炎の中へ
三河湾に出向いた池鯉鮒衆一行は、磯天狗の住処である筒島を毒矢でいぶり出し、海上に出てきたところを次々に撃退した。
しかし、磯鬼丸と呼ばれる首領格は一筋縄ではいかない。若衆が犠牲となり、仙太郎も火だるま。そして善丸に殺戮の手が伸びる。
「に、逃げろ善丸っ。ひとまずここは逃げるしかないっ」
仙太郎は、自らの着衣を包む火を消すため、自ら海に飛び込んだ。
「た、助けて…」
善丸は座り込んだまま震えて身動き出来ない。
「クククケケ」
奇妙な笑い声を発しながら磯鬼丸が迫る。善丸を頭から飲み込んでしまうほどに大きく口を開けながら。
「ひっ、ひいいっ」
わなわなと震えて後ずさりする善丸の総毛が逆立った。
「あ、ああ…」
覆いかぶさるように迫る磯鬼丸の影、その背後の空にキラリと何かが光った。
「んっ?」
磯鬼丸も振り向いた。
マストの上から飛び降りてきたのは雲二郎。全身に濡れた布をまとい、両手に矢を携えている。
「チッ」
迎え撃つように、磯鬼丸の火炎攻撃。だが雲二郎はひるまない。炎の中に自ら飛び込むように、まっすぐ磯鬼丸めがけて降下する。
「やってやる」
雲二郎は炎に包まれた。濡れた布がかろうじて身体を守る。そして手に持った矢は「二の矢」、その先端に括り付けられた皮袋を結ぶ糸が、磯鬼丸が吐いた炎の熱で解けた。
「クアッ」
袋の中の大量のシャボン液が磯鬼丸に浴びせかけられた。
「ギャアアッ」
炎が消えた。
「よしっ」
ひるんだ磯鬼丸が思わず背を向けた。
「今だっ」
落下の勢いそのままに雲二郎は磯鬼丸の首根っこに矢を貫通させた。
「グウッ、グアアッ」
暴れ狂う磯鬼丸。
雲二郎の目はその時、野獣のそれだった。
驚くほどに落ち着いた声。鼓動はいたって平坦なままに。
「くたばれ」
腰元の刀を抜く。
一気に、時計回りに弧を描くように大きく振る。
遠心力を保ったままの切っ先は磯天狗の首筋へ。
「はあっ」
そのまま手元に引くように切り込んだ。
「グ、グハアッ」
磯鬼丸の首が跳ね飛んだ。
「はあ、はあ…」
胴体だけになった磯天狗の亡骸を「忌々しい」とばかりに蹴り飛ばして海に突き落とした雲二郎の全身は震えていた。
それは恐怖によるものでも、罪悪感によるものでもなかった。
「うふ、うふふ、あははは」
えもいわれぬ高揚感。
しかし驚くほどに鼓動は平坦。
「ふう…」
ほどなく、急に力が抜けたように雲二郎はヘナヘナと甲板に座り込んだ。
まだ開いたままの瞳孔に、善丸の笑顔が映る。
「助かった…お前のおかげで助かったよ、雲の字」
仙太郎も海から上がってきた。
「すごいぞ、雲。やればできるじゃないか、お前っ」
「ん…えっ、あれっ。俺、俺…」
急に我に返った雲二郎は、あちこちを見回す。
取り戻された静寂は、むしろ不気味に感じられる。
「やった…やったんだ。俺が…」
上空を舞うカモメたちの声が、少し虚ろに聞こえた。
ポン、と雲二郎の肩を仙太郎が叩いた。
「はは、夢中になって我を忘れたな。俺も最初はそうだった…」
「やった…この俺が、やった…」
仙太郎がぐっと肩を握る。
「今回は手柄だ。兄として誇らしいぜ」
「殺した…俺があいつの命を、奪った…」
何かいけないことに手を染めてしまったかのような奇妙な心の痛みを残しつつも、兄からの賞賛に照れる雲二郎。
にわかに早く打ち始めた鼓動はなかなか収まりそうにない。
「殺らなきゃ、みんな殺られてた…」
「そうだ…悲しいことだが、戦いとはそういうもんだ。いや、戦いに限らねえ。生きていくってことの本質はそれだ」
仙太郎は言いながら、船底から取り出してきた大きな網を海に投じた。
「つまり、油断するな、ということだ。火種は決して残してはならん」
海面に未だ漂う磯天狗の亡骸を網に捕らえ引き上げた仙太郎は、一匹ずつ丹念に、確実に息の根が止まっていることを確認した上で、大きな袋に詰めた。
「人外、すべて抹殺すべし。さあ、筒島に立ち寄るぞ」
すっかり穏やかになった三河湾を滑るように池鯉鮒丸は進む。
「仕上げをするぞ」
筒島の南端に船体を横付けした。すでに彼らが毒霧の矢で壊滅させた磯天狗の住処。
「南風が強いから、こっちから近づけば毒の霧は流れてこない。ほうれ」
仙太郎は磯天狗の遺骸の入った袋を島に投げ落とした。
「さあ、船を出す」
島は小さくなっていった。
「さあ、みんな弓を持て。はじめるぞ」
沖へ出た池鯉鮒衆は全員で島全体に火矢を放った。
「仕事はこれにて完了、だ」
仙太郎の視線の先、筒島は濛々たる火に包まれた。
島が雑草一本残らぬほどに禿げ上がった頃、池鯉鮒丸はゆっくりと帆を上げ帰路についた。
つづく




