再会
人は皆、運命に翻弄され、己を生きんがため運命に抗おうとする。
しかし時に、それさえも運命の手の内にある。
涼しさを増した北西からの風にそよぐ収穫を控えた稲の穂が、大海の波のようにうねっている。
碧く澄んだ空を見上げた旅の若い男は、あぜ道の真ん中で両手を大きく突き上げ、乾いた空気を思いっきり吸い込んだ。
「ふう。懐かしい。懐かしい匂いだ」
草履の傷み具合が長旅を想起させる。
男は道端に腰かけて竹筒の水を一気に飲み干すと、すっくと立ち上がりまた歩き始めた。
「変わってないな、ここは」
日差しは強いが暑くはない。心地よい風が頬を撫でる。
「おおいっ」
里の方から声がした。大きく手を振る男。
狸の毛皮で出来た羽織を纏っている。
「やっと帰ってきたか。久しぶりだな、雲の字」
「おお、善ちゃん。迎えに来てくれたのか」
出迎えに来た善丸とガッチリ握手し再開の笑みをこぼす旅装束の少年、その名を雲二郎と云う。
「しかし、雲ちゃん。見違えて立派になったな。お互い齢十五、しっかりしなくちゃな」
「ここ数年で背だけは伸びたが、中身はどうだか…それにしても、あれからもう四年も経つのか」
数えの十五と云えば、当時ならもう元服してもおかしくない。「大人」の心得を身につけ、己が生きる道を定め将来の展望を明らかにする時期。
「善ちゃん、将来はどうするんだい。親父さんの後を継ぐってとこかな」
「ああ、そうさ。俺の親父は三国一の忍の草。今必死に仕事を教わってるよ、親父、俺にはとんでもなく厳しいけどな」
忍の世界にも様々な役割分担がある。「草」とは敵の領土に潜り込んで偵察と情報収集、さらに作戦の下準備をする重要な役割。彼らの働き如何に形勢が大きく左右されることは間違いない。
善丸が目を輝かせる。
「おれはいつか親父を超える存在になってやるんだ」
微笑ましそうに頷く雲二郎に、今度は善丸が尋ねた。
「雲ちゃんはもちろん…戦士の道を歩むんだよな。筋のよさはその血が保証する、ってやつだ」
「あ、ん…どうかな…立派過ぎる兄貴もいることだし、俺はまた別の道を探すのもいいかな、なんて思ったり」
少しうつむく雲二郎の肩を、善丸がポンと叩いた。
「何を弱気になってんだよ。今回の武者修行ですっかり逞しくなったんだろ?兄さんを超えるために、さ」
雲二郎は作り笑いをしながら口ごもった。
「いや、あ、今回は修行と言っても…」
「こんなとこで話し込んでもしょうがねえな。とにかく皆がお前の帰りを待ってるんだ。早いとこその元気なツラ見せてやれよ」
「そうだな…」
「新しい本殿な。もうすっかり建前も終わって細かな組み上げを待つばかりだ。新しい時代、俺たちの時代もがもうすぐやって来る」
荷物を半分引き受けた善丸が先導して向かった先は三河の国、池鯉鮒の宿から西に二里ほど離れた小高い丘。
「この道、小さい頃はやたら急な坂道に思えたっけなあ」
古びた数奇屋造りの門構え。看板も掲げられることなくひっそりと人目を忍ぶように佇む屋敷。
「お待たせえっ。さあ皆の者、尾張裏柳生家の次男、雲二郎さまのご帰還だぞおっ」
大声を張り上げる善丸を「恥ずかしいからよせ」と制しながら、雲二郎は深々と頭を下げて敷居をまたいだ。
「落ち着くなあ、我が家ってのは。やっぱり」
長旅を履き古した草履を脱ぐ雲二郎。声を聞きつけ、屋敷で働く女たちが割烹着を脱ぎながら集まってきた。
「やっとお帰りなさいましたね、首を長くしてお待ちしておりました。熱いお茶を淹れますから、大あんまきでもお食べになってゆっくりなさいませ」
「雲さん、長崎いってらしたんですよねえ。バテレンさん達の珍しいものがいっぱいあったでしょ」
「あら、あんた。早速お土産の催促なんてはしたないねえ」
「あたしゃお土産なんて一言もいってませんよ、そういうあんたこそ」
賑やかな歓迎ぶりに苦笑いする雲二郎。
「ところで…」
しきりに辺りを見回す。
「あ、兄貴は…?」
女中の一人がニッコリと笑って答えた。
「お元気にしていらっしゃいますよ、仙太郎は。ますますご立派になられて…」
だが姿が見えない。奥にある道場を覗き込む雲二郎。
「稽古かい?」
女中が首を横に振った。
「いえ、今しがたお出かけになられました。ここから北東の小さな村に向かわれるそうです」
「ああ、あの集落か。しかしなんでまた」
「馬憑きが出た、って…」
「なにいっ」
「討伐だといって部下をお連れになられて、ついさっき…」
雲二郎は熱い茶を一気に飲み干した。
「どういうこった」
険しい目で身を乗り出す雲二郎に少々驚きながら女中は答えた。
「え、ええ、最近この辺りで『馬憑き』の被害が続いていまして、あちこちに草を忍ばせていたようなんです…」
人間に取り憑き、まるで馬のような容貌に変異させ凶暴化させる「憑依型」の妖怪、馬憑き。
「馬憑きが、ねえ…」
以前から三州で目撃例のある妖怪だが、ここ数ヶ月の間、馬喰と呼ばれる馬産農家だけでなく一般の農民にも憑依がおよび、脅威となりつつあった。
「で、兄貴は…まさか退治に?」
「ええ、もちろんですとも。お父様亡き後、今や頼れるのは仙太郎さましかおりませぬもの」
「ふうん…」
長男、仙太郎は雲二郎から見ればたった二歳年上なだけ。それなのにこうして妖怪退治の仕事を引き受けるなんて、もう一人前の池鯉鮒衆。
「すごいなあ、兄貴は」
一族からも信頼の厚い兄に対して雲二郎は、自分の至らなさを思えばなんだか歯がゆいような、正直に吐露するならば「嫉妬」といっていいような感情と、同時に尊敬の念を抱いた。
「兄貴はちっちゃな頃から期待されてたもんな。親父が死んで十年、もはや兄貴がここの頭領ってとこだな」
尾張裏柳生一門、中でも「池鯉鮒衆」と呼ばれるエリート集団は妖怪退治を生業とする。
尾張国のみならず、三河、岐阜、美濃、伊勢に至る広い範囲で、近年急速に増えつつある妖怪がらみの難事件を解決してクライアントから報酬を得ていた。
「ええ。仙太郎さまは、今やお父様にも負けない程のモノノケ狩りをなさいます。来る百周年の式典ではご先祖さまたちに胸を張ることが出来そうです」
女中は晴れやかな表情で言う。
「新しい本殿ももうすぐ完成。一門の未来はまさに安泰」
、
そもそも「尾張柳生」とは、新陰流の達人であり徳川家兵法指南役として名高い柳生宗宗矩の従兄弟である利厳が、尾張徳川家の新陰流指南役となったことに端を発する。
「御先祖様がこの地に居を構え、早や百年か…」
十七世紀末から十八世紀初頭にかけ、尾張徳川家に謎の怪死事件が相次いだが、これを妖怪の仕業と見抜いて見事解決してのけたのが尾張柳生家、厳延の庶子、柳生利蔵であった。
「俺も頑張らなきゃな…」
モノノケ狩りのエキスパートとして独立、池鯉鮒衆の初代となった利蔵は自在に波動を操り次々に妖怪を退治、各地に武勇伝を残し「雲の利蔵」の異名をとった伝説の忍。
「そうね。雲二郎さまは、初代から一文字いただいてらっしゃいますから感慨もひとしおですね」
その強い妖力ゆえに江戸の本家からも恐れられたという偉大すぎる創始者の名を冠するには、まだあまりに己に自信が持てないでいる雲二郎。
「お、俺なんかは…」
うつむく横顔には、まだ少年の面影。
「まだ、ひよっこさ」
軽く唇を噛むと、きりりとした目で顔を上げた。
「だが、俺も地理鮒衆のはしくれ。こうしちゃいられない、馬憑き退治に馳せ参じるぞ」
右手をサッと上げ、馬を用意するよう指図する。心配そうに善丸が駆け寄る。
「お、おい。お前さん、まだ旅の疲れも…」
雲二郎は振り返って笑顔を見せた。
「せっかくの機会だ。ちょうどいい、兄貴のモノノケ狩りの腕前、見せてもらうとするさ」
栗毛色の、いかにも賢そうな目をした馬に颯爽とまたがった雲二郎は、二人の従者を伴って門を出た。
向かう先は、兄が駆けつけたという馬憑きが跋扈する刈谷の村。
つづく