山道を往く
木々の葉は橙色から深紅へ、すっかり染め直されたようだ。
季節外れの蝶のように木の葉が風に吹かれてヒラヒラと舞い、歩を進めるたびに、色付いた落ち葉の絨毯から乾いた軋みが聞こえる。
「冷えますねえ」
先頭を歩くのは栄吉。遠州生まれ、若手随一の手裏剣使い。厚手の羽織の襟をぐっと掴む。
「ああ」
雲二郎が続く。
「今朝は里でも霜が降りてた」
最後尾は庸司。大野村出身の彼にとってこの辺りは地元。背の高い彼は木々の梁をくぐるように身を屈めて歩く。
「さっき越えたのは天狗山。もうすぐ五蛇池山が見えますから、右手に尾根を下りれば目的地の黒谷。ええ、あと半刻もあれば」
「思ったより早く着きそうだ」
「しかし油断は禁物。土地勘のある連中でさえ行方知れずになってるって云うんだ」
「大丈夫ですって。ほら方位磁針もちゃんと」
揖斐・黒谷周辺では半年前から変死事件が相次いでいた。
近隣の廣瀬の社へお参りにやってきた者だけでなく、猟師や木こりなど山のプロたちの犠牲者も多いと云う。
地元の役人たちが大掛かりな調査を試みたが成果が得られないばかりか、その探索隊も次々に行方不明になってしまい、何らかの人外の力の関与を疑った揖斐陣屋からの依頼を受け池鯉鮒衆が遠路やってきた、というわけだ。
「この山で犠牲になった仏さんは皆、目立った傷も無く穏やかな死に顔なんだってな」
「ああ、しかし事件が起こった時は大抵激しい悲鳴が聞こえたっていうからな、病の類じゃねえ。明らかに事件だ」
「何者かに襲われたのは間違いないだろうな。だが物盗りの形跡は一切なし、被害者に共通項は一切なし、だ」
雲二郎はあらかじめ揖斐陣屋で一連の怪事件につき入念に調査を行っていた。なにせ今回の仕事の頭は雲二郎。初めて仰せつかった大役。
「事件が起こった場所に印をつけていくと、黒谷を中心にした円が描かれる。そこに何かがあると考えて間違いないんだ。ほら、この妖気…」
肌を刺すような冷たい風に混じって、皮膚を逆撫でされるような少し湿った感触―独特の妖気―が感じられる。
「人外の匂い、か。そこで俺たちの出番、と」
三人は地図と方位磁針、そして妖気を嗅ぎ取る鼻を頼りに黒谷に向かって尾根を進む。
「それにしても」
庸司は浮かない顔。
「天さんと善丸、大丈夫かな。随分と塞ぎ込んでたけど」
「あんな事があっったんだ、無理もないよ」
幼馴染である善丸が受けた悲しみを、我が事のように雲二郎も心を痛めていた。
「このヤマから二人が外れたのは、少しでも心を休めよという兄者の計らいだ。もっとも彼らが今、人外に出会いでもしたら、憎しみのあまり突っ走ってドジ踏むかも知れないとも言ってたけどな、兄者は」
「そりゃまた仙太郎さまらしいな」
雲二郎は大きく頷いた。
「まさしく兄貴らしい物言いさ。だが確かに、俺たちまで湿気た顔してもしょうがねえのは本当だ。こうしてる間にものさばってる人外を一匹でも討伐しねえとな」
先頭の栄吉が大きく同意した。
「こんな時こそ思いっきり戦ってスカッとしにゃあ」
拾い上げた木の葉をパッと上に投げ、鮮やかな手つきで手裏剣を投じ見事に射貫き「どうだ」と振り返る栄吉。雲二郎はその姿に微笑む。
「栄さんは根っからの忍だな…俺も見習わなきゃ。くよくよ考えてても仕方ない」
「いやいや…」
栄吉が振り返った。
「雲さんは、今のまんまでいいんです」
「ん?」
「厳しい兄、仙太郎さま。慈悲深い弟、雲二郎さま。この二つが上手く噛みあってこその池鯉鮒衆」
庸司もうんうん、と頷いた。
「雲さんが帰って来てから、なんだかこう活気が増したというか、そんな気がします。今回の初陣には皆も期待してますよ」
実際は失態ばかりなのにな…と申し訳なく思いつつ、雲二郎はむしろ自身を鼓舞するように大きな声を張り上げた。
「ああ、今回はやるぞっ。天さんと善ちゃんの分まで、しっかり働いてやろうじゃないのっ」
三人はしばらく尾根伝いに歩いた。目的地は思ったよりも遠かったのか、なかなか辿り着かない。
「随分遠いな…」
「俺たちの脚でこれだけ歩いたらもう着きそうなもんだが…ちょっと庸司、もいっかい地図で確認しようか」
雲二郎と庸司が地図を広げて見入る。
前を行く栄吉が慌てて声を上げた。
「んっ、これはっ」
「なんだ、栄さん」
「この立て札…」
三人ははたと足を止めた。
「これ、さっきも見たな。さっきも通ったぞ、ここを…」
立て札には「右、黒谷。左、茂津谷」とある。尾根の分岐あたりで蔦に埋もれるように斜めになっている古い立て札。間違いない、さっきもこれを見た。
「おかしいな…」
首をかしげる庸司は方位磁針を揺すったり、叩いてみたり。
「まあ、こういうこともあるさ…」
やや苛立った様子の栄吉の肩を雲二郎がポン、と叩いた。
「どうやら話に夢中になって道を間違えたようだ。まあ、当初の予定よりはこれでもまだ随分早いんだから、慌てず今度はしっかり確認しながら歩くとしよう」
立て札の通り、右に折れる。尾根伝いに林の中を進む。
木漏れ日に時折目をしかめつつ、落ち葉踏みしめながらゆっくりと前へ、前へ。
「さて、そろそろ分岐点。違うか?」
「そうですね」
雲二郎が地図を広げ、栄吉がのぞき込む。
「もうすぐ進むと左に折れる道、か…あれから四半刻は歩いたからな、もう見えていい頃だ」
「ん…んん?」
後ろで庸司がなにやらボヤいている。
「こっち…あれ、それとも…?」
「どうした庸司。心配すんなって、ちゃんと地図見ながら来たんだし。ほら、お天道様が後ろの方…あれ、日が陰ってよくわからないけど…」
山の天気は変わりやすい。さっきまでの青空はどこへやら。どんよりとした空に、頭をもたげるような雲。
「と、いうか、雲二郎さん…ちょっとマズいです、これ」
大きな体を縮ませて庸司は方位磁針をあっちに傾けたり、こっちに傾けたり、叩いてみたり。
「壊れちまったみたいで…」
「しょうがねえなあ」
磁針は一定の方向を差さず、フラフラと揺れて定まる様子はない。
「こりゃ確かに使い物にならねえ。だが心配するな、地図通り、立て札通りで問題ない。これまで注意しながら来たが、他の分岐は無かったわけだし間違いはない」
再び歩み始める三人。
「この分じゃ雨になりそうだ…いや、下手すると雪かもな。ちょっと急いだ方がよさそうだ」
急に冷え込んできているだけに、この空模様なら雪も十分ありうる。積もりでもしたら山道は相当面倒なことになる。
落ち葉を踏みつけるピッチが速まった。
「あ、あっ…」
先頭を歩く栄吉は急に立ち止まった。
「あわ…そ、そんな…」
顔を真っ青に、少し震えている。
「あの立て札…」
雲二郎、庸司ともに足を止めた。いや止めざるを得なかった。またあの立て札だ。ゴクリと唾を飲む音がやけに大きく感じる。
「おかしい…絶対におかしい…」
「地図通り…だったよな?」
もう一度方位磁針を覗き込む。やはりあっちこっちを差しながらフラフラしている。
「もう、どうなってるんだよう」
「迷っちまった、ってことか俺たち。こんな山の中で…」
歩き疲れも手伝って、皆が苛立ち始めている。
「落ち着け、うろたえるなって。ちゃんともう一回地図を見るんだ」
彼らは同じところをぐるぐると回っていたことになる。もしかしたら地図そのものが間違っているのか。
「いや、違う…なあ、聞こえないか…聞こえるだろう、声が。呻くような…」
ザワザワと山の木々が揺れ出し、うすら寒い風が吹き始めた。風を切るヒューンという音に混じってかすかに聞こえる低い呻き声。
つづく