あとがき
絆、そして掟。その中で人は、成長と引き換えに、大切なものを失うことになる。
「もののけ狩り~幻怪外伝」無事完結を迎えることが出来ました。
応援してくださった皆様、本当に有難う御座いました。
「小説幻怪伝」を書き終った時、少しばかり心残りだったことがあります。
たくさんの味方と敵が入り乱れて戦いながらストーリーが進む群像劇であるため、どうしても描ききれないキャラクターが何人もいたことです。
その一人は、妖怪でありながら、幻怪衆の重要なメンバーとして妖怪軍団に立ち向かう男、河童の煤。彼については「夢はぬる水の彼方に」で、その生い立ちと宿命、奇妙な名の由来などについてもしっかり描ききることが出来ました。
そしてもう一人が、妖怪と幻怪衆の狭間で、その両者に果敢にも戦いを挑む忍の軍団「尾張柳生一族」の総帥、柳生雲仙です。徹底した現実主義のもとで「モノノケは全て死に絶えよ」と非常な戦いを仕掛けてくる、血も涙も無い冷血な戦士。なぜその思想に至ったのか、モノノケに対する異常なまでの憎しみは何処から来るのか、これを描くことで「小説幻怪伝」の世界観も、よりハッキリ見えてくるのではないか、そう思いました。
余談ではありますが、妖怪や幻怪たちが自由奔放に。実に「人間的に」振舞う中で、柳生雲仙が誰より人間らしい感情を捨て、マシンのように戦いに挑んでいる、なんてちょっとしたアイロニーではあります。
小説幻怪伝での柳生雲仙は、息子である鴎楽~幼名・音次郎~さえも戦いの道具であるかのように扱い、傷つけ、追放するにいたり、自らも秘宝を手に逃亡、失踪してしまいます。
雲仙が「人間らしさ」をやっと取り戻すのは、最終決戦の場に再び姿を現し、自らを犠牲にすることでこの世を守ろうとした最期の時。
まさに孤高の戦士。そんな柳生雲仙はいかにして柳生雲仙たり得たのか、そんな物語が本作です。
幼名・雲二郎。根っからのタカ派の兄に比べて優しくて情に脆く、しかし頼りない男。
(そういう意味では、後の「小説幻怪伝」に登場する彼の息子である穏健派の鴎楽に似ています)
そんな心優しき雲二郎が、モノノケたちが大挙して現世に侵攻してくるという時代の波に呑まれ、妖怪ハンターとして成長していきます。
夢見がちな「少年の淡き甘き想い出」からの脱却を強いられ、非常すぎる現実を目の当たりにし、やがて自らの手を汚すことに馴れ、ハンターとして覚醒する雲二郎。自分が何のために存在するのか、その問いに対する答えを自ら掴みにゆくことになります。
頼りにしていた兄との別れを乗り越え、さらに「もののけ狩り」の一員としての使命を果たすために、愛して止まない女性との決別を自らの意思、自らの手で行うことによって、少年・雲二郎は逞しき男「雲仙」になりました。
形は違えど、現代社会の我々も経験する通過儀礼なのかもしれません。少年が大人になるイニシエーション。
また、本小説は他の「幻怪シリーズ」と違ってあくまで人間の目線です。
知恵と科学、そして積み重ねた努力と修練によって、圧倒的な力を持つモノノケに立ち向かうその姿を、今だ未解明の自然の脅威や、身に降りかかる「運命」などと云うものに対して必死に抗う人間の姿を、少し重ねてみました。
さらには、妖怪ハンターたちが実は依頼主から莫大な報酬をせしめている、という点にも言及してみました。
一般には「悪に立ち向かうヒーロー」を動かすモチベーションは正義感であったり使命感であったり、というのが通例でしょう。
もちろん本作のヒーローたちも使命感や正義感では負けていませんが、しっかりギャランティーを要求します。しかも多額の。
自らの命を賭す者にとって、そしてその生業で大切な家族を養う身として報酬を求めることは何ら後ろめたいものではないはずですし、モノノケ退治という大事を果たすためには当然、相応の経費が必要です。
もののけ狩りという大儀の前には犠牲も止む無し、という行き過ぎた思想から、大名同士の権力争いに利用され無実の人間をも殺めてしまう、というエピソードも登場します。
これは「清貧」だけでは何も生み出すことの出来ない人間という存在の弱さ、無力さを象徴する部分であり、是非とも描きたかったストーリーです。
一方、苦しみ足掻く人間たちを尻目に生き生きと「悪事なるもの」をはたらくのはバラエティに富む妖怪たち。尾張、岐阜、三重など、東海地区にゆかりの深い妖怪たちが、伝承の新たな解釈の元で思う存分に暴れてくれます。
彼らも生まれながらの絶対悪とは言い切れず、むしろ彼らの側に立てば人間こそが恐ろしき妖怪に見えるんじゃないか、と思えるほどの純情ぶりを発揮したりもします。
生き物が生活フィールドを共有する限りは必ず利害が衝突し摩擦が生じます。
捕食者と被食者、捕食者どうしの餌の取り合い、生活必需品~水や寝床など~の確保にまつわる縄張り争い、配偶者の奪い合い、などなど…。
現代人として我々は、紛争というものに関して、一方の視点だけが正しいとは限らないという事実を歴史から学んできているはずなのに、今だに動物的な「視野の狭さ」から解き放たれていないように思えます。
さて「幻怪シリーズ」三作目となる本作でしたが、お楽しみいただけましたでしょうか。
世界各地に伝わる神話、昔話、ファンタジックなサーガに共通する「世界の創生」とそれに伴う「人間の原罪」、さっらにはそこから連なる因果応報を内包しています。
本シリーズもその轍を外さず、和風ファンタジーの末席にいる者としてさらにオリジナリティの強い「ロック」で「ジャパン」な、映像的な世界観を描き出したい、そんな風に考えております。
幼稚な着想、稚拙な文章ながらも、お付き合いしていただきました皆様には、心よりの感謝を申し上げます。
皆様に、佳き波動のご加護のあらんことを。
幻怪暦二万二千十六年 水無月吉日
蝦夷 漫筆




