだ」
いそいそと船を後押しする雲二郎。
仙太郎は船体のあちこちを叩いて不具合が無いか確認する。
「あとな、雲。ここまでの道中急いだから喉が渇いたかも知れんが、船上では水不足になりがちだ。無駄遣いするなよ」
雲助が長崎から帰って二週間が経った。
道場での修練だけでなく、池鯉鮒衆の一員として妖怪退治の実戦に参加しなければならない。
「今日の相手は手ごわいぞ。海の妖怪はお前たちも初めてだろ。さ、一緒にこれを引っ張ってくれ」
「重いね。この船」
「当たり前だ。図体は小さいが重装備だからな、ちなみに池鯉鮒丸ってんだ。ああ、善丸は船首の方を見ててくれ」
仙太郎に指示されるがまま雲助と善丸、そして同行する池鯉鮒衆三名は太い縄で引っ張り、船を海に浮かべた。
知多半島一体では最近人さらいが頻発しているという。
三河湾に浮かぶ佐久島周辺の島々に棲みついていると噂される妖怪・磯天狗の仕業と睨んだ池鯉鮒衆は、早速その退治に乗り出したのだ。
「しかし、お前の親父さんは大したやつだ。漁師になりすましてこの件を調べ上げるのを三日で済ませるとは」
仙太郎は善丸の肩をポンと叩いた。
「あ、ああ…しかし」
ふうっと溜息をつく善丸。
「親父が立派すぎるのも良し悪しだ。毎度比較されたんじゃかなわねえ」
ふっと微笑む仙太郎。
「ん、今日はそんな言い草してねえぞ。ま、お前ももう少し役に立ちゃいいのに、と常々思っちゃいるが、な」
「ほら、結局言ってる」
笑顔を波しぶきに濡らしながら、船は沖へ進んだ。
湿った海風がかなり強く吹き付けてきた。
「この風なら遅れを取り戻せる。磯天狗は朝のうちは動きが鈍いはずだからな。さっさと片付けちまおうじゃないか」
「おう」
一同の声が船上に響いた。
「見ろ、あれが佐久島。天さんが調べたところによれば、棲家はあの裏にある小さな島・筒島だ」
出航してから一刻。
海風が強いのは船にとって悪くないが波が高いのは困りもの。予定よりも随分時間が掛かってしまった。
「北側に回るぞ、向かい風がキツイ。帆を詰め開きにしていっぱいに取り舵だ」
島影は徐々に大きくなる。
南側にくぼんだ様に湾をつくる佐久島の北を一旦横切って船は島の南東、高い山に身を隠すように浅瀬を進む。
「一歩間違えたら岩礁に乗り上げちまう。ここは俺が舵を取る」
険しい目つきの仙太郎。
「ようし、今度は面舵、面舵いっぱいだ」
細やかに舵を切りながらスムーズに船は島の南東の端を回り込んだ。内陸部には約千五百年まえから入植した漁民が細々と暮らす集落が見える。
弧状の海岸線は陽光にキラキラしている。本島の南東には、連なるように並ぶ岩礁で出来た小島が二つ。
善丸の父、天兵衛が描いた地図を手に、仙太郎が小さいほうの島を指差した。
「あれだ。小さい方」
天兵衛は海難に遭ったと装い地元に紛れ込み、三日で調べ上げて詳細な情報を地図に書き込んでいた。
「筒島…弁財天の社があるそうだ。なになに、この辺りで獲れる大アサリと蛸は絶品の美味さ…ほう、こんなことまで」
感心する仙太郎。しかし残念そうに息を漏らした。
「天さん、流行り風邪なんぞ拾わなかったら今日は同行してくれてたのになあ。まあ止むを得ん。頼むぞ善丸。親父さんの分までしっかり、な」
「そうだな、俺もそろそろ手柄の一つでも…」
「しっ、見ろ。あれだ、あそこだ」
はやる善丸を制しながら、仙太郎が指差したのは筒島の西端。生い茂る木々の間からうっすら紫がかった煙が揺らめき上がっている。
「ようし…」
仙太郎がぐい、と帯を締め直した。
「天さんの調書によれば、磯天狗は大きな翼でかなり俊敏に飛ぶそうだ。あとは背中に分厚い甲羅を背負ってる、気をつけてかかれよ」
「えっ」
雲二郎は驚いて仙太郎の顔を覗き込んだ。
「も、もう攻め入るの?」
「当たり前だ」
「しかし、いきなりとは…彼らの言い分を聞くとか、話し合いで解決した方が…」
「なに甘っちょろいこと言ってんだ、雲。生ぬるいこと言ってる間に皆殺しにされちまうぞ」
「でも…向こうだって生き物だし悪いやつばかりとは」
「人外すべて抹殺すべし、これは掟だ。そして何事も、先手必勝なり」
仙太郎は甲板に置いた大きな木箱を開け、中から矢の束を取り出した。それぞれの先端に黒い麻袋が結わえ付けられている。
「これが『一の矢』だ。早速やるぞ」
さらに木製の枠組みに弓がくっついたような装置を取り出した。
「これが照準台だ。さあ一人一つ持って舳先に並べ」
手元には遠眼鏡と計算尺が付いている。
「遠眼鏡を合わせると自動で距離がわかる仕組みになってる」
計算尺に距離を入力すれば、張力を割り出して弦を引く長さと射出角度が設定される。
「狙いを定めたら、あとは風の強さと方向を入力するのを忘れれるなよ。さあ」
仙太郎が声を張り上げた。
「撃てっ」
ひゅうっと風を切る音とともに矢は放たれた。南風に流されながらも計算どおりに着弾したようだ。筒島の西端には濛々とした黒煙が立ち上りはじめた。
「ふふふ、思い知れ人外め」
仙太郎がニヤッと笑った。
「一の矢は毒矢。微粒子にしてあるからな、あっという間に島中に広がるぞ。ヤツらの慌てる顔が目に浮かぶようだ」
ほどなく、筒島から幾つもの人影が飛び立つのが見えた。
「人じゃない。来るぞ…磯天狗が」
つづく