母と川男
恵那の猿人討伐は思ったより難航している。
罠はいつの間にか改造され犠牲者を出した。囮となった善丸の母親は小屋から忽然と消えていた。
小屋に残された穴に煙幕弾を投げ入れて穴の出口を確認、その方角に向かって池鯉鮒衆は森の中を進み、小川の縁に佇む奇妙な男の前に横たわる善丸の母親を発見した。
「善ちゃん、善丸…来てくれた…」
妖気漂う謎の男の掌からの光を浴びながら、善丸の母親は横たわったままにっこりと笑った。
「か、母さん…」
しかし善丸は、母親の姿を見て、気を失いそうになってよろめいた。
「あっ…」
腹部から下が、もぎ取られていた。
引きちぎられた内蔵がダラリと垂れ下がり、流れ出る血は枯れる寸前。
周りには引きずったような血糊の悲しい一筆書きの跡が。
「てめえ、てめえが母さんをっ」
善丸が受けたあまりに強いショックは、悲しみに変換される前に激しい怒りになって爆発しようとしていた。
息も絶え絶えの母の傍に佇む男の頭上に刀は掲げられた。血走った眼は瞬きすることなく。
「善、よく聞いて…善丸」
母親の、もはや蚊の鳴くような声が、振り下ろす刀を止めさせた。
「この人…あたしを助けてくれたんだよ」
「えっ?」
「あたしをさらったのは、大きな猿。恐ろしい猿…あたしの腹を、腹を…」
母親は言葉に詰まった。
「もういい、何も言うな。何も言わなくていい」
奇妙な男はそう言うと、掌をさらに母親の腹部に近づけて光を強めた。
「どういうことなんだ?」
尋ねる善丸に、男は答えた。
「大きな猿が、この人を腹を裂いて食い始めた…俺はたまたま通りかかったんだが、怖くて助けることが出来なかった…やがて大きな爆発音が聞こえると、大猿はこの人を投げ捨てて立ち去った。俺はただ必死で介抱を…」
「ええ、本当よ…」
真っ白な顔で無理に笑顔を作る母親が言葉を添えた。
「この光が、せめて私の痛みを取り除いてくれるの…この方はわたしの恩人なのよ…」
善丸は母の手を握った。
「わかった。わかったから母さん。何も言わないで…」
とめどなく、涙があふれる。どんなに怖かったろう、どんなに痛かったろう。どんなに悔しいだろう…。
「あたしゃ幸せだよ、お前は本当にいい子…」
澄んだ瞳を開いたまま、言いかけの口は動きを止めた。
「母さん?」
もう、善丸の母は動かない。
「母さん、かあさんっ」
善丸は涙でぐちゃぐちゃの顔を母に擦りつけた。何度も何度も。散らばった血まみれの内蔵も一緒に手ですくって丸ごと抱きしめた。
強かった母。優しかった母。
大好きだった母。
少しの間、目を閉じた仙太郎だったが、表情を変えぬまま、その奇妙な男に近づいた。
「お前の言うことは本当か」
「あ、ああ。もちろん。嘘なんかついても得は無え」
「じゃあ訊くが、その大猿はどっから来て、どこへ行った?」
「そんなの、知らねえ。ただ噂にゃ聞いたことがある、覚って言われる大きな猿の姿をした妖怪がいるってな」
「お前が見たのはそれなのか、覚なのか?」
「さあな。そこまではわからん」
仙太郎はギロリと、男を睨みつけた。
「お前さん。さっきの、あの手から出る光は何だ?」
「あの女を助けてやろうと…いや、どっちみち無理だったろうが、せめて痛みだけでも取り除いて、と」
善丸が母の遺骸を抱いたまま、二人の間に割って入った。
「この人は、母さんを助けようとしてくれたんだ。この人がいなかったら、俺は最期に母さんと話すことも出来なかったに違いない」
仙太郎は構わず男を詰問する。
「お前は一体何者だ。答えろ」
刀を抜き、鈍く光る刀身を男の首筋にあてがった。
「あ、お、俺は…」
男は震えながら答えた。
「俺はレビル。『川男』と呼ばれる河童族の一員だ。妖怪だからという理由で人間たちに殺されかけたところを、救われ光の波動の技を教わって…」
「ほう…ともかくお前は妖怪だ、と」
川男レビルは伏し目がちに仙太郎を見上げて、小さく答えた。
「あ、ああ」
「ならば、是非も無し」
仙太郎はいきなり刀を振り上げた。月光に青く照らされた切っ先が円を描く。
「あっ」
一瞬。
残ったのは、目に焼き付いた美しい刀身の残像と、真っ二つに断ち切られた川男。
「人外、死すべし」
善丸は目を丸くした。
「なぜ、なぜ…こいつは母さんを助けようと…悪いやつじゃないっ」
声をあげた善丸。
仙太郎は返り血を拭おうともしない。
「いかなる理由があれど、人外抹殺は我らが掟。法こそが我らの拠り所。情で動いては全てが台無しになる」
「しかし」
雲二郎も異を唱えた。
「兄さんはやり過ぎだ。妖怪と言えども同じ世界に生きてるんだから共存可能なはず。理解し合い協力できる。だが兄さんは掟、掟って。錆び付いた古いやり方にしがみついてばかりじゃないか」
仙太郎は奥歯をぐっと噛みしめた。ギロリ、と雲二郎を睨む。
「俺が間違ってる、と言いたいのか?」
「い、いや…あの」
「嫌われようが憎まれようが俺は人類を守る。それが使命だ。甘っちょろいこと言ってるうちに増えた妖怪たちが、得体のしれない力で人間に牙を剥いてきたときには手遅れだ」
「……」
「そして妖怪たちは次第に凶悪になってきている。お前も感じているはずだ。今のうちに芽を摘まねば、我らの孫子の代が危うくなるだろう」
草むらでガサガサっと音がした。
「あっ」
振り返った一同は、確かに見た。
闇夜の森を駆ける、毛むくじゃらの影を。
つづく