心折れた男の末路、悪路神
伊勢・猪草ヶ淵の怪異現象「悪路神の火」退治が始まった。
底なしのぬかるみから次々に現れる屍鬼たちとの激しい戦いが続く。もののけ狩りを生業とする池鯉鮒衆の若き頭領、仙太郎とその弟、雲二郎の活躍で敵の半数を壊滅に追い込んでいた。
しかし油断は禁物。
「あっ、ああっ」
川辺で戦う天兵衛が右の太腿をやられた。屍鬼の長い爪の一撃を食らったようだ。
「と、父さんっ」
息子である善丸が駆け寄った。破れた股引の隙間から見える傷は深そうだ。ドクドクと血が流れ出しているのが見える。屍鬼は執拗に襲いかかってくる。
「この野郎っ」
善丸が叫びながら突き飛ばした。倒れた敵を刀でメッタ突き。すでに頭部を破壊され動かなくなった屍鬼に、なおも斬りつける。
「落ち着け。落ち着け、善丸っ」
父・天兵衛の声に我に返った善丸が振り返った。
「父さん…だ、大丈夫?」
天兵衛の顔がみるみる蒼白になってゆく。
切り裂かれた右の太腿の周囲はジワジワと黒紫色に変色して融解し始めているように見えた。
「まずい、まずいよ父さん。暗黒の波動が侵食して…」
取り乱す善丸の肩を、駆けつけた仙太郎がポンと叩いた。
「落ち着け。こういう時こそ冷静に。まずは天さん、退避してくれ。善丸、あの崖の上に連れて行くんだ。足の付け根をしっかりと縛って腐敗が広がらないようにしろ」
「は…はいっ」
善丸は早速父を背負って崖へ。
付け加えるように、仙太郎が善丸に伝えた。
「もし…もしも、の場合だが。天さんが正気を失って、屍鬼に変化する兆しを見せたら…」
「ま、まさか…」
善丸の顔が青ざめた。仙太郎がいつも以上に恐ろしく、冷酷に見えた。
「善丸。その時は掟に従え」
顔色一つ変えぬまま、仙太郎は首を掻き切る仕草をしてみせた。
「は、はい…」
鬼気迫る表情に、善丸はただ頷いた。
急いで父親を背負って崖を上り、安全な場所を確保。指示通り足をきつく縛り上げて身体を休ませた。
「決して油断するな、思ったより手強いぞ」
仙太郎は池鯉鮒衆を時に鼓舞し、時に喝を入れ、全体を見回しつつ細かい指示を出し、戦況を有利に進めようと腐心している。
「さすがだな…」
雲二郎はそんな兄を誇らしくも、羨ましくも思い、まるで付き人のように全てを盗み取ろうと、その一挙手一投足を注視しながら共に戦っていた。
「く、来るぞっ。この妖気…ただ者じゃねえ」
その仙太郎が額から汗を垂らしている。表情が一層険しくなった。
「親玉…悪路神が来る」
腹の底に響くような声が聞こえてきた。同時に耳を痛いほど突き刺す声。
「返せ…返せ…」
川には大きな渦が巻き、濁りは一層増している。
「返せ…俺の子を、俺の妻を、俺の人生を…」
渦の中心から、ゆらりと姿を現した。顔半分は溶けてただれ、頭蓋骨が剥き出しになっている。歯は抜け落ち、代わりに黄ばんだ大きな牙が生えている。泥のような唾液を垂れ流しながら、耐え難い腐敗臭を漂わせる屍鬼。
「人間の欲…欲が俺を殺した、妻を、子を殺した…」
悪路神の周囲は黒く澱んだ陽炎に包まれている。ゆっくりと近づいてくる。
「お前が悪路神、いや、耕平だな」
仙太郎は一歩前に出て対峙した。もはや崩壊した顔面がかすかにほほ笑んだように見えた。
「ほう…よく知ってるじゃないか。賢い人間もいるな…だが残念なことに、お前らは俺のエサでしかない」
悪路神はゆっくりと屈んだ。
「ん?」
次の瞬間、悪路神は急に飛び上がって仙太郎に襲いかかった。
「は、速いっ」
気付くと目の前。長く伸びた爪が首筋に迫る。
「ううっ」
首をすくめてギリギリでかわした仙太郎が飛び退く。ぴったりとついてくるように悪路神の飛び上がって追う。
「返せ…俺のすべてを返せ…」
まるで脳波に直接語りかけるような声がガンガン鳴り響いている。
「いいや耕平、それはここには無い。成仏してあの世で探せ」
空中で投じた鎖が悪路神の首に巻き付いた。ぐいと引っ張り動きを封じる。しかし動じない悪路神。
「こんなもの…」
いとも簡単に腐りは噛み千切られた。鎖の断端はドロリと溶け、わずかに黒煙を噴き上げている。
「な、なんと…」
慌てない仙太郎は岩場を幾つか機敏い飛び移って距離を取り、手裏剣を繰り出した。右、左、上、時に軌道を自在にカーブさせたり。
「うひひひ」
すべて見切って叩き落とした悪路神、その背後に雲二郎が襲いかかった。刀を振り上げて脳天を狙う。
「えっ」
気配を読まれたか、まるで後ろに目があるように予期された雲二郎の奇襲。バネのように撓う脚が雲二郎の腹を蹴り飛ばした。
「ぐあっ」
ぬかるみに落ちた雲二郎が必死で岩場によじ登る。仙太郎は機敏に飛び回って悪路神を翻弄しようとするが、ことごとく見切られている。
「人間の力など所詮」
対して悪路神は、足を取られることなくぬかるみの上を、まるで滑るように軽快に動き回る。そのスピードは仙太郎でさえ凌駕している。
「俺が『悪路神』と呼ばれる所以だ」
こちらの動きは完全に読まれている。飛び上がった仙太郎は手裏剣を撃ち込んで岩場に着地しようとしたが、ガクっと膝をついて崩れ落ちた。
「うっ」
投じられた手裏剣を爪で受けた際、悪路神は仙太郎の動きを予期して着地点に向かって跳ね返していたのだ。
「読まれた、か…」
自らが放った手裏剣を脛に受けた仙太郎。立ち上がろうとした時にはもう目の前に悪路神が立ちはだかっていた。
「食ってやる」
仙太郎の両肩をむんずと掴んだ悪路神。
「んっ?」
背後のぬかるみが、にわかに盛り上がった。
「ぷはああっ」
飛び出したのは雲二郎。敢えてぬかるみの中に身を隠し、気配を消していた。悪路神の膝の裏側目がけて刀を真横に振ると、朽ちかけた肉の隙間から見える硬い骨と骨の隙間、紙一枚ほどの間隙を正確に斬り抜いた。
「えっ、ええっ」
悪路神はダルマ落としのように両脚の膝から下を切り取られて倒れた。ぬかるみから飛び出して勝ち誇ったように見下ろす雲二郎だったが、その油断が今度は彼を危機に晒すことになった。
「うあっ」
悪路神の手が雲二郎の脚をガッチリと掴み、もう一方の腕で踏んばりながら、再びぬかるみの中に引きずり込んだ。身体にまとわりつく泥の海のなかでは自由が利かない。
「ここは俺の土俵だ、お前はもう逃れられん。さあ、たっぷり泥を呑んでもらおうか」
ぐいぐいと、抵抗できない力で引きずり込まれる。胸が、顎が、唇が泥の中に埋もれてゆく。苦くて臭い泥が次々に口の中に流れ込んでくる。
「うぷっ、うげっ」
呼吸もままならなくなる中で、雲二郎は叫んだ。
「耕平っ、聞け耕平っ」
いや、むしろ語りかけた、と言うべきか。
「お前は耕平だ。悪路神なんて妖怪じゃないっ。お前の居場所はここじゃない、ここにいても永遠にお前の魂は救われないじゃないか」
「う、うっ…」
悪路神は一瞬動きを止め、雲二郎の顔をじっと見入った。首を横に振り、威嚇するように口を大きく開けて大きな牙を誇示して見せる。
「ぐるるるっ、がうっ」
雲二郎は恐怖など感じないかのように、冷静に語り続けた。
「お前の飢えは、いくら人を殺めようが食おうが、満たされないんだ。自分でも知っているはずだ。それは苦しみを増すだけだ。お前の愛した子も、妻も、お前がこんな真似するのを喜んでいると思うのか?」
「う、うう…うっ」
悪路神の手が緩んだ。逆に、雲二郎が悪路神の肩をぐっと握った。
「なあ、耕平。ここはただの沼地、誰もいやしない。お前を待ってる人や、お前が愛する人がいる場所へ、早く行ってやれ、耕平。もういいんだ。お前の長かった苦しみ、そろそろ終わりにしようじゃないか…」
悪路神の顔が一瞬、元の耕平に戻った。少なくとも雲二郎にはそう感じられた。一粒、二粒…薄汚い唾液ではない、透き通った雫が悪路神の頬を伝って流れるのが見えた。
「うっ、うああっ」
その時、悪路神の背中に真っ赤な火の手が上がった。
「よくやったぞ雲二郎」
悪路神の背後には仙太郎。
大人しくなった隙に背後から灯し油をかけ火を放っていた。
「燃え尽きろ、悪路神め」
次々に、灯し油の入った小袋を投げつけると悪路神は再び凶悪な顔を仙太郎に向けた。
「ぐうっ、ぐああっ、俺は…」
焼かれながら叫ぶ悪路神の言葉は炎にかき消されてゆく。
「俺は、俺は本当は…」
「あ? お前は、薄汚えバケモノだ」
仙太郎は手にした鎌で悪路神を脳天から真っ二つに切り裂いた。
それでもまだ足りない、と言わんばかりに細切れになるまで何度も鎌を振って切り裂いた。
「肉片一つ残らず消してやるっ」
もう一度、灯し油をかけて全てが灰になるまで焼き尽くした。
「しかし…」
仙太郎は汗だくの顔を雲二郎に向けた。
「よくやった。情で敵を釣るとは、大した作戦だ」
「い、いや…俺は…その…」
「はは、恥ずかしがることは無いぞ。どんな手を使おうが勝たなければ意味がない。敵を欺くとは、むしろ誇っていいぞ。それにしてもお前の演技は上出来だった」
「いや、あの兄さん。俺は本当に…」
二人の会話を遮るように、崖の上から大きな声が聞こえてきた。天兵衛と善丸だ。どうやら危機に瀕している様子。
つづく