馬憑きの村
西に広がる広大な湿地帯から冷たい風が吹き込んでくる。確かに冬は近い。だが、この底冷えするような感覚は尋常じゃない。
―三河・八橋村―
四年間の長崎での修行を終え、池鯉鮒衆宗家の次男、齢十五の雲二郎が帰郷した。
しかし屋敷に着いて早々、兄・仙太郎がモノノケ狩りに出かけたと訊き、その後を追うように三河の小さな農村の部落にやって来た。
「人外の匂いがする…」
馬上の雲二郎が周囲を警戒する。
妖怪たちの発する波動~妖気を「匂い」として直感的に察知できるのは血筋のなせる技か。
「やけに冷たい匂いが…」
しかし辺りにはのんびりとした農村風景が広がっている。唯一の動きは、秋の収穫の準備にあぜ道を行き来する農民だけ。
「ううむ…」
一人の老いた百姓が愛想よく近づいてきた。
「若いの、こりゃあんたの馬かの?」
土で汚れた手拭いで浅黒い顔を覆ったまま、少し背の曲がった老百姓は雲二郎に近寄ってきた。いや、雲二郎が跨る馬に。
「こりゃええ。本当にええ馬じゃの」
嬉々として馬をあちこちから眺めていたかと思うと、顔を寄せて愛おしそうにさすりはじめた。
「ああ、ええ。ええのう」
「な、何者だっ、お前」
尾張裏柳生家は忍とは言え武家。百姓ふぜいに気軽に愛馬に触れられては沽券に関わる。
「ええい、離れよっ」
聞く耳持たぬ老百姓。
「んにゃ、ほら。だってこんなにええ馬…」
「ちっ…言う事が聞けないというなら」
雲二郎が鞭を振り上げようとした時、老百姓はいきなり馬の首に噛み付いた。
「ええ馬だ。ほらこんなに。ふがっ。ああ、ええ馬だ、ふががっ」
「ま、まさかお前…」
青ざめた雲二郎。
「キエエエッ」
噛みつかれた愛馬は金切り声を上げて暴れ始めた。あえなく振り落とされてしまった雲二郎を、老百姓が見下ろす。
「ぐふへへへ、美味い。ええ馬の血は美味えのう」
血まみれの口がせせら笑う。
雲二郎に帯同した二人の従者が駆けつけ、老百姓に刀を突きつけた。
「お前…」
「ぐふへへ…ひゃっひゃあっひゃああっ」
にわかに鼻息を荒くした老百姓の目が真っ赤に充血して反転した。
「な、なんだっ」
思わずひるむ雲二郎と従者たちの目の前で、老百姓の身体のあちこちがいびつに盛り上がり、みるみるうちに異型の化け物に変異した。
「う、馬憑きっ。馬憑きだあっ」
従者が叫び声を上げると同時に、半身半馬の化け物はまさしく馬の如き跳躍力で飛び上がり、巨大な蹄を打ち下ろした。
「ぎゃあっ」
二人の従者は、あっという間に蹄の餌食。頭や身体が変形するほどに殴られて血の海に絶命した。
「そ、そ、そんな…あわ、あう。あわわ…」
雲二郎は腰が抜けて座り込んだまま動けなくなってしまった。懐刀を取り出したものの、手が震えて落としてしまった。
「あ、あっ、うっ」
拾おうとしても身体が凍りついたように動かない、動かせない。
――これが「恐怖」というものなのか――。
「ぶひゃ。ぶひゃひいっ、ぶひゃひひいん」
化け物は大きな口をあけ、どす黒い唾液をまき散らしながら、雲二郎の首を噛み千切ろうと眼前に迫ってきた。その鼻息は吐き気を催すほどの悪臭。
「う、うああっ」
ガチンっと、化け物の歯が噛み合う音が響いた。
必死に首をかがめた難を逃れた雲二郎だったが、結い髪に噛み付かれてしまった。
「いっ、いいいっ」
化け物がそのまま首をぐいと引き上げると、雲二郎の身体が引っ張られて持ち上がる。
「痛てっ、痛てえっ」
ブチブチッという音を伴って髪の毛が千切れ、雲二郎は倒れこむ。
化け物が再び顔を近づけてきた。
「不味いぞ、毛は。肉が喰いたい、お前の肉っ。ぶひひひっ」
覆いかぶさるようにのしかかってくる。ベトベト粘る唾液が顔に垂れた。
「ぶひひいん」
「う、う、うあああっ」
雲二郎は思わず目を閉じた。
「――殺られる」
ひゅっ、と風が吹いたように思えた。
続いて、サラッとした液体の飛沫が、顔そして全身に噴き付けられた。
「えっ?」
目を開いた雲二郎。
「あっ」
眼前で、化け物は身体を真っ二つに切り裂かれていた。
鮮血の噴水が四方に飛び散る美しい弧を描き出している。
「ぶひ…ぐ、ぐががっ、ああっ」
鼻、耳、目からも血の泡を噴きながら化け物は断末魔の叫びを上げた。
断ち切られた上半身が宙を舞い、一回転してドサッと地に落ち、痙攣しながらドス黒い煙を上げて融解してゆく。
「あ、あ・・・ああっ…」
全身の震えが止まらない雲二郎に近寄る覆面の男。
「危ないところだったな」
男は、化け物を一刀両断にした刀に付着した血糊をしっかりと拭き取ると、刀身をゆっくり鞘に収めた。
おびえたままの雲二郎に顔を近づけ、ゆっくり覆面を外した。
「久しぶりだな、雲」
「に、兄さん…」
怪物を、事も無げに斬って捨てたのは仙太郎だった。
「見違えたよ…」
雲二郎の手をガッチリ握ってそのまま起こした兄に、もはや少年の面影は無かった。口髭をたくわえ、鋭い目つきを納める頬や額には無数の傷が刻まれ、語らずして百戦錬磨の手練であることを誇示しているようだ。
「四年もあれば男が変わるにゃ十分だ」
「それに、すげえよ。すげえ腕前だよ、兄さん」
音も気配もなく近づき、一瞬にしてモノノケを仕留める。息を切らすことさえ無く。
「まるで父さんみたいだ…」
雲二郎は一瞬とはいえ仙太郎に対して抱いた「嫉妬」を恥じた。
今、兄を見る目は羨望のそれに変わっていた。
「のんびり話し込んでる場合じゃねえぞ」
立ち尽くす雲二郎の肩を、仙太郎がドンと突き放した。
「えっ」
他の馬憑きが鼻息を荒くして襲って来る。しかも一匹だけではない。
「人外め」
仙太郎の目が鋭く光った。
つづく