変わったもの、変わらないもの
長崎での修行を終え帰郷した雲二郎と、すでに尾張裏柳生家の頭領としての風格を身に着けていた兄、仙太郎。
まだ十代後半の二人は真新しい道場で一汗流した後、雲二郎歓迎の宴の中にいた。
「すごい、こりゃあすごい」
次々に運ばれてくる蜂龍盃の一升瓶。奥三河の湧水で作られる純米酒であり、元禄年間から銘酒として名高い。
「雲二郎が逞しくなって帰ってきたんだ。今日は盛大にやるぞ、無礼講ってやつだ」
先代亡き後の頭領代理を務める仙太郎の声に、一同の歓喜が続く。
「ああ、飲むぞ飲むぞ。今日は飲むっ」
「久々に本家の兄弟が顔を揃えたんだ、こんなめでたいことは無え」
「そうそう、最強の兄弟のお出ましだ。退治される妖怪の方がむしろ可哀相なくらいだ」
並べられた料理は豪勢そのもの。
三河湾で採れた大粒のナミガイ、身の締まったアマゴや今が旬の三河ナス。近海で獲れた河豚もある。
「さあ食え、雲二郎。長崎じゃあもっと珍しい料理もあっただろうがな、見てみろ、地のもんだって負けちゃいねえ」
「ああ、兄さん。異国の宮廷料理だってこれにゃ敵わないよ」
久しぶりの実家という懐かしさも手伝って、食べ慣れた味はこの上なく美味に感じられた。
「ここが俺たちの王宮さ」
仙太郎と雲二郎、まさに食べ盛りの年頃の二人は腹がはち切れんばかりに食べ、そして飲んだ。
夜も更けようかという頃、そっと本殿の引き戸が開いた。
「失礼いたします」
桃割れに結われた艶のある黒髪の娘。髷には鮮やかな橙色の根掛、鬢の流れも優美で、銀の簪が行燈に照らされ光っている。
「雲二郎さま。無事のお帰り、心より嬉しゅうございます」
藤紫の振袖を優しく払いながら、女は雲二郎の前で膝を折り深々と頭を下げた。
「首を長くしてお待ち申しておりました」
雲二郎は穏やかな笑顔を向けた。
「久しぶりだな…お洋」
洋は三河の呉服屋の三女で、仙太郎や雲助、善丸とは幼馴染。
雲二郎が長崎へ修行に出向いたのと同じ頃、洋も京の仕立屋へ奉公に出たことは訊いていた。
「昨年より池鯉鮒に戻り、こちらでお世話になっております」
京仕込みの和裁による日々の衣類の修繕や仕立は一門にとって欠かせぬ大事な仕事の一つ。加えて最近は、忍用の特殊な衣類、防具なども手掛けている。
「お洋…見違えたな、ますます綺麗に…」
目を合わせようとして、しかし合わせるのが面映ゆそうにしている雲二郎と洋。
そんな二人を見た仙太郎が一つ咳払いをしたのち、大きな声を出した。
「なあ雲、まだお前にゃ言ってなかったが…洋は俺の許婚だ。式典が終わって落ち着いたら祝言を挙げる手はずになってる」
お猪口を口に運ぶ雲二郎の手が、止まった。
「えっ…兄さん、が、お洋の…」
洋は落ち着かない素振りであちこちを見回している。雲二郎から目を逸らそうとしているようにも見えた。
「あ、ええ…」
雲二郎は洋の顔を覗き込んだ。
「お、お洋。お前、あのとき確か…」
雲助の言葉を、仙太郎が遮った。
「そんなわけだから、雲二郎も祝ってくれ、俺たちを。ああ、そしてお前も早く良き伴侶を見つけることだな」
自信たっぷりの兄の口調に、雲二郎は思わず口ごもった。
「は、はい…」
雲二郎は、かつて洋と、幼いながらも将来を契りあったことを思い出していた。
「あたし…雲ちゃんのお嫁さんになるんだ」
互いに齢は十。薄汚れた世間も、生きる辛さも知らぬ子供同士。
雲二郎は、その契りを頑なに信じて修行に勤しんできた。当然、洋もそのつもりなんだろうと信じて疑っていなかった。
「あ、あら。お酒がもう無いわね…」
幾分顔を曇らせた洋が、席を立った。
その後ろ姿をニヤニヤと眺める仙太郎。
「子供だと思っていたが…もうすっかり『女』だな、ありゃ」
「あ、ああ…」
うつむく雲二郎。
仙太郎は大きく息を吐きながら天井を見上げた。
「あの頃が懐かしいな」
洋の実家は刈谷宿にあり、町で二番目に大きな呉服屋を営む。
生まれてすぐ母が病で他界した洋は、父に背負われて得意先を連れ回されながら育った。池鯉鮒の尾張裏柳生家もその一つ。
忍び装束を取り扱っていた父と池鯉鮒の先代、厳柊と特に昵懇であり、歳の近い子供もいることから洋はここに預けられた。
「裏の竹林も、下を流れる男川も。道場だってそうさ。全部俺たちの遊び場だった」
気が強くて責任感の強い仙太郎。その弟、雲二郎。賢くて運動神経の良い善丸。
そして皆んなにとってのアイドル、洋。
幼いくせにどこか垢抜けた空気を放っていたのは、多くの粋人たちが出入りする呉服商の娘だからか、あるいは男手一つで育てられたことによるドライでクールな立ち居振る舞いのせいか。
「あたしねえ、強い人って嫌いなのよね」
洋はよく、そっと雲二郎に向かって話していた。
「自分に自信のある人ってどっか押し付けがましいの。疲れちゃう」
仲間のうちでは一番優しい、否、それは優しさではなくただの弱さだったかも知れないが、チャンバラごっこでも相撲でも、川魚獲りでも鬼ごっこでも、およそ遊びという遊びで一番見劣りする雲二郎に、洋はよく話しかけていた。
押し出しの弱さゆえ、話しかけやすかったのだろうか。
「そして強い人って、みんないつか自分を試しに出てっちゃう。そんなの嫌。自分の事しか考えてない」
うららかな春の日、キツネ狩りに夢中になってすっかり林の奥まで行ってしまった仙太郎と善丸に取り残された雲二郎がひとり堤で花を眺めていた時、洋はそっと近づいて囁いた。
「あたし…雲ちゃんがいいな」
「えっ、僕…僕なんか弱虫で…」
洋は鼻で笑った。
「ふふっ、弱いとか強いとか。そんなのはどうでもいいことなのよ。女の子にとっては」
雲二郎は首を傾げながら、洋の顔を見るのがなぜだか恥ずかしくて、光沢の美しい薄桃色の振袖の柄を目で追っていた。
「ふうん…」
「あたし、ね…雲ちゃんの…」
サッと隣に座った洋は、雲二郎の顔を覗き込み、一瞬、ほんの短い時間だけ、その唇を重ねて立ち去った。
雲二郎が長崎へ、洋が京へ旅立ったのはそれからすぐ後のことだった。
「どうした、雲。ん、何ボーッとしてんだ」
不意に、仙太郎の低い声で、雲二郎は現実に引き戻された。
「また夢想癖か、昔っからだな。いいか、ここでは日々モノノケとの戦いだ。ボーッとしてると殺られるぞ」
残り少なくなった酒を「さあ」と注ぐ仙太郎。
「どうだった、長崎は。異国の術でも習ってきたのか。何か物珍しい武具でもあったか」
「あ、ああ。ええと、あの…」
「なあ雲。お前が居ない間にも、モノノケたちの勢いがどんどん強くなってる。酷いもんだ。この世は奴らに食いつぶされそうだ」
仙太郎は真剣な眼差しで、ぐいと雲二郎に顔を寄せる。
「もう親父もいない。若いなんてのは言い訳にならねえんだ。この手で人々を守るのさ。先祖代々の秘術を継承した俺たちの定めだよ、わかるか。俺たちにしか出来ねえ大仕事なんだ。いつまでも旅気分で浮かれてるんじゃねえぞ」
雲二郎がフッと微笑んだ。
「ああ、兄貴。昔と変わらないな、安心したよ。立派だよ」
生真面目で、真っ直ぐ。誰より一門の安全とこの世の安泰を願い、そのために身を投げ打つことを厭わない男、それが仙太郎という男だ、と雲二郎は知っている。
「変わってない…」
おそらく、洋も、あの頃と何も変わっていないんだろう。
ただ、時は過ぎる。感傷とは裏腹に、人は大人になってゆく。
「なあ、兄さん。僕…」
雲二郎も尾張裏柳生一家の端くれとして勿論、誇りを常に抱いている。一族に化せられた使命は片時も忘れたことはない。
だが方法は必ずしも一つではない、そうも思っていた。
「僕は、長崎で蘭学を習ったんだ…」
「あん、わざわざ遠くまで出向いて、学問を、か…」
蘭学など、と怒られるんじゃないかと内心ヒヤヒヤしていた雲二郎だったが、あらためて兄の度量の大きさを実感した。
「いいじゃないか。お前らしいと言えばお前らしい」
「そ、そうかな…」
「まあ、紙と筆じゃモノノケは倒せんが…雲の言い分も一理ある、な。これからの時代は腕っぷしだけじゃねえ、ココも必要ってわけか」
仙太郎は頭を指で指す仕草をしながら、豪快に笑ってみせた。ごつい手で器用に目の前の河豚をさばき、いかにも美味そうな切り身を雲二郎の皿に取り分けた。
「毒は確かにヤバい。だが毒にビビってちゃあいつまでも美味しいとこにゃ辿りつかん」
雲二郎の顔を見てニヤッと笑う。
「料理にゃウデも大事。だが毒を知る、その知識も必要ってことだな。確かに」
ぴりり、と響く河豚の味に舌鼓を打ちながら、二人は顔を見合わせてニッコリと笑った。
「なあ、雲。今や毎日のようにモノノケ絡みの騒動が起きるようになっちまった。百周年だの浮かれてばかりもおれん」
仙太郎が杯を掲げた。
「これからは俺とお前、兄弟二人で力を合わせてやっていくぞ」
雲二郎も杯を突き出してカチンと合わせた。
「うん。兄さん」
「俺は一層武芸に精を出す。お前は、ああ、お前なりのやり方でいい。力を貸してくれ」
「是非も無いよ。兄さんは歴代で一番若い頭領かも知れないが、僕と二人で最高の時代を作りあげようじゃない」
「頼りにしてるぞ。なあ雲、お前はもともと剣術の才がある。学問だけじゃねえ、実戦で腕に磨きを掛けてくれ、早速明日からでも、な」
頷く雲二郎。その肩をポンと叩いた仙太郎。
「ああ、俺もお前に教えてもらおうじゃねえか、学問てやつを。支えあい、補い合う。兄弟ってのはそういうもんだ」
ふと、調理場を通りかかったのは善丸。
日課である父からの忍術指南のため遅れはしたが、雲二郎帰還の祝いに、清水から取り寄せた鯛を片手にやって来たのだ。
「あれ、お洋ちゃん…」
追加の酒を取りに来たはずが、すっかりうわの空だった洋は善丸の言葉で我に返った。
「あ、あっ。ぜ、善さん…うん、今。今ね、お酒を持っていこうと」
目を伏せる洋の頬にうっすら残る涙の跡を、窓から漏れ入る月の光が照らし出していた。
「お洋ちゃん、やっぱり雲のこと…」
たくさんの徳利を盆に乗せた洋と、鯛をこれみよがしに掲げる善丸が宴席の扉を開けた。
「お帰り、雲の字。おお、すっかり出来上がってるな、御曹司の兄弟め」
ちょっとわざとらしいくらいに大きな声を張り上げる善丸。
「ほうら、見ろよこのお頭付き。ああ、目出度いめでたい。さあ食うか」
「おい善の字、こちとらもう腹いっぱいだっての。遅いじゃねえか」
仙太郎が「かけつけ」とばかりに杯を差し出す。ぐいと飲み干した善丸。
「ちっ、お前さん達のように出来た血筋じゃねえんでな、こちとら。こんな時間まで居残り修行だよ、ったく」
「相変わらず厳しいな、お前の親父さんは。だが血筋って言うんなら、善丸の親父さんこそ最高じゃねえか。三国一の忍びの草だ、その才能をお前さん引き継いでるなんて羨ましいったらねえぞ」
「才能? んなもん知らねえよ。ただ、親父の仕事に俺も誇りを持ってる、だから引き継ぐって、それだけのことさ」
誰も、何も変わっていない。雲二郎は思った。
ただ、目標が「かけっこで勝つ」「チャンバラで勝つ」から、「この世を守る」「モノノケを退治する」に変わっただけ。
「ふっ、みんな小さい頃から一緒ね」
酌をする洋が呟いた。
「でもね、皆さん無理しちゃいけませんよ。怪我でもしたら皆が悲しむんですから」
洋の優しさも、変わっていない…雲二郎はうつむいて笑みを漏らした。
あるいは「変わっていないんだ」と自分に言い聞かせることで、雲二郎は兄に嫁ぐ洋を見る目に悲しさが宿らぬようにしていただけかも知れない。
「おい、何をニヤニヤしてんだ、雲。お前が主賓だぞ、さあ呑めって」
兄、善丸、そして伏目がちに酌をしてくれる洋の杯を次々に空け、雲二郎はいつしか深い眠りに就いた。
つづく