婚約者に「君の代わりはいる」と言われたので、水門を閉じることにした
「君の代わりならいる」
その言葉を聞いた時、セレスティアは婚約者の顔ではなく、窓の外を見た。
雨はまだ降っていない。
けれど西の空が妙に暗かった。
雲の底が低い。
王都を囲む城壁の向こう、さらに西へ連なる山並みはもう見えない。
窓硝子へ手を当てる。
冷たい。
「……セレス?」
呼ばれて、ようやく向き直った。
応接室の向こう側には三人いる。
父。
婚約者のレオン。
そして妹のミレイユ。
ミレイユだけが、こちらを見ていなかった。
「聞いていたか?」
父の声だった。
「はい」
「なら話は早い」
机の上には一枚の書類が置かれている。
婚約解消の同意書。
その横に、もう一枚。
王都水務局・第一水門管理官の解任通知。
婚約より、そちらを手に取った。
「後任は?」
父の眉が動いた。
「婚約より先に聞くことか?」
「後任は誰です?」
「ミレイユだ」
そこで初めて妹を見た。
ミレイユが唇を噛む。
「わたしは――」
「父様」
妹の声を遮った。
「第一水門の実務経験は?」
「水務院で二年学んでいる。お前も知っているだろう」
「実務です」
父は黙った。
レオンが代わりに答える。
「補佐官として経験を積めばいい。お前も最初から一人だったわけじゃない」
「誰の補佐を?」
「技官は残る」
「管理官資格を持つ技官は?」
また沈黙。
答えは分かった。
いない。
セレスティアは紙を机へ戻した。
「引き継ぎ期間は?」
「三日だ」
今度こそ、聞き間違えたかと思った。
「三日?」
「十分だろう」
父の言葉に、思わず椅子の背を握った。
木の角が掌へ食い込む。
痛みを感じてから、力を抜いた。
「第一水門の平常操作だけなら、三日でも覚えられます」
「なら――」
「洪水時は無理です」
父の顔から、わずかに苛立ちが消えた。
代わりに、理解できないものを見る表情になる。
「水門を開け閉めするだけだろう」
セレスティアは息を吐いた。
説明しても意味がない。
そう思った。
けれど三日後には、自分はあそこにいない。
なら意味の有無を決めるのは自分ではない。
「第一水門は、扉を上げれば水が流れて、下げれば止まる装置ではありません」
父が眉をひそめる。
「王都へ入る三本の導水路と、旧河道へ逃がす二本の放水路。それぞれの水量を同時に調整します。西山から来る本流は、雨量と雪解けと上流三領の取水量で流速が変わる。第二水門と第三水門の開度でもこちらの水圧は変わります」
「それは記録を読めば――」
「記録には昨日までの川しか載っていません」
言葉が少し強くなった。
ミレイユが顔を上げる。
セレスティアは続けた。
「今日の川が昨日と同じなら、管理官はいりません」
レオンがこちらを見ていた。
昔なら、その目に何を考えているのか探しただろう。
今はしなかった。
「婚約解消には同意します」
父が何か言う前に署名する。
ペン先が紙を擦る音が、妙に大きく聞こえた。
「管理官の解任にも従います。ただし、引き継ぎは三日で可能な範囲に限ります」
「十分だ」
「そうですか」
立ち上がる。
「なら、今日から始めます」
レオンが呼び止めた。
「セレス」
足を止める。
「……すまない」
何について謝ったのだろう。
婚約か。
仕事か。
妹を選んだことか。
分からなかったので、振り返らなかった。
「それは今、必要な情報ではありません」
そう言って部屋を出た。
第一水門は、王都の西端にある。
城壁より古い。
巨大な石造建築の中央を川が貫き、その流れを五枚の黒い門扉が横切っている。
最も大きな中央扉は高さ十二メートル。
厚さは人の腕ほど。
表面には鉄でも木でもない青黒い素材が使われていた。
水晶を粉にして樹脂と混ぜ、数十層を圧着した古代複合材。
傷がつけば白く曇る。
曲げには強いが、局所的な衝撃には弱い。
百八十年前、一度だけ門扉の角が欠けた。
その補修跡は今も残っている。
管理塔へ入ると、油と湿った石の匂いがした。
「管理官」
老技官のバルドが立ち上がる。
「あと三日です」
「……聞きました」
それだけだった。
慰めも、怒りもない。
ありがたかった。
「ミレイユは?」
「二刻ほど遅れると」
セレスティアは外套を脱ぎ、壁へ掛けた。
「では先に日常点検を」
「今日も?」
「今日だからです」
中央の制御卓へ向かう。
半円形の石盤に、五本の真鍮製操作桿が並んでいる。
それぞれ門扉へつながっていた。
ただし機械的につながっているわけではない。
桿を倒す。
基部の封石が圧力差を読み取る。
その値を地下の増幅器へ送り、門扉脇の水圧筒へ術式圧を加える。
水門を動かす力そのものは川から借りる。
流れている水の圧力を、一度脇へ逃がして利用する。
だから、川が強くなるほど門扉を動かす力も増える。
便利な仕組みだ。
同時に、厄介でもある。
水圧が強ければ操作桿は軽くなる。
強すぎれば、逆に軽すぎる。
数字だけ見ていると、その違いを見落とす。
セレスティアは第一桿へ指を掛けた。
三度だけ、わずかに押す。
戻る。
もう一度。
同じ。
第二桿。
問題なし。
第三。
手を止めた。
「バルド」
「はい」
「昨日より返りが遅い」
老人が隣へ来た。
操作桿を二本の指で押す。
戻る途中、ほんのわずかに引っ掛かった。
「泥ですかね」
「多分」
「開けます?」
セレスティアは窓の外を見る。
川面は穏やかだった。
だが山側の雲はさらに濃くなっている。
「今やりましょう」
「三日しかないのに?」
「三日しかないからです」
床の点検口を開ける。
地下へ降りると、音が変わった。
川が壁の向こうを通っている。
見えない。
けれど石壁全体が低く震えていた。
第三系統の圧力筒は、胸の高さほどある青銅製の円筒だった。
側面へ耳を当てる。
水が流れる音。
一定ではない。
サッ、サッ、と短く途切れる。
「流入口に何か噛んでる」
バルドが工具を渡す。
三本爪の長い鉤。
セレスティアは圧抜き弁を四分の一だけ回した。
回しすぎてはいけない。
内部圧が急に落ちれば、逆流して異物が奥へ入る。
弁から細い水が吹いた。
透明。
さらに少し。
茶色い濁りが混じる。
「今」
バルドが側面蓋を開けた。
セレスティアは鉤を差し込む。
先端に抵抗。
硬い。
石ではない。
押すと、たわむ。
「枝?」
「もう少し柔らかい」
角度を変える。
引っ掛ける。
引く。
途中で外れた。
舌打ちしそうになり、やめた。
もう一度。
今度は深く掛かった。
両手で引く。
濡れた布のような塊が、管の奥からずるりと出てきた。
黒い。
広げる。
「藻?」
バルドが首を傾げた。
セレスティアは指で擦った。
表面がぬるついている。
だが藻ではない。
細い根が絡んでいる。
「水草です」
「この時期に?」
おかしい。
第一水門の上流は流れが速い。
こんな柔らかい水草が大量に育つ場所はない。
「どこから来たの」
答えはなかった。
昼過ぎ、ミレイユが来た。
白い管理官候補用の制服を着ている。
よく似合っていた。
「遅れてごめんなさい」
「理由は?」
「お父様に呼ばれてた」
「ならいい」
セレスティアは制御卓を示した。
「まず平常操作から」
ミレイユが隣に立つ。
緊張している。
手が少し硬い。
「第一桿を半目盛り」
妹が動かす。
速い。
「戻して」
「え?」
「今の速度だと駄目」
「でも半目盛りに――」
「位置は合ってる」
セレスティアは自分の手を操作桿へ置いた。
「水門は動き始めるまで遅れて、動き始めると速い。目盛りへ合わせるんじゃなくて、動き出す前に止める」
ゆっくり押す。
桿の基部から、微かな振動が指へ伝わった。
まだ。
もう少し。
手応えが消える直前に止める。
二秒後。
塔の下から重い音が響いた。
門扉が動き始める。
指針が半目盛りへ滑り、止まった。
「今の……どうやって分かったの?」
「分からない」
ミレイユが困った顔をする。
「正確には、説明できない」
「それじゃ引き継げないよ」
「そうね」
妹の言葉は正しい。
セレスティアはしばらく操作桿を見た。
自分が十年以上かけて覚えた感覚。
それを三日で渡せと言われている。
不可能だ、と言うのは簡単だった。
でも、それでは三日後に困るのはミレイユではない。
川下に住む人間だ。
「もう一回やって」
「うん」
「今度は目を閉じて」
「え?」
「指針を見ない」
ミレイユが恐る恐る従う。
「押して」
「これくらい?」
「もっと遅く」
「……」
「今、少し軽くなったでしょう」
妹の指が止まった。
「なった」
「そこから先へ押すと水圧筒が動く」
目を開かせる。
指針は目標の少し手前だった。
「数字は結果。先に装置の変化を感じる」
ミレイユがもう一度、目を閉じた。
今度は先ほどよりゆっくり押した。
二日目の朝。
雨が降り始めた。
細い雨だった。
セレスティアは西の観測塔から届いた紙片を読む。
山間部、降雨量平年比一・八。
まだ警戒域ではない。
問題は別だった。
「第三観測所、流速一・二倍?」
バルドも覗き込む。
「雨量にしては速いな」
「水位は?」
「平年並みです」
水位が同じなのに、速い。
川幅が狭くなった。
あるいは流路が変わった。
昨日の水草を思い出す。
「上流工事の記録を」
ミレイユが棚へ向かう。
「今年の?」
「五年分」
「そんなに?」
「川は昨日できたわけじゃないから」
夕方まで記録を追った。
三年前。
西領で新しい農業用水路が完成。
二年前。
支流を一部付け替え。
去年。
洪水対策の堤防を延伸。
今年。
下流域で浚渫。
一つずつなら、問題はない。
水量計算も通っている。
それでも何かが変わっている。
地図を床へ広げた。
ミレイユが横から覗く。
「ここ」
指を差した。
「何?」
「三年前の用水路。湿地を通ってる」
「湿地?」
「学校で見たことある。水草が多いところ」
昨日の黒い塊。
セレスティアは地図へ手を置いた。
用水路。
支流。
新しい堤防。
旧河道。
線がつながっていく。
「バルド」
返事がない。
見ると、老人も同じところを見ていた。
「川が短くなってる」
彼が言った。
そうだ。
蛇行していた支流を切り替え、堤防で湿地への越流を止めた。
農地は増えた。
洪水も減った。
けれど水は以前より真っ直ぐ王都へ来る。
同じ量でも、速い。
「設計時の到達時間と違う」
セレスティアは立ち上がった。
「第二・第三水門へ連絡。洪水時刻表は使わないで。観測値基準に切り替える」
ミレイユが顔を上げる。
「そんなことしていいの?」
「規則では駄目」
「じゃあ――」
「規則を守ったまま王都を水浸しにするよりいい」
その瞬間、遠くで雷が鳴った。
三日目。
朝から雨音で目が覚めた。
管理塔の仮眠室。
いつ寝たのか覚えていない。
床が震えていた。
いつもの振動ではない。
強い。
廊下へ出る。
バルドが走ってきた。
「西塔から緊急!」
紙を受け取る。
山間部豪雨。
第一観測所、水位急上昇。
到達予測――
セレスティアは数字を二度見た。
「二時間?」
「旧時刻表なら四時間半です」
予想よりさらに速い。
外へ出る。
雨が顔へ叩きつける。
川は昨日とは別物だった。
茶色い水面が膨れ、木片が流れている。
まだ堤防まで余裕はある。
だが速い。
異様に速い。
「ミレイユ!」
妹が塔から降りてきた。
「はい!」
「中央扉二割。第一・第二導水路を閉める。旧河道へ流す」
「でも旧河道は――」
「分かってる」
二十年前からほとんど水を通していない。
その先には王家の狩猟庭園がある。
さらに先には旧貴族街。
現在は倉庫と邸宅が数軒。
規定では、王都の洪水時はまず下町側の第四放水路を使う。
理由も知っている。
旧河道沿いの土地は王家と上級貴族の所有だからだ。
「第四放水路なら住宅地へ――」
ミレイユが途中で黙った。
理解したらしい。
第四放水路の先には、三十年前には畑しかなかった。
今は職人街になっている。
規則ができた時とは違う。
「旧河道を使います」
セレスティアが言った。
バルドが一度だけ頷く。
誰も反対しなかった。
制御卓へ戻る。
第一桿。
第二桿。
閉じる。
中央。
二割。
旧河道側の第四桿へ手を伸ばす。
動かない。
「……何で」
両手で押す。
びくともしない。
「固着?」
バルドが操作桿を見る。
「二十年使ってないから――」
「昨日の点検では?」
「補助系統だから外観だけです」
自分の判断だった。
三日で引き継ぐ。
使う可能性が低い系統は後回しにした。
間違えた。
喉の奥が冷たくなる。
川の振動が床から足へ伝わっている。
時間はない。
「地下へ行く」
ミレイユが腕を掴んだ。
「危ないよ」
「ここからじゃ直らない」
「わたしも行く」
一瞬、断ろうとした。
でも止める。
明日から、この場所にいるのは彼女だ。
「来て」
地下は轟音だった。
石壁の向こうを、何百トンもの水が通過している。
第四系統の圧力筒へ近づく。
配管が震えていた。
触れる。
正常なら低く一定の振動。
今は細かい振動が重なっている。
空気を噛んでいる。
「圧が来てない」
「詰まってるの?」
「多分違う」
詰まりなら振動が減る。
これは逆。
流れはある。
でも水圧が伝わらない。
セレスティアはしゃがみ、配管の接続部を指で追った。
冷たい。
次。
冷たい。
三つ目。
温かい。
「ここ」
鉄槌を受け取る。
軽く叩く。
高い音。
隣。
低い。
もう一度。
違う。
内部に空洞がある。
「空気溜まり」
「どうするの?」
「抜く」
「どこから?」
セレスティアは配管を見上げた。
排気弁。
ない。
二十年前の改修図面が頭に浮かぶ。
補助圧管を一度迂回させた。
その時、管の一部が本来より高い位置を通った。
長期間使わなければ、そこへ空気が溜まる。
「設計ミス?」
ミレイユが聞く。
「運用ミス。定期的に通水する前提だった」
していない。
記録上は「補助設備につき月例外観確認」。
いつ変わった。
誰が変えた。
今はどうでもいい。
「圧抜き栓を開ける」
「水、出るよね?」
「多分」
「どれくらい?」
「分からない」
妹が青ざめた。
セレスティアも怖かった。
管内圧は通常の三倍近い。
空気が抜けた瞬間、水が一気に来る。
栓を完全に外せば、指くらい簡単に折れる。
「半回転だけ」
工具を掛ける。
固い。
両手。
動かない。
バルドが後ろから工具へ手を添えた。
「一緒に」
「お願いします」
力を掛ける。
金属が鳴いた。
一度。
二度。
栓が動いた。
シューッ。
空気。
次の瞬間、泥水が針のように噴き出した。
「戻して!」
締める。
まだ。
配管内部で、ゴン、と大きな音がした。
水柱がぶつかった。
圧力筒の側面計が跳ねる。
赤域。
「まだ高い!」
ミレイユが叫ぶ。
「分かってる!」
もう一度、少し開ける。
空気。
水。
閉じる。
計器が下がる。
もう一回。
今度は水だけ。
振動が変わった。
細かな震えが消え、太く一定になる。
「上!」
走る。
管理室へ戻った時、警報鐘が鳴っていた。
水位限界まで四十センチ。
第四桿へ手を掛ける。
押す。
重い。
まだ駄目か。
さらに。
途中で、ふっと軽くなった。
「来た」
押し込む。
一秒。
二秒。
地下から低い衝撃音。
旧河道の門扉が、二十年ぶりに持ち上がる。
窓の外。
川面の一部が割れた。
茶色い水が横へ引かれていく。
狭い開口部へ殺到し、白い飛沫を上げた。
「開度?」
「一割!」
「二割まで」
ミレイユが操作桿を握った。
今度は急がなかった。
目盛りではなく、手元を見ている。
桿の重さが変わる。
その瞬間に止めた。
少し遅い。
でも許容範囲。
旧河道へ流れる水量が増える。
本流の水位が下がり始めた。
三十六センチ。
三十二。
二十八。
ゆっくり。
だが確実に。
誰も話さなかった。
十分後。
警報鐘が止まった。
雨が弱くなったのは夕方だった。
王都は沈まなかった。
王家の狩猟庭園は沈んだ。
旧貴族街の倉庫三棟も浸水した。
翌朝、父とレオンが第一水門へ来た。
父は泥のついた床を見て、不快そうに眉を寄せた。
「なぜ第四放水路を使わなかった」
セレスティアは報告書を差し出した。
「現在の第四放水路下流には二千八百四十七人が居住しています」
「規定では――」
「規定制定時は百十二人でした」
「それでも王家の土地を無断で――」
「王都水務規則第三条。管理官は人命および都市機能への被害を最小化する操作を優先できる」
「それは緊急時の――」
「昨日は緊急時ではなかったと?」
父の口が閉じた。
レオンは報告書を読んでいる。
途中で顔を上げた。
「水門が開かなかったそうだな」
「はい」
「ミレイユでは対処できなかった?」
妹を見る。
ミレイユは少し迷い、首を横に振った。
「無理でした」
父の顔が曇る。
「なら管理官交代は延期だ」
その言葉を聞いても、セレスティアは安心しなかった。
むしろ妙に静かだった。
机の端へ指を置く。
昨日までなら、その言葉を待っていたかもしれない。
自分が必要だと証明できればいい。
そう思っていた。
でも違った。
「予定通り辞めます」
三人がこちらを見る。
「何を言っている」
父だった。
「第一水門管理官を辞任します」
「昨日、自分で必要性を証明したばかりだろう!」
「だからです」
机の上へ、別の紙束を置いた。
夜のうちにまとめた。
古い洪水時刻表。
現在の流路。
三十年前の人口分布。
現在の人口分布。
補助圧管の改修履歴。
消えた月例通水項目。
全部。
「昨日の洪水は、わたしがいなければ危険でした」
父が頷く。
「なら――」
「それがおかしいんです」
言葉が部屋に落ちた。
誰も続けない。
「一人が十年かけて覚えた感覚がなければ動かせない設備。一人が過去の記録を覚えていなければ気づけない流路変更。一人の判断で、どの地区を浸水させるか決める制度」
昨日、地下で栓へ工具を掛けた時の感触がまだ掌に残っていた。
あそこで自分が滑ったら。
配管が破裂したら。
判断を間違えたら。
王都はどうなった。
「これは、優秀な管理官が必要な仕組みじゃありません」
セレスティアはミレイユを見る。
「管理官が優秀でなくても安全であるべき仕組みです」
妹の目が少し開いた。
「三日で引き継げない仕事なら、三日で引き継げるように変えるべきです」
レオンが紙束をめくった。
「具体的には?」
「操作感覚を圧力計へ置き換える。旧河道を月に一度通水する。上流三領の河川工事を水務局へ届け出る義務を作る。洪水時刻表は固定値を廃止して、観測所から到達時間を毎年再計算する。それから――」
別紙を出す。
「避難区域と放水優先順位は、土地所有者ではなく現在の人口と施設で決め直します」
父が険しい顔をした。
「それを誰がやる」
「水務局です」
「だから、その水務局にお前が――」
「違います」
初めて父の言葉を遮った。
「わたし一人がやってはいけないんです」
静かになった。
窓の外から、水の音が聞こえる。
昨日よりずっと穏やかだった。
「新しい部署が必要です。河川、都市計画、設備保守、観測。それぞれの専門家を集める」
「そんな前例はない」
父が言った。
セレスティアは少し考えた。
「旧河道を開いたのも、二十年ぶりでした」
レオンが笑いをこらえるように口元を押さえた。
父が睨む。
「笑うところではない」
「すみません」
全く反省していない声だった。
レオンは報告書を閉じる。
「国王には私から話す」
「殿下」
「元婚約者としてではない」
少し間を置いた。
「昨日、王都を守った管理官の報告としてだ」
セレスティアは頷いた。
それなら受け取れる。
一か月後。
王都河川管理室が発足した。
名前は地味だった。
セレスティアは気に入っている。
役所の名前は地味なくらいでいい。
第一水門の管理官にはミレイユが就いた。
ただし一人ではない。
副管理官二名。
常勤技官四名。
観測担当三名。
全員が同じ操作訓練を受ける。
最初の訓練の日、セレスティアは制御卓の前に立っていた。
「目を閉じてください」
新人技官たちが困惑する。
ミレイユだけが笑った。
「またそれ?」
「最後です」
「何で?」
「新しい圧力表示器が来週つくから」
壁際には新しい計器の取り付け穴が開いている。
操作桿の重さ。
水圧筒の作動点。
門扉が動き始めるまでの遅延。
これまで指先で覚えるしかなかったものを、数字として表示する装置。
完璧ではない。
数字だけでは分からないことも残る。
だから訓練は必要だ。
でも十年はいらない。
「じゃあ、どうして目を閉じるの?」
ミレイユが聞く。
セレスティアは第一桿へ手を置いた。
「機械が何をしてるか知らないまま数字だけ見ると、数字が正しいと思い込むから」
ゆっくり押す。
重さが変わる。
止める。
少し遅れて、地下で門扉が動いた。
「まず一度だけ、自分の手で覚える。その後は計器を使う」
「昔と逆ね」
「そう?」
「お姉様はずっと、手で覚えたものを説明できなくて困ってたでしょう」
言われてみればそうだった。
セレスティアは操作桿から手を離す。
「だから直したの」
ミレイユが笑う。
その横顔を見て、ふとレオンのことを思い出した。
二人がその後どうなったのかは知らない。
仲が良いのは変わらない。
恋人になったという話も聞かない。
婚約したという話もない。
聞けば分かるのだろう。
聞く理由がなかった。
昼過ぎ。
机に一通の封書が置かれていた。
王太子の紋章。
開く。
新しい河川法案についての質問が三つ。
最後に一行だけあった。
《以前の件について、改めて謝罪したい。時間をもらえるだろうか》
セレスティアはしばらく眺めた。
ペンを取る。
《河川法案の質問については明日の会議で回答します》
そこで一度止める。
窓の外では、第一水門がゆっくり動いていた。
新人技官が操作している。
ミレイユが隣で何か言っている。
門扉は一度わずかに行き過ぎ、すぐ修正された。
問題ない。
失敗しても戻せる。
そういう仕組みにした。
セレスティアは続きを書いた。
《謝罪については、会議の後なら》
少し考えて、
《聞きます》
とだけ付け加えた。
許すとは書かなかった。
やり直すとも。
もう必要ではなかった。
返事を封筒へ入れ、席を立つ。
次は第三水門の点検だった。
扉を開ける前、ふと振り返る。
新しい圧力表示器を取り付けるため、壁から古い銘板が外されている。
裏側に、誰かが昔刻んだ文字があった。
《水は昨日と同じ道を流れるとは限らない》
誰の言葉かは分からない。
セレスティアは少し笑った。
それなら、人も同じなのだろう。
昨日まで必要だったものが、今日も必要とは限らない。
昨日まで正しかった道を、明日も選ぶ必要はない。
大切なのは、変わったことに気づけること。
そして気づいた時、直せる仕組みを残すことだ。
セレスティアは銘板を元へ戻さなかった。
新しい管理室の机へ持っていった。




