妖怪、一声呼び
深い森の中で仲間を失い、一人残った雲二郎は耐え難い恐怖に追い詰められていた。
ひたすら逃げ、震えながら木陰に逃げ込んだ彼を不意に呼ぶ兄・仙太郎の声に思わず大声で答えたが、それは妖怪、一声呼びの罠だった。
「雲二郎…答えたな」
揖斐の山の住人たちの間で恐れられてきた「一声呼び」は、呼びかけに応答したものの魂を吸い尽くして殺害するという。
雲二郎とともに山に入った仲間の栄吉、そして庸司も、この妖怪の声に答えたために命を落とした。
深い霧をかき分けるように人影が露わになってゆく。
「ふふふ、もはやお前の命は無い」
どこかで確かに聞いたことがある、この声。
「誰だ…お前。お前が一声呼び、なのか?」
震える声で雲二郎が尋ねる。
男は何も言わず、スッと霧の中から姿を現した。
雲二郎は絶句した。
「俺…お前は、俺…」
自分がもう一人、目の前にいる。
「……」
カッと見開いた目で、見ている。瞬きもせず。
もう一人の雲二郎は両手に、すっかり青ざめた生首をそれぞれ一つずつ、携えている。
雲二郎は卒倒しそうになった。
「そ、それは…」
もう一人の自分が手に持った生首のうち一つは父親、もう一方は母親。
雲二郎が幼い頃に死別した両親の朽ちかけた生首。
「父さん…母さん…」
雲二郎、五歳の冬。妙に月が赤く見えていた。
池鯉鮒の本殿に秘匿された宝物「光の石」を狙って妖怪が侵入した。企みを見破られた妖怪はあろうことか仙太郎と雲助の母・里に憑依した。父・厳柊はこれを追い詰めたが、妻に刃を向けることをためった一瞬の隙を突かれ絶命した。
その憑依した妖怪もろともに母・里を斬って捨てたのは他ならぬ仙太郎であった。
十年前に世を去った両親の首を、もう一人の自分が携えている。
生首が語り出した。
「お前が俺をこんな姿に…」
「あなたが私たちを見捨てた…」
もうひとりの雲二郎は無表情のまま、本物ににじり寄る。
本物の雲二郎は混乱しながら後ずさり。
「ひ、ひいっ、悪夢か…」
顔が引き攣る。
もうひとりの自分がパッと手を離した。ゴロゴロと転がって目の前に生首が二つ。
「さあ、お前も来い」
「来なさい…それが運命」
言葉を発した首に手を伸ばす。まだほんのり温かい。
窪んだ目が雲二郎を凝視している。
運命を受け入れれば楽になれるのか。
思えば今まで、生きることは苦しみばかりだったように思えた。
兄との比較、苦しい修行、殺し合うことへの葛藤…そして今目の前にある耐え難い恐怖。
「うひひひ…」
もうひとりの雲二郎は、不意に目の前にまで近づいていた。
「怖いか…」
本物の両肩をむんずと掴んで顔を近付ける。
「何人も死からは逃がれられぬ」
まさに目の前で、もうひとりの雲二郎の顔が崩れ始めた。
「ぐあっ、ぐふっ」
皮膚が裂けて剥がれ落ち、あちこちから血が噴き出す。露出した肉がドロドロと溶けて骨が顔を出す。
「あっ、うああっ」
顎が外れてダラリと垂れ、舌は根元から腐って落ちた。
眼球も一つ、そしてもう一つも地に落ちた。
雲二郎は総毛立ち、足がすくんだ。しかし目を閉じることも出来ず、その様を間近に凝視するより他にない。
「俺が、俺が死ぬ…俺の死に顔っ」
意識に直接語り掛ける声。
「受け入れろ。俺の死は、お前の死。拒絶するほどに苦しみは増す」
もう、何が何だか分からい。
ひょっとしたらこっちが偽物で、目の前の腐乱した男が自分なのか。
「うっ、あっ…ああ」
恐怖という感情が渦を巻いて胸の真ん中に集まってくる。心臓が掴まれたように痛い。はち切れそうな鼓動が胸から喉、喉から口へと上がってくる。
「ああ、あああ…」
まるで全身の精気が口から取り出されるようだ。
「なんだ、この感覚…」
雲二郎は身を委ねた。それはまるで恐怖が取り除かれてゆく心地よさ。
体がどんどん軽くなる。温かく柔らかいものに包まれたよう。浮世の全てが箱庭の中の出来事だったかのように感じられる。
(一声呼びは『恐怖』を食らって生きているのか…)
懐かしい匂いがする。
白くかすみがかった景色の向こうにぼんやりと見える、無垢で幸せだったころの記憶。
「ああ、父さんじゃないか…」
道場でひたすら剣術の稽古に勤しむ父。母はまだ幼い雲二郎の他愛もない言葉遊びに付き合いながら夕飯の準備を始めたようだ。竈から緩やかに煙が立ち上り、赤く染まった夕空に線を描く。
「幸せって、こういうことだったんだな…忘れてた」
母の邪魔をしないように、と仙太郎が雲二郎を迎えに来た。連れ立って川辺に向かう。真っ赤な夕陽を水面に乗せた川の土手には、いつものようにお洋がいる。
木の枝を拾った仙太郎が言う。「さあ、やるぞ」いつものチャンバラだ。そしていつものように雲二郎はこてんぱんに叩きのめされる。
「そうさ。俺は、昔っからダメな弟だった」
負けて倒れて顔を伏せ、雲二郎はすっかりいじけている。
「あっ、あれは…」
不貞腐れる雲二郎に駆け寄っれきたのはお洋。
肩を揺すって立ち上がらせようとする。「あきらめちゃダメじゃない、雲ちゃん」いつだってそうだった。
「いい子だよなあ」
どんなときも、お洋は雲二郎の味方でいてくれた。
「さあ、負けっぱなしじゃ駄目よ」
お洋が近寄ってきた。
「えっ?」
記憶の景色はどんどん遠ざかった。再び暗さと妖気が支配する森の景色。
しかし、お洋だけは消えない。
「さあ」
「さあ、って?」
「早く剣を取りなさいよ。いいの? このままで。負けたまんまで」
「いや、あの…俺だっていつかは」
「いつか? だから負けるのよ。さあ剣を握って。早く」
雲二郎の周りの景色がぐるぐると回り出す。
「いや、あれは昔の俺…」
お洋が泣き出した。目を真っ赤に泣きはらして雲二郎をじっと見る。
「お、お洋ちゃん…」
魂が抜けかけている雲二郎に向かってお洋は泣いて懇願する。
「お願い雲ちゃん。早く、早く剣をっ」
思わず雲二郎が刀の柄を握った。
「そうよ、早く。早くしないと雲ちゃんが死んじゃう…」
腕が、手がなかなか言うことを聞かない。
「ダメだ…ダメだよお洋ちゃん」
「諦めないで、お願い。ほら…」
お洋が雲二郎の手を握った。その温もりが身体中を駆け巡る。
「ああっ」
お洋が導くまま真っ直ぐ、切っ先を前に突き出した。
「えっ、あっ、ああっ…」
急に何か重いものがのしかかってきた。心臓がはじけたかと思うくらいにドクンと強く、脈打った。
白み切っていた世界はゆっくりと色付いてくる。懐かしい記憶の世界ではない、ここは暗い森。
目の前で何かが悶えている。
「ぐああっ、ぐげえっ」
視界が真っ赤に染まった。
「あっ」
目の前にのしかかった「もう一人の自分」を自分が刀で貫いていた。
「お洋が…俺を導いた?」
四肢に力が戻ってきた。
「俺に化けたこいつが一声呼びだったのか…」
雲二郎に化けた妖怪一声呼びは、どす黒い妖気を吐き出すと、あどけない幼女の姿に変わり果てた。
「なんだお前は…」
「早く、早くわたしを殺して…」
幼女は体中から血を流して懇願している。
「早く、わたしを焼いて…わたしを救ってちょうだい」
雲二郎の目の前で、再びその幼女に黒い妖気が集まってゆく。
「お願い早く。このままではまた怪物になってしまう。満たされることのない淋しさに永遠に苛まれる…」
漂う黒い妖気は、徐々に幼女の体内に侵入して幼い身体を悶えさせる。
「早く、早くっ」
声はすでに野太いものに豹変しつつあった。
雲二郎は唇を噛みしめて頷いた。
「…わかった」
腰元の袋に入った灯し油を浴びせかけた。
「あ、ありがとう…」
油に溺れそうな口が、か弱く呟いた。
「わたしを救ってくれて、本当にありがとう」
目を合わせぬまま、雲二郎は火種を投げつけた。
「ぎゃああああっ」
暗い森に、耳を裂くような切ない断末魔の声が虚しくこだました。
バチバチと火花を散らす黒い炎、その中に七転八倒する小さな身体に向かって雲二郎は正眼に構えた太刀を振り下ろした。
「ぎゃうっ」
「安らかに眠るんだ…」
もう何刻かもわからない夜の森。野犬の遠吠えやフクロウの声すら愛おしく感じられる。
澄んだ星空を見上げ吐いた息の白さに改めて、自分が生きていることを実感し頬が緩む。
やっと街道を見つけた頃には東の空が白みはじめていた。
「この子、か…」
雲二郎は妖怪討伐の報告のため依頼主である揖斐の陣屋に立ち寄ったついでに古い人別帳に目を通していた。
「二百年前、か」
関ケ原の合戦直後、逃散した落ち武者たちの一部は山中に潜んで山賊として生き永らえた。時に里を襲っては食料、金品を強奪するなど無法の限りを尽くした。
襲われた村人たちの中には、望まずして子を孕まされた者もいた。
「ひでえ時代だ」
雲二郎が目を通した記録の中に、その四歳になる女児のことが記されていた。
当時は凶作になれば男児は寺か奉公、女児なら花街に売られるのが常だったが、中にはひっそりと「間引き」されたと云う。
山賊の血を受けた子ならなおさらのことであろう。
「この頃に比べれば今はマシになった、と本当に言えるのだろうか…」
生きることに窮したある農家の男は妻に、山賊の子を間引きするよう命じた。凶作続きで花街に売れる年頃までも待てそうにない、すぐさま口減らしが必要だ、と。
「でも…」
男にとってその子は他人。しかし妻にとって、たとえ憎き山賊の子と言えども腹を痛めた我が子。自分にすがるより生きる術を持たない我が子に、断ち切れない強い愛情を抱かせるに四年の月日は十分だった。
「ここで生きるのよ…決して里に下りてはいけない」
わずかな食料とともに取り残された幼い女児が、その後いかなる運命を辿ったかは誰も知らない。
「痛烈な人恋しさ、それが彼女を妖怪に変えたのか…」
黒谷付近の山中には人を幻惑させる作用のある薬草がたくさん生い茂っている。淋しさを紛らすために使い出した幻惑の薬草をやがて旅人たちに向けて使うようになったのか、あるいは心の隙に闇の波動が取り憑いたのか。
つづく




