妖気漂う日陰の淵
山道を奥へ進む。木々の葉は、深い緑色から色褪せた橙へ。さらに歩を進めると、日に透けるような黄金色、そして深紅へ。
「つい言葉に出ちまうんだよなあ」
木漏れ日を眩しそうに手で遮り見上げたの善丸の少し前を、父の天兵衛が歩む。
「言葉?」
「ああ。『綺麗だ』ってね。毎年見てるはずなんだけどなあ」
「ふっ、たかだか十五でその口ぶりか。いいか、俺なんざその倍以上生きてるがな…ああ、今まったく同じ事思ってたとこだぜ」
尾張裏柳生、もののけ狩りのエキスパート、池鯉鮒衆でも名うての忍草親子は昨夜のうちに高浜港をひっそりと小さな船で出航、伊勢・鳥羽に上陸した。
「よく考えたら、父さんと二人で旅なんて、実は初めてだね」
二人は夜明けとともに内陸へ。
伊勢の社の北西、田丸城の北を流れる櫛田川沿いを歩いて西弘寺を見ながら山道を通り、猪草ヶ淵を目指していた。
「そうだな…俺の生業がこんなだから仕方ないだろ、というのは言い訳かな」
「ち、違うよ父さん。そんなつもりで言ったんじゃ」
慌てたように善丸。
「父さんの仕事ぶりはみんな尊敬してる。もちろん僕も。鼻が高いんだ。こんな父さんの息子で幸せだっていつも思ってる」
天兵衛はちらっと善丸を振り返り、小さく「ありがとう」と口を動かしながら軽く頷いた。
「だが…確かにここしばらく母さんにも会ってないだろ。どうだ善丸、今度の正月は恵那に帰って一緒に過ごしたらどうだ?」
「あ、ああ…で、父さんは行かないの?」
「ううん、そうしたいんだが…ここんとこ仕事が山積みなんだ。今回の一件も大きなヤマだが、あと二、三…さっさと片づけて早々楽隠居、といきたいもんだが」
「そ、そうだね…」
善丸ももう元服間近。早く一人前にならなければ、という焦り。
先を歩く父の後ろ姿にそこはかとなく「老い」を見た。同時に自分たちの時代がすぐそこまで来ていることを実感した。
「ここだ、ここ。間違いない」
唐突に天兵衛は立ち止まった。
少し頭をすくめ鋭い目と耳で辺りをうかがう。
「感じないか、妖気を。うすら寒い風が腸を通り過ぎるような」
「あ、う…うん」
日の遮られた窪地。
だがこの寒さの原因が単なる日照不足でないことは、周辺の木々の葉が、紅葉どころか腐敗したように黒く変色し、樹木そのものが立ち枯れていることで理解できた。
「あれだ。あの橋だ」
二人に与えられた任務は「悪路神の火」と呼ばれる怪異現象の調査。
「訊いた通り、朽ちかけてる」
その丸田橋を通りかかると、提灯が揺らめくような火が漂うと云う。
古くからその「悪路神の火」と呼ばれる現象を目にしたものは病に伏したり、命を落とす者さえいると云う。
「確かに薄気味悪いや」
近年は被害甚大となっているとのことで、業を煮やした田丸城主は池鯉鮒衆に調査および妖怪退治を依頼した。
善丸はぐるりと周辺を見回した。
「幸い、今日は霧も出ていないね」
「当り前だ善丸。忍ってのはな、天候にも明るくなきゃいけねえ」
悪路神の火は、悪天候時や霧の深い日に目撃例が多いことが知られている。
「いいか、俺たちの相手は得体の知れねえ人外だ。事は慎重に、まずは現場の検分だ。今日の午前のうちは腫れて空気が乾いてるはずだから、その間にしっかり先行調査だ」
「さすが父さん。現地の天気まで調べてあるってわけだ」
「感心してる場合じゃねえぞ善丸。じきお前の役目になるんだからな、早く仕事覚えてくれねえと…さ、ちょっと川べりまで下りるぞ」
丸田橋の袂から、切り立った崖をゆっくり下りてゆく。
粘り気のある泥の上に落ち葉が何層にも重なる腐葉土のぬかるみに危うく転びそうになることもしばしば。二人は支え合いながら「悪路神の火」を起こす妖怪が棲むとされる淵「猪草ヶ淵」に辿り着いた。
「こいつはひでえ妖気だ…」
「うん…息が詰まりそうだよ、父さん」
思わず手拭いで口を覆う善丸は、足元で何かがうごめくのを感じた。
「ん、ん?」
濡れたように、ひんやりとした感触が脚を撫でる。
「んん?」
昼前だというのに日が遮られて薄暗い足元を覗き込む。
「こ、これ…」
黒光りするツヤツヤした、大きなナメクジのような生物が脚に絡みついていた。その背には緑と橙の毒々しい斑点が地図のような紋様となって描かれている。
「ひいっ、な、なんだっ。これ、こ、これっ」
「ヒルっ、山蛭だっ」
駆けつけた天兵衛が刀を抜く。
一刀両断。
「しかし…巨大すぎるぞ、こいつは」
切り裂かれた山蛭をじっと見る。
「むうっ?」
目を凝らすと、この一匹だけではなさそうだ。
あちこち枯れ葉の下で何かがモゾモゾとうごめいている。近寄ってくる。
「なんなんだ、こいつら…」
「い、痛いっ…」
善丸が叫んだ。苦痛の表情で押さえる脚は、うっすら黒煙を上げながら内出血で変色している。
「ぜ、善丸っ。大丈夫か…毒? いや…」
天兵衛は急いで腰元に下げた袋から、やや黄味がかった白い粉を取り出して善丸の脚に振りかけた。
「どうだ?」
「う、あ…いや、ああ。楽になってきたよ」
速やかに肌の血色を取り戻し、腫れが引いてゆく。火を消すように黒煙は収まった。
天兵衛は呟きながら頷いた。
「よく効くな、大したもんだ。しかし…こいつら」
近づいてくるうごめきに次々と白い粉を振りかけた。すると巨大山蛭たちは粉に触れるや一気に動きを弱め、ジタバタとのたうち回りながら紫煙を上げて動きを止めた。
「すげえ、すげえよ父さん」
みるみるうちに山蛭は溶けて消えてしまうか、怖がるように逃げていった。
「そ、その粉…?」
「モノノケの妖力を弱める粉だ。対モノノケ作戦の切り札として研究部が取り組んでる代物さ」
「切り札?」
天兵衛はニヤリと笑いながら説明した。
「まだ僅かな量しかない故、むやみには使えんがな。池鯉鮒衆秘伝の品だ。ある種の波動を拮抗して抑制する効能がある。解析によればこの粉は、人外特有の波動周期にのみ有効らしい」
「す、すげえっ。じゃあ、こいつを使えばモノノケの息を止めることが…」
「ああ。波動封じ、だ。波動は生命力と同義だからな。直ぐには難しいだろうが、いずれ人外の能力を封じることくらいは出来るようになるだろう。一族の祖、利蔵さまが若い頃、モノノケ狩りの際に力を合わせた河童族の一人から入手した巻物に調合法が記されているらしい。先日、建て替えに伴う旧殿の整理で見つかったそうだ」
「楽しみだ…しかし河童から、とは」
「河童を侮っちゃいかん。彼らはかつて人間より高度な知能を持ちこの世に君臨したというからな。初代が云うには、今も彼らの種族の一部は地下に棲み、この世をひっくり返すような力を持つ装置があるらしい」
「ええっ、この世をひっくり返す、だって?」
「ああ。波動の力が詰まった石の力を増幅する炉だ、って話だ。本当かどうかは知らないがな…そして初代は何と、その河童から同志の証として、とてつもない波動の力を秘めた石を頂戴した、というんだ」
「波動の石…それは、今もあるの? 池鯉鮒に」
「そうらしい。仙太郎さまがこっそり教えてくれた。だが三代目が起こした内紛で所在不明となった…持ち出されてはいないのだが、何処にあるのかは誰も知らない。今回の新殿建立は、その石を探すための旧殿解体にも理由がある」
善丸は目を輝かせた。
「すげえ、すげえよ。そうしたら人外全滅だ。伝説の力と最新の知識と技術で、史上初めてモノノケのいない世の中になる…」
「そうだ。まさに池鯉鮒衆の悲願だ…しかし」
天兵衛はぐっと声のトーンを落とした。
「まずは、今、目の前の仕事をしようじゃないか」
力強く頷く善丸を伴って、ゆっくりと川べりに近づいた。
もう山蛭たちはいない。
「さあ、入るぞ」
「えっ」
「中に入らなきゃ調査にならんだろ。さ、川に入るぞ」
つづく




