異世界召喚――値崩れを起こす愛情表現
この物語にはキスに関する過激な表現がありますが、全年齢対応の小説です。
例えば、学校の帰り道で唐突に意識を失い、気付いたら見知らぬ部屋にいたとする。目の前には神々しい雰囲気の美少女。その両隣には神官らしき様相の男たち。床には俗に魔法陣と呼ばれる光り輝く模様があり、その中心に自分が座っている。
さて、そんな状況に置かれたら凡人はまず混乱するだろう。そしてその後、これは何かの冗談で、目の前にいる美少女や男たちが自分をからかっているのだと思う。しかしそんなことをしても何の特にもならないと思い直し、これはもしや、ファンタジーという架空の世界によくある、異世界に召喚された状況なのではないかと思い至る。しかしそれも信じがたく、取り敢えず情報を集めた後に現状を理解しようと結論する。
少なくとも俺はそういった状況に陥り、そういった思考をした。
さて、異世界召喚らしきものをされた俺が考えているうちに美少女が近付いてきた。筆舌に尽くしがたい美貌である。ここまで来ると凄すぎて男が抱くべき性欲すら湧かない。神のレベルである。
その超絶美少女は、おもむろにかがみ込むと、呆然と座っていた俺に、
キスをした。しかも舌を入れて来た。
俺のファーストキッスはそうやって奪われた。ねっとりとしたエロ過ぎる初体験である。美少女の舌遣いは恐ろしく巧妙で、俺の口内を掻き回し、俺の精神を甘美に蹂躙した。ずずずと唾液の交換すらしてしまう。
俺の心を揉みくちゃにした少女は行為を終えた後、
「ようこそ、勇者様」
と言った。異世界なのに言語は同じなんだなと、半停止状態に陥っている脳みその片隅で思った。
さて、その後俺は、自分が異世界から召喚された勇者であることを説明された。そして現在人類を殺戮しようとしている魔王の軍団と戦ってくれと懇願された。異世界人は神の加護だとか何とかでとても強くなっているらしい。色々と文句をつけたくなるような話だが、それはまだいいのだ。まだ、辛うじて許容範囲なのだ。理不尽な話だが人助けは悪くないと思うし、命がかかっていれば彼らが理不尽なこともしてしまうのも多少は理解できる。
しかし、唯一つ、どうやっても我慢できないことがある。
この世界のやつら、挨拶としてディープキスをするのである。それも恋人同士の挨拶だけではなく、初対面の相手に対する挨拶でも舌を入れるキスをするのだ。最早握手をする感覚である。しかも挨拶だけでなく、肩を組んだりハグしたりといった喜びや悲しみを共有する行為としてもディープキスが行われる。
そうやって端的な言葉で表現するだけなら実感は薄いだろうが、現実にそういった世界に生きるとかなり辛い。
俺は召喚された直後に美少女からの熱いキス(当時の俺の感覚ではそうだった。実際はただの挨拶)を受けたのだが、その後彼女は両隣にいた神官の男たちともディープキスをしたのだ。衝撃だった。何が起こった?乱交パーティーか?と凄まじく混乱した。挙句、神官が男同士でディープキスを開始した。何が起こった?東京大空襲!関東大震災!ハルマゲドン!俺は開きっぱなしになった口の端からヨダレを垂らしつつ意味不明の思考をしていた。
その後も到る所でディープキスを目撃した。男同士でも女同士でも他人同士でも関係なくキスをする。いつでもどこでも舌と唾液が絡み合うぺちゃぺちゃと水っぽい音がする。拷問である。特に神官長と俺の初キスを奪った少女(神殿の巫女らしい)とのキスは最悪だった。神官長は悪人ではないのだが、歩くにも困るような物凄い肥満であり、常に顔面からダラダラと脂汗を垂れ流している。そんな脂肪の塊の化け物と美少女とのディープキスである。まるでレイプの現場を見ているような気分になる。その光景は悪夢となって俺を悩ませ、ずいぶんと精神力を削った。
しかしそういった気分の悪くなる光景を見るだけでは済まなかった。なぜなら挨拶をするべき相手にはこの俺も含まれるからである。
俺は老若男女関係なくあらゆる人物に唇を狙われた。恐怖である。あらゆる人間から貞操を狙われているに等しい。彼らからしてみればただ単に挨拶をしたいだけなのだろうが、俺からしてみればただの強制わいせつである。
俺は初めの頃はうっかり油断してムサい男との熱烈なキスという最悪の体験をしてしまうことが度々あった。しかし俺は自分の唇を守るために死に物狂い(誇張表現ではない)で己の戦闘能力を高め、やがて俺の唇を奪える人間はいなくなっていた。
ちなみにそうしているうちに、俺の評価は「無愛想だが、勇者としての立場に甘えることなく努力を怠らない質実剛健な孤高の戦士」というものになっていた。それでも周囲のやつらがブチュブチュとキスしまくっている事実は変わらない。
俺は魔王の配下である魔物にその怒りをぶつけながら、勇者として人類を守っていた。
さて、堪忍袋の緒を日々軋ませつつ勇者稼業を営み始めてから二年程が経過した。
その日俺は、「マナの泉」と呼ばれる伝説の地を捜し歩いていた。人類と魔物の争いに終止符を打つためである。
そもそも魔物が人間を襲うのは、魔物には「マナ」と呼ばれる生物には必要なエネルギーを通常の食物から摂取することが出来ないからである。唯一「マナ」を得られる食物。それが人間なのだ。つまり、魔物は自分たちが「マナ」の不足で死なないために人間を殺して食べているのだ。
つまり、その「マナ」の問題さえ解決されれば、人間と魔物の対立の根源は消える。もちろん長年に渡る禍根は消えない。しかし、「マナ」の問題が解決されないことにはここから先へ一歩も踏み出せはしない。永遠に、どちらかが滅びるまで戦い続けるしかないのだ。
その問題を解決するのが「マナの泉」である。「マナの泉」と呼ばれる特殊な泉の水ならば、魔物であってもたったコップ一杯で人間一人分の「マナ」を吸収できる。
俺は暗黒の海を渡り、死の山脈を越え、ついに「マナの泉」がある黄昏の森まで来ていた。俺以外の者ではとても付いて行ける道ではなかったので一人旅だった。人間どころか魔物一匹いない黄昏の森。
心が落ち着く。ここでは誰一人としてキスをしていない。
いっそ人類と魔物の対立なんかどうでもいいかもと思い始めていると、人間と遭遇した。黒髪の少女。この森を探検していたためか俺と同じく薄汚れている。
「誰だ、お前」
「お前こそ誰だ」
「俺は勇者とか呼ばれている」
「私は魔王だとか呼ばれている」
敵の親玉と遭遇してしまった。
ここで宿命の激突、そして死闘の果てに勇者が勝利。
というわけではない。
俺は魔王から何やら親近感にも似たものを感じていた。それはこの世界には珍しい特徴的な顔立ちや、何だか色々と疲れてしまったが今この時は開放されているような雰囲気によるものだ。
もしや。
「お前、異世界召喚?」
「うん。じゃああんたも?」
「俺、日本人」
「私も」
「初対面でキスしたりしないよな?」
「命を懸けて、この唇の貞操は守る」
この世界における唯一無二の仲間だ、と感じた。
それから俺と魔王は様々な話をした。
俺は召喚されてから老若男女関係なくキスを狙われ続け、幾度と無く貞操を散らしながらも修行の果てに人類最強の強さを手に入れたこと。
魔王は召喚されてから老若男女関係なく魔族(魔物のうち人間に近い文化と肉体をしているもの)にキスを狙われ続け、あらかじめ神様から説明を受けていた通りに力を使い、唇の貞操を守りきったこと。
何やら一部不公平な部分があるが、心の中でその神とやらを抹殺するに留めておこう。召喚されてからの二年間で俺は随分と忍耐力が付いた。
さて、俺と魔王で最も意見が合致した点それは、
「挨拶にディープキスは無いよな」
やっぱり、これだった。俺も魔王も「マナの泉」を探してここまで来て、そして周囲に誰一人いない環境に安らぎを感じていた。
そんな雑談をしつつ、古代人に封印されていた悪霊を聖典からは既に失われた神聖魔法で抹消し、突如現れた異次元生命体をかつて大天使を死に至らしめたと伝えられる禁断魔法で滅殺し、気付けば「マナの泉」に辿りついていた。
その後。
俺と魔王は「俺たち(または私たち)二人で世界征服できるんじゃないか」という感想を抱いた。
俺たちはある目的のために世界征服を実行。分身の術を有効に使い、世界を半年で制圧した。
俺たちが世界にまず第一に求めたもの。
それは、
「俺たち(または私たち)の前でキスするんじゃねえ!」
ということだった。
それから三百年が経過した。俺と女王様になった魔王は全く老いる気配が無い。どうやら神の加護というものらしい。
そして三百年が経過した今でも挨拶でキスをする習慣は変わらない。まあ、「王城でキスをするな」という注意をしただけなのだから当然である。キスしただけで懲役とかは流石にアホらしいので、その程度の注意に留めておいた。
人類と魔物の軋轢は随分と少なくなってきている。魔物が「マナの泉」に暮らすようになり、人間を襲うことが殆どなくなったからである。見る影も無く規模が小さくなった教会などの組織や一部の地域は文化として魔物を嫌悪しているし、魔族の一部では人間の味にこだわりがある種族もいる。しかしそれを除けば世代交代していくにつれて人間と魔物の互いの認識は大いに変わった。せいぜい変わった隣人として感じる程度だろう。
俺と魔王、じゃなくて女王が住む王城ではキスによる挨拶は無く、握手で挨拶が行われる。うっかりキスをしようものなら不調法な田舎者としてせいぜい笑われるのだろう。
今日は辺境の視察から女王が帰ってくる日である。俺は王城の門の前で彼女を待っていた。衛兵に見つかると騒がれるので、姿が消える魔法を自身に施してある。
「ただいま」
背後から声をかけられた。振り向くと、そこには女王がいた。どうやら気配を殺して忍び寄っていたらしい。
「おかえり」
と俺が言い終えるかどうかという瞬間、いきなり女王は俺にキスをした。それも、舌を入れるやつ。
「王城では、挨拶でキスをするのは不調法だろ」
「愛情表現だからいいのよ」
彼女はそう言うと朗らかに笑った。俺も笑う。
かつて魔王だった現在の女王は俺の妻だ。彼女は三百年経った今でも甘えたがるが、見事に俺は尻に敷かれている。これからは女性の時代だとか言って夫の俺を差し置いて女王になるし、神様直伝の魔法は圧倒的だ。それに彼女の魅力は現在でも衰えることを知らず、俺は何かしら懇願されるとどうしても断れない。剣術の腕では俺のほうが上だが、神を三千年ほど仮死状態に追いやった究極魔法の前ではほとんど役に立たない。
まあ、俺はそれでもいいかと思っている。
俺と女王は、それからもう一度、しかし今度は触れるだけの優しい口付けをした。愛の確認として。