トゥエンティーン
ガラスの靴、推定二十八センチ。
どういうシンデレラだと言いたいのをぐっとこらえ、その違和感の塊を検分する。造形は文句なしに美しい。が、一体これはどういうことなのか。僕は困惑して持ち主を見やった。
もう誰もいなくなっていた夕暮れの教室は、しんと静まっている。カーテンの裾が柔らかく窓縁を撫でる。一見暖かく感じる教室だが、ひんやりとした空気が漂っているのは、もしかするとこのガラスの靴のせいかもしれない。綺麗に並んでいる茶色い木製の机の群れのちょうど中心にこの片方のガラスの靴を見つけたのは、ついさっきのことだった。一旦家まで帰った後、教室の中にまだ忘れ物があるような気がして、急いで戻ってきたのだ。詰襟がどうしても息苦しくて、片手で外す。すっと冷たい空気が喉元へと入ってくる。胸につけたドライフラワーみたいな布製の花びらが、かさかさと音を立てる。
今日の卒業式は、あっという間だった。リハーサルも何度もしたし、とくに緊張も悲しみも感じなかった。少し寂しいなとは思ったが、在校生の後ろに陣取っていた保護者たちのほうが何倍も涙を流していたような気がする。それが終わって、みんなで教室に戻って記念写真の撮影の嵐。正直僕は自分の顔が嫌いだから、「現像したら送るね」ていう配慮は無用だった。今でもこのガラスの靴に映るぼやけた自分の顔を見るのは苦痛で仕方がない。でも、一人だけ記念写真を送ってほしい相手が僕にはいた。
西岡薺はクラスの中でもおとなしめで、どちらかというと不思議な女の子だった。表情を変えることが少ないし、たいてい自分の机で静かに本を読んでいた。どことなく冷たい雰囲気を醸し出す西岡さんも、仲良しの友達としゃべっているときに一瞬だけ笑顔を見せる時があった。それを見ることができた日は、なぜかすごく心拍数が上がってドキドキする。特別なものを見れたことによる興奮だったのだろうか。
そんな西岡さんが、まさか僕と記念写真を撮ってくれるとは思わなかった。相変わらず無表情で淡々としていたから、僕も思わず笑うことなく撮影が終わってしまった。さすがにもう帰っているだろうなぁと思っていたが、案の定そうだった。忘れ物があるかもしれないと取りに行きた僕だが、特に何も見つからなかった。もしかしたら、何もないのは自分でもわかっていたけど、この校舎から離れるのが本能的には寂しかったのかもしれない。感情的にならずにやけに落ち着いているという自分の性格は、西岡さんとも共通している。と思う。
そして僕らの高校生活は終わった。意外にあっけないものだったような気がする。シンデレラほどの華やかさはかけらも無かったし、ドラマチックな出来事も無かったような気がする。ハリボテですら無い高校生活。そんな高校生活の終わりの終わりに突如現れたガラスの靴。しかも二十八センチ。シンデレラの物語でもガラスの靴は新たな物語のはじまりを指していたが、目の前のこれもそうなのだろうか。終わりははじまりという言葉をどこかで聞いたことがあるが、もしそうだとしたら僕は主人公か。そんなキャラ僕には似合わない。僕はエキストラがよく似合うと思う。主役たちを引き立てる、脇役の脇役に。
ガラスの靴は今もまだ夕日を浴びてほのかに冷たく光っている。そっとそれに手を触れている。当たり前だがひんやりとしている。
その時、教室の前側のドアが大きな音を立てて開いた。ハッとして反射的にガラスの靴を後ろに隠す。ゆっくりと人が入ってきて、僕と目が合う。大きくて漫画からそのまま出てきたようなまん丸の目。西岡さんだった。相変わらず無表情だが、涙を流したのかいつもより顔全体が赤いような気がする。
「あ、内原」
「お、おう。どした? 帰ったんじゃなかったのか?」
「色々とね」
そう言いながら教室中を巡る西岡さん。もしかしてこのガラスの靴を探しているのだろうか。だとしたらこのガラスの靴の持ち主は西岡さんだろうか。
ガラスの靴、推定二十八センチ。
どういうシンデレラだと言いたいのをぐっとこらえ、その違和感の塊を検分する。背中の後ろでそれをじっくりと撫でて形を確認する。造形は文句なしに美しい。が、一体これはどういうことなのか。僕は困惑して持ち主と思われる西岡さんを見やった。
「卒業かぁ。なんかあっという間だったような気がする」
「そ、そうだね」
西岡さんの独り言は無表情なのも要因の一つなのかもしれないがどこか意味深に感じる。
「次にみんなに会えるのって成人式の時かな」
「そう、かもね」
上手いこと返せない自分が憎い。気の利いた一言でも言えればよかったのだろうがそんな余裕は無い。
「ねぇねぇ、内原さぁ、この位のガラスの靴、見なかった?」
靴? ああこれね、と言い出しそうになったが、ふと良いことを思いついた。これをいつまでも僕が隠し持っていれば、西岡さんとはまたいつか返すという口実で会うことができる。卒業してバラバラになっても、西岡さんの一部は僕が持っていて、いつか大事なときにそれを返す。なんとなくメルヘンな想像が頭の中にどんどん湧いてきている。
「ガラスの靴? シンデレラじゃあるまいし、あるわけないじゃんか」
「だよねぇ。私、美術部だったんだけど、あれ卒業記念作品でさぁ。けっこう思い入れあったんだよねぇ」
と言いながらずっと机の中やロッカーの中をチェックしていく西岡さん。そう言われると罪悪感が膨らんでくる。いま返せば少し呆れられるくらいで何もなく終われるような気もする。でも、この先きっと会えないだろう。どうすればいいのか迷っているうちに西岡さんは諦めたのか、ため息をついた。
「もしかしたら後輩のいたずらかもしれないな。美術室行ってみよ」
そう言って歩いていってしまった。
次に会えるのは成人式。西岡さんのその一言が、僕を内側から攻撃してくる。後ろに隠したままのガラスの靴を目の前に持ってきて、じっくりと見やる。夕日に照らされている部分は光が微かにあるが、日暮れと共に影の部分が増えていた。
成人式になっても、西岡さんは現れなかった。あの日に素直に返しておけばよかったなって今になって思えるようになったのは成長なのだろうか、それともただの後悔なのだろうか。あれからすぐに帰って「あなたは私のシンデレラだ」みたいなキザな台詞を今日のこの日のために用意していたことも、もう西岡さんには伝えられない。カバンの中に大切に入れておいたガラスの靴は結局、そのままもって帰った。十代の心残りは十代までに全て解決しておけばよかった。寒空の下、心の中で我慢できなくなったガラスの靴が圧力か何かで一気に割れる音がしたような気がした。