幼女の正体
オニの一団は去った。池鯉鮒衆のアジトには激しい破壊の爪あとと、殉死した忍・天兵衛の言伝を預かったと語る瀕死の幼女が残された。
雲二郎は波動の秘術と、長崎での修行で知りえた蘭方医術を幼女に施しその命を救おうと試みた。回復の兆しを見せ始めた彼女に仙太郎が付き添い、一同は長い一日を終えて床に入った。
「うう、ううっ」
しかし、更けゆく夜が雲二郎の疲れきった身体を眠りに就かせたのは、ほんの僅かな時間だけだった。
「ううっ、うぐうああっ」
呻き声。
まるで地の底から湧き上がるような。
「な、なんだ…?」
夜半の冷たい風が生じの隙間から吹き込む。雲二郎は目覚めた。
「この声は…?」
十六夜の薄明かりの中、声のする方へと足音を忍ばせる。
「ここから、だ…しかしこの部屋は」
幼女が寝ているはずの部屋。
「だが、それしてはやけに猛々しい」
ゆっくりと引き戸を開ける。
「んっ?」
のた打ち回りながら、一人の男が悶え苦しんでいた。
弱々しい月明かりが、ほんのりとその男の顔を照らし出す。
「アッ・・・」
雲二郎は息を飲んだ。
「にいさんっ」
声の主は、仙太郎だった。
すっかり生気が失われ、目は屍のように虚ろになっている。
「ぐうっ、ぐがううっ」
唸り声はまるでケダモノ。フラフラと漂うかのように部屋の中を彷徨いながら時折激しく咆哮を発している。
恐るおそる、雲二郎は部屋へ足を踏み入れた。
「うあっ」
畳がヌルヌルと滑る。血塗れの畳。
思わず声を上げた雲二郎の存在に、仙太郎が気付いた。闇の中に獲物を探すような目つき。
ジリジリと歩を詰めてくる。
「に、にいさん?」
雲二郎の声にも反応する様子はない。目の前にいるのは仙太郎であって仙太郎でない。直感的にそう感じられた。
「ぐう、ぐふふふうっ」
威嚇するように喉を鳴らす仙太郎は、すでに部屋の中に転がっていた夜警番の若衆の生首を踏みつけながらにじり寄ってくる。
「どこだっ、どこだあっ」
バタバタと廊下に連なる足音。
「ここだ、ここにいるっ」
息を切らせながら次々に若衆がやって来た。いずれも強張った表情で刀や槍などの武器を構えている。
「いたっ、いたぞ。ご乱心の仙太郎さまが」
「ご乱心?」
雲二郎は目の前が霞むような気がした。血の気が引いてゆく中、次々に若衆たちの言葉が聞こえてくる。
「仙太郎さまは突如乱心なされた」
「おとら狐、だ。おとら狐に憑かれたに違いない」
「連れ帰った幼女は、おとら狐だったんだ」
雲二郎は二、三度自らの頭を叩き、頬を張ってみた。
ああ、夢じゃない。目の前にいるのは、やはり乱心した仙太郎なのだ。
「おとら狐?」
雲二郎の問いに若衆の一人が答えた。
「ええ。昔からの言い伝えでは、人間に憑依し他の人間を殺して食らいながら生き延びる邪悪な妖怪っ」
「憑依、と」
「はい。人から人へ、次々にとり憑いてその実態を掴ませないのです。起源は長篠の社に棲む狐が人間によって傷を受けて妖怪変異したもの、と云われています」
「では…今、兄者は」
「はい。残念ながら…体は仙太郎さまのままですが中身はすっかり、おとら狐に乗っ取られているかと」
「バカなっ」
若衆の胸ぐらを掴む雲二郎。
「お前いい加減なことを言うな。まさか兄さんが」
しかし、仙太郎の足元には真っ二つに切り裂かれ、内臓を貪り取られた幼女の骸が無残に転がっているのが見えた。
「そんな…」
「おとら狐は噛み付くことで体液を通じ憑依します。おそらく幼女に取り付いていたおとら狐は、仙太郎さまの寝込みを襲って噛み付いて乗り移ったのでは…」
雲二郎は深く息を吐きながらゆっくりと、変わり果てた仙太郎に向かって近づいていく。
「兄さん、俺が何とかしてやる…なあ、兄さん」
その瞬間、飛び上がった仙太郎が雲二郎めがけて斬りこんできた。
「うあっ」
咄嗟に助っ人に入った若衆が叫ぶ。
「無理ですっ、雲さん。もう話が通じる相手じゃないっ」
「じゃあどうすれば憑依が解けるというんだっ。どうすればおとら狐の息の根を止められるんだ」
「憑依された者が死ねば…」
「何をバカなことを言ってるんだっ。憑依された者、って兄貴じゃないか。頭領なんだぞ池鯉鮒の」
「しかし、掟に従うよりありませんっ」
若衆の一人が仙太郎に斬りかかった。
真っ直ぐ突進、懐に入らんと身を屈める。
「ぐはははっ」
妖怪化した仙太郎の刀さばきは凄みを増していた。
「えっ」
すでに若衆の眼前に仙太郎の切っ先。
「ぶぐはうっ」
驚きに口を開けたまま、その首は胴体からいとも簡単に切り離されて宙を飛んだ。仙太郎は嬉々として残された胴体にかぶりつく。
「あっ、ああっ」
雲二郎の足が、ガクガクと震え出した。
「なぜだ兄貴…」
嗜虐的な微笑みを血塗れの唇に浮かべながら仙太郎が近寄ってくる。真っ白に裏返った目に見入られて、雲二郎の背筋が凍る。
「ど、どうすればいいんだ…兄さん」
懇願するような目の雲二郎に向かって仙太郎は、もはや人間のものとは思えない表情で威嚇するように唸った。腹に響くような声。
「ぐあうおっ」
「ひいっ」
雲二郎はブルッと身を震わせた。気が遠くなりそうだ。
「掟…掟、か…」
色々な思いが頭を駆け巡る。それはまるで、のっぴきならぬ現状から逃避するかのよう。
「ぐああっ」
再び仙太郎が牙を剥いた。明らかに、飛び掛ってこようと足元に力がこもっているのが見えた。
「ええいっ」
雲二郎は刀を抜き、仙太郎に向かって飛び出した。
つづく




