謎の男
伊勢の妖怪、悪路神の火、とは、非業の死を遂げた男の怨念が生み出した怪物だった。
犠牲者を出しながらも討伐に成功した池鯉鮒衆だったが、手負いの天兵衛とその息子、善丸が、避難した崖上で窮地に立たされていた。
「父さん、僕の後ろに隠れてっ」
悪路神率いる屍鬼と池鯉鮒衆の激しい戦闘によって、この地に張り巡らされていた古い結界が敗れた。結果、身を隠していた巨大山蛭たちが群れをなして天兵衛と善丸に襲いかかっていたのだ。
「なんて数だ…キリが無え」
斬っても斬っても湧いてくる。毒液を吐きつけられて視界が徐々に狭まってくる。激しい雨が助けを呼ぶ声を遮り、二人はすっかり孤立していた。
「まずい…父さん、俺の後ろに隠れててっ」
二人を取り囲む妖蟲の輪はどんどん小さくなる。捕まったら最後、一滴残らず血を吸いつくされてしまうに違いない。
「善丸…」
屍鬼に受けた太腿の傷のせいですでに虫の息の天兵衛が声を振り絞った。
「お前だけでも、逃げるんだ…二人して殺されることはない」
「何言ってるんだ、父さんを置いて逃げるわけにはいかないっ」
「いや、これは親として言うのではない。お前の師としての命令だ…」
「そんな…何とか方法はあるはず…」
もはや逃げ道は断たれた。どっちを向いても気味の悪い巨大なヒルが地面を埋め尽くして不規則にうごめいている。
「ちくしょう…」
自分の鼓動がやけに大きく聞こえる。
「あれまあ…」
何者かの声が聞こえてきた。
「得体の知れない怪物がわんさか、だな…」
土にまみれた手拭いを頭に巻き、皺の多い浅黒い顔にはいくつかのシミ。無精ひげには柿の食べかすが付いたままのむさ苦しい農夫風の壮年男。
男に向かって善丸は叫んだ。
「おい。オッサン」
「うひひ」
男はニヤニヤしながら首をかしげている。
「こりゃあ大変なこった」
善丸は少し苛立っているようす。
「俺たちはオッサンに構ってる暇無いんだよ。そんなとこにいたら怪我しちまうぞ」
山蛭の群れはもう目の前。
善丸は刀をぐっと握り締めて身構える。男はその場に居座って二人の様子を眺めている。
「ほう…どうするかな」
吞気な言葉に苛立った善丸が怒鳴った。
「見世物じゃねえんだ、おっさん」
「あん?」
「だから、見てんじゃねえ、っての」
ふと、男がギラリと目を光らせた。
「確かに…見ているだけじゃあ、つまらんな」
スーッと深呼吸。背筋を伸ばして膝を曲げ、ゆっくりと両手を前に突き出した。
「久しぶりに…やるか」
善丸が怪訝そうに見ている前で、その男は両掌を眩く光らせた。
「な、なんだっ」
放たれた光の筋は、一瞬にして妖蟲山蛭を包んで塵に変えてしまった。
一匹、また一匹。あっというまに全ての山蛭は、男が発した光によって全滅してしまった。
「一体これは…」
善丸は驚きに目を丸くしたまま立ち尽くしてしまった。
男は何食わぬ顔で近づき、天兵衛の太腿の傷を見るなり腰にぶら下げた麻袋から膏薬を取り出した。
「ひどい傷だ。これを塗るといいぞ、うひひ」
ニヤニヤしながら男は、汚れた手で軟膏を塗った
「ほれ」
「え、ええっ?」
見る間に傷の周りのどす黒い痣が消えてゆく。傷口から真っ黒い膿が噴き出したかと思ったら、速やかに腫れも消退した。
「二日もあれば完全に治るな、こりゃ」
善丸は呆気に取られたまま。
「ちょ、ちょっと。オッサン…なんなんだ、さっきの光といい、この薬といい。あんた一体…」
悪路神退治を終えた仙太郎たちが、崖を駆け上ってきた。
「怪しい男め…何だ、あの光は。お主、何を企んでいるっ?」
男を睨みつけながら仙太郎は刀を抜いた。雲二郎も身構えながら背後に回りこもうと間合いをうかがう。
善丸が慌てて叫んだ。
「違う、違うよ。この人は僕らを助け…」
仙太郎はぐっと膝を屈めた。
「いや。さっきの光は妖の術…ただの百姓を装っているがお主、人外だろう?」
いきなり飛び掛った。同時に雲二郎も背後から斬りかかる。
「人外すなわち、抹殺」
男はひょいと飛び上がってかわした。
「早まるな」
「その身のこなし、ますます只者ではない」
追撃する仙太郎と雲二郎。男は身軽に攻撃を避けながら崖を下りて峡谷へ逃げ込んだ。
「逃がさんっ」
しかし、男は突然両手を上にかざし、再び眩い光を放った。
「はああっ」
掌から飛び出した光の弾は上方の崖に命中、ゴロゴロと岩が崩れ落ちた。
「さらば」
男は崖をひょいと飛び越えて逃走した。
「な、なんだっ。あの技…」
仙太郎と雲二郎は、男が崩した岩に行く手を阻まれてその場に立ち尽くした。
「手強い。手強いぞ、あのモノノケは…いつの日か、我らが討伐すべき相手と心得た…」
「仙太郎さん、あいつは俺たちを助けてくれたんだ…確かに妖気みたいなものを強く感じたけれど、あの気配は妖怪のそれとは異質なものだったし、おそらく味方だよ」
戻ってきた二人に善丸が訴えた。しかし仙太郎は首を横に振る。
「いや。甘いな、善丸。今日はたまたまそう見えたかも知れぬが、人外の力はいずれ必ず我らの脅威となる。あんな力を持つモノノケがこの世にいる限り、人間は枕を高くして寝ることは出来ぬ」
「しかし…」
「我らが百年に渡って守り続けてきた掟だ。その拠り所を失うことは、我らの存在理由を失うに等しい。掟はこれからも守り続けねばならん…」
気付けばすっかり日は傾いていた。
悪路神の強大な妖気が消えると共に響きだした秋の虫の美しい声に耳を傾けながら、一行は伊勢路を後にした。
つづく




