運命の手の中で
揖斐・黒谷の怪死事件は池鯉鮒衆二人の犠牲を出したが、雲二郎が妖怪・一声呼びを討伐、解決した。
現地で古い人別帳や記録を当たって事件の背景を調べてから帰路についた雲二郎、池鯉鮒に辿り着いたのはもう夜のことだった。
「人は一人では生きられない…か」
見上げた空に上弦の月。しかし雲二郎はそれを覆い隠そうとする黒雲の方に、むしろ親近感を感じていた。
「あら、遅かったじゃない」
裏木戸から屋敷に入り、今回の報告書を書き上げた雲二郎に、ふとお洋が声を掛けた。
「訊いたわ。栄さんと庸さんが…」
「あ、ああ」
あえて雲二郎はそれ以上語らなかった。
思い出したようにお洋に尋ねる。
「そういえば兄さんは? 姿が見えないけど」
「三好池にオニが出た、って連絡があって」
「出かけたの?」
「ええ、部下を連れて。雲ちゃんが帰るちょっと前よ」
最近、この近辺でオニが出没する事案が増えている。
「最近多いな。また出たか」
「裏に何かあるんじゃないかって、仙太郎さまは言ってた。妖怪同志が手を組んでて、組織的だ、とか」
妖怪は基本的に単独行動が多い。昔から気まぐれに人を襲うことはあるが、多くは食料などを求めて必要に駆られての行動だ。
「徒党を組んで、か。かつて妖怪たちが団結した帝国があったとは聞いたことがあるけど」
「まるでお伽噺ね」
「とりあえず今日のオニは兄貴に任せておこう…」
旅の疲れも出たのか、大きな欠伸をする雲二郎。
お洋は付け届けの「國盛」に、ちょっとした肴を添えて酌をした。
「仙太郎さまが言うには、妖怪たちはこの本殿地下にあるって噂の『光の石』を狙ってるんじゃないか、って」
「ふうん…そんなにすごいのか、その石」
「だってみんながそう言うんですもの」
「ところで、お洋ちゃん…」
「ん? 何か?」
やや上気しているのは國盛のせいだろうか。雲二郎は割烹着姿のお洋に、ふと真顔で尋ねた。
「どうして、お洋ちゃんは、兄貴と…」
「えっ」
その話はもうとっくに済んだ話、お洋はそんな顔をしてみせた。
敢えてお互い触れず、有耶無耶のままにしておこうとしていたのかも知れない。
「仙太郎様と…って。ん、何の話?」
苦笑いしながらお洋は目を伏せた。雲二郎がその目をじっと追う。
「誤魔化さなくたって。兄貴に嫁ぐっていう話さ。判ってるくせに」
「……」
目を伏せたまま、お洋は割烹着の裾についた汚れを気にする素振り。
その腕を、雲二郎は掴んだ。
「昔、約束したよな。お洋ちゃん、俺と…」
「決めちゃったの。いいえ、決まっちゃってた、の」
お洋の顔から笑みが消えた。
額に垂れた鬘をたくしあげながら軽く唇を噛むお洋に、ぐっと顔を近づけた雲二郎。
「どういう意味だよ。決まっちゃってた、なんて」
うつむいたまま、お洋は首を横に振るばかり。
雲二郎のこめかみが苛立ちにピクピクと動いている。
「ちっ、まるで他人事だな…心変わりってやつか。女なんてのは所詮そんなもの…」
舌打ちしながら掴んだ腕を無造作に離し、ため息をつく雲二郎。
お洋は小さく呟いた。
「父さんが、わたしの父さんが決めたことなの」
聞こえないフリをしているのか、本当に聞こえなかったのか。雲二郎は拳を握り締めてそっぽを向いたまま。
お洋は続けた。
「母さんは、私がちっちゃい頃に死んじゃった。肺病だって訊いた、けど本当はモノノケの仕業…」
「えっ。モノノケ、って?」
驚いて振り向いた雲二郎の視線を、お洋は少し逸らした。
「鬼童丸…オニの頭領の息子。そいつが母さんを見初めたの。そしてわたしが四歳の夏の宵に…」
語るお洋の瞼が濡れている。
「その時私はまだ幼かった…何にも覚えてない。寝ていたのかも知れない。二年前に初めて訊かされたわ」
「お洋ちゃんの母さんが…」
「ほどなく母は自ら死を選んだ。すると鬼童丸は次に私をさらおうとしたらしいの。父は私を抱いて逃げ、旧知の厳柊さまを頼った」
「俺の親父か…」
「そう。所司代も陰陽師たちも鬼童丸の名を訊くだけで腰が引けたみたい。でも厳柊さまは、私を狙ってやってくる鬼童丸とその手下たちと勇敢に戦ってくれたそうよ」
「親父が、お洋ちゃんを守ってた、なんて。そんなことがあったのか」
お洋は頷いた。
「ええ、でも鬼童丸は手強くて倒せなかった。代わりに京にある実家の呉服屋に結界を張って守ったの。今でも鬼童丸はその一件を恨んでるから、結界のおかげで父は生きていられる」
「お洋ちゃんの家に、結界…」
「家だけじゃないわ」
お洋は美しい桜色の小袖をはだけ、透き通るような肌が艶めく背中をすべて、雲二郎に向けて露わにした。
「あっ…」
雲二郎の眼前に、中央に黒い五芒星と古代文字、それを取り囲む幾つかの動物や火焔の刺青が施されたお洋の背中。
思わず息を呑む。
その忌まわしい過去を引きずる刺青の禍々しさに、あるいはその背中が描き出す美しいラインに。
優しい橙色の行燈は、乱れ髪もそのままにうなだれたお洋のうなじの肌の滑らかさを一層強調していた。
「この結界…これが解かれれば今すぐにでも私は、私の父と実家は鬼の餌食になることでしょう」
口を開けたままの雲二郎、背を向けたままのお洋。
「厳柊さま亡き後、結界を引き継いだのが仙太郎さま。そして父は、私を仙太郎様に嫁がせることを約束した」
お洋は拳を握り締めている。長い睫毛からしとしとと垂れる雫が行燈の灯を映して光っていた。
「これから一生、仙太郎さまの下で暮らす。それが私の運命なの…」
雲二郎は、そっとお洋の肩に手を掛けた。
「お洋…それで、お前の気持ちはどうなんだ」
「気持ち?」
お洋は唇を震わせた。
「今さら私の気持ちを言ってどうなるの? 願えば叶う、なんて子供じみたことを言って通じる歳は過ぎたの」
見開いた目が一瞬、雲二郎と合う。
すぐ目を伏せた。
「仙太郎さまはとってもよくしてくれるわ…私を愛してくれてる」
雲二郎が奥歯をぐっと噛み締めた。
盃をぐいと飲み干し、深く息を吸いゆっくりと吐いた。
「なあ、お洋。お前のことを誰より、一番愛しているのは…」
「愛している? 愛する、って何? 何なの?」
お洋の手が、背中が震えている。
「私と私の家、そこで働くひとたち。その家族何百人、その人たちが愛し愛される何千、何万の命が、生活が」
もう一度、雲二郎に見せつけるように。
「この背中にかかってる。好きとか、好みとか、もうそんな話じゃない」
お洋は涙を散らしながら、振り向き訴えた。一糸まとわぬ姿。
「父さんと母さん、そして多くの人たちのためにも私は仙太郎さまに愛されなきゃいけない。仙太郎さまを愛さなきゃいけない。それが運命」
目を伏せて数度、雲二郎は頷いた。
「ああ。よくわかった…だが最後だ。本当の気持ち、今だけ教えて欲しい。お洋が本当に結ばれたいと思ったのは…」
とめどなく流れる涙を拭いもせず、お洋の噛み締めた唇がふわっと開いた。それは薄桃色に濡れた花弁のように儚く見えた。
「雲ちゃん、あなたと…」
堰を切ったように、お洋は泣き出した。声を上げることも厭わず。
上気した顔をこわばらせる雲二郎も、胸の奥から湧き上がる、息詰まるような感情を押し殺しておくことは出来なかった。
「お洋…」
その手がお洋の肩を腰を強く握り、透き通った肌に食い込む。
二人の涙は頬で混じりあい、互いの鼓動はまるで踊っているように、触れ合った胸から伝わってくる。
「今宵だけ…」
温かい吐息に混じる囁き。
「ここにいさせてください」
窓の外では、笠の掛かる月の光に照らされた粉雪が舞いだした。
朝日が屋根にうっすらと積もった雪を溶かした雫がしとしとと地面に滴り落ちる音が聞こえるまで、二人は互いの身体を温めあった。
つづく




