守るべきものは
「おお、こりゃ美しい」
夕陽を手で遮るようにして、真新しい白壁を見上げる仙太郎と雲二郎。
池鯉鮒、小堤西池と大池の間、彼らの新しい本殿がほぼ完成している。後は細かな装飾を経て、鬼瓦が揚げられる頃合だろう。
「完成が楽しみだ。池にゃ燕子花が咲く。次の春は、白と蒼の対比が見られる」
「ああ兄さん。ご先祖様にも胸を張れる」
「ふふ、お前の成長ぶりもご先祖様に報告しなきゃな。なんたって磯天狗退治はお前の手柄」
「あ、あ…ううん」
完成間近の新しい根城の出来栄えに悦に入りながら二人は、今や「旧殿」と呼ばれるようになった歴史ある本殿に戻った。
「まあ、遅いじゃないの」
玄関で出迎えたのはお洋。
二人が羽織を脱ぐのを手伝いながら、にっこりと微笑む。
「お疲れでしょう、一本つけておきましたよ」
顔を見合わせ軽く頷きあった二人。
「さあ、今日は新しく入った帳付けさんからこれをいただいたんですよ」
お洋が秋刀魚を運んできた。やや時期が遅いものの十分に脂が乗っている。さっそく兄弟は盃をかわした。
「なあ、兄さん。ちょっと調べてみたんだが…」
「あ? お前が、か。そんな仕事は草に任せておけばいいだろう」
「けど…ちょっと気になって」
仙太郎は器用に小骨を避けて秋刀魚を口へ運ぶ手を止めない。
「気になるって、何がだ」
「磯天狗だよ。こないだの…」
ややトーンを落とす雲二郎を、ちらっと見たものの、まるで聞こえないかのように箸を動かし続ける仙太郎。雲二郎は構わず続けた。
「磯天狗って言うけど、もとは山に住んでたらしいんだよ。山の精霊ってことで人間とも仲良くしてたらしい。でもだんだん人間が山を切り開いて居場所がなくなって、結局追われるように山を出て川べりで暮らすようになって」
「……」
仙太郎は無言のまま、空の徳利を振ってみせる。お洋に「もっとくれ」と目配せ。
「聞いてる? 兄さん。それでね、川で暮らすようになった磯天狗と河童が仲良く暮らすようになって、そしてその間に生まれたのがあの磯鬼丸」
雲二郎の口調はだんだん強くなる。
「けれど河童にしてみたら天狗の血が混ざった異型の子ってことで、たいそうなイジメにあって川を下って海辺に逃げ込んだ。そこで今度は人間の漁師たちに捕まって、火炙りにされたらしいよ。ひどい話だと思わないかい?」
「ん、あ、ああ…そうかもな」
顔色を変えず酒をあおる仙太郎。
反応に乏しいのがちょっと不満そうな雲二郎は、いっそう声の調子を上げた。
「結局、人間があいつらを追い込んでるんじゃないかな。どう思う、兄さん? 僕ら一族は『もののけ狩り』が使命ってのは判ってる。けど、闇雲に殺すんじゃなく、ちゃんと調べて話し合って、何なら人間として謝るべき所もあるかもしれない。そうやってお互いに理解し合えば…」
茶漬けをすすっていた仙太郎が椀をガタン、と置いた。
じろりと雲二郎の目を覗き込む。
「その火炙りから逃れた磯鬼丸が島へ渡るとき、村の若い娘をさらっていった、って事は知ってるか?」
「えっ…」
「そこまでは調べてない、か…」
仙太郎はゴクリと喉を鳴らして盃の酒を飲み干した。
「その娘は、磯鬼丸に子を孕ませられた。一回だけじゃない。何匹も何匹も孕ませられたんだ」
「そ、そんな…」
「さんざん弄んですっかり飽きた磯鬼丸は、その娘を食い殺した。ヤツは味をしめ、その後何人いや何十人もの若い娘がさらわれ、子を産まされ、食われて死んだ。あの一族はその忌み子の磯天狗によって成り立ってきたんだ」
「あ、ああ…」
雲二郎は思わず箸を落とした。
空気を察してか、話題を変えようと話しかけながら酌をするお洋の手を仙太郎は制した。
「共存? 無理だ」
あえて手酌で一杯飲み干しながら。
「生きるってことは限りある資源の奪い合い。今や人間同士でさえ甘いこと言ってたら生きられないご時世」
少し首をひねる雲二郎。
「しかし…元を正せば悪いのは人間ってことも」
「元がどうとか、なんて知ったこっちゃない。今人間が襲われてる、理屈じゃない。今、自分と大事なひとを守らなきゃいけない。わかってるのはそれだけだし、それだけで十分だ」
うつむきながら、それでもしきりに首をひねる雲二郎。
「で、でも…暴力は暴力を生み、憎しみは憎しみしか生まないから、その連鎖が…」
仙太郎はチッ、と舌打ちした。
「だから何だ、あ? じゃあ牙剥いて襲ってくる暴力に、笑顔で殺されればいい、ってのか」
「そ、そうじゃないけど…暴力の行き着く先は…」
「安全なとこにいるヤツほど理想を語るってんだ。愛する人が暴力に犯されようとしている時でさえ、お前は暴力を否定できるのか?」
「……」
口ごもる雲二郎。
「いいか、俺たちの掟は、人外死すべし。これは百年変わらぬ我らが守るべきもの」
「掟…」
「そうだ、掟だ。感情でも人情でもない、掟に俺たちは生かされてる、とも言える」
「でも、必ずしも掟が正しいとは…」
仙太郎は静かに答えた。
「ああ。だが法は法。人間は掟の中に生きて初めて人間となれる。無法な社会では畜生と変わりが無い。先人たちが築き、頑なに守ってきた掟に従ってこそ、そこに人間社会が、絆が生まれる」
雲二郎はゆっくりと頷いた。
「たしかに…」
仙太郎は少し表情を緩め、雲二郎の盃に酒を注いだ。
「なあ、雲。人の考えや思いは皆違う。それが当たり前ってもんだ。だから簡単にぶつかり合うんだ。人と人の絆は危うい。それをかろうじて繋ぎとめるのは情でも理想論でもない…掟なんだよ」
気付くと、たくさんの酒瓶が空になっている。お洋も一足先に寝屋に向かったようだ。
久しぶりに布団を並べた仙太郎と雲二郎は、窓の隙間から差し込む淡い月光を浴びながら、幼い頃の思い出話に花を咲かせつつ、いつしか眠りに就いた。
つづく




