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影のあしあと

作者: 江藤ぴりか
掲載日:2026/05/22

「ただいま――」


 ……しまった。

 つい、いつもの癖が出た。


「――っ」


 声をあげそうになる。

 廊下に黒いモヤが人型にかたどっていた。

 家には誰もいないはずだ。


「……おかあさん? おとうさん?」


 返事はない。

 ただその場でたたずんでいるだけ。

 私は廊下を歩き、部屋に入った。


 遺品整理で疲れているだけだ。

 七十リットルのゴミ袋を五つ買って、晩ご飯の弁当と明日のパン。

 それだけの外出なのに、今までの親孝行の不出来さのつぐないが、自分を労れていなかったのかもしれない。


 少しだけドアを開け、廊下を覗く。

 ……まだいる。

 パタリと閉じたドアの音だけが響き、ふたつの骨壺を見つめた。

 西日がカーテンから漏れている。


 不慮の事故。

 両親は即死だったと聞く。

 あの影がふたりのどちらかだったなら、心配をかけてしまったな。

 お風呂、どうしよう?

 どうしても廊下を通らなければならない。

 ……気まずい。

 悪霊でも、両親の霊でも、裸を見られるのはごめんだ。


 会社に忌引きびきの連絡はしたが、一週間でこの家の遺品整理や、手続きをしなければならない。

 それにしても……。


「なんでこのタイミングで変なのがいるのよ……」


 誰に聞くわけでもなくいた言葉は、影には届いていたのか。

 トイレに行くときには消えていた。



 シャワーだけ浴びて、レンジで温めた弁当を食べると、一息ついた。


「しんどくてもご飯は食べとけって、おとうさんがよく言ってたっけ……」


 どうやら正解で、頭の中にあったぐちゃぐちゃが少しほぐれた。

 寝るまではまだ時間が早い。

 少しだけ遺品整理をして、明日の用意をしよう。

 その前に用を足して、寝間着に着替えよう。


 廊下にはまた人影が立っていた。


「……あなた、だれなの?」

「…………」


 返事はない。私は素通りしてトイレに向かった。

 帰ってきた時も、まだいる。


「化けて出ないでよね」


 私は疲れているんだ。



 遺品整理は思い出の旅だった。


「ああ、なつかしいな。小学校の時の絵なんて取ってたんだ」


「このアルバム……さすがに赤ちゃんの記憶はないけど、私ってこの頃からブチャイクだったんだ」


「修学旅行のお土産のブローチ。結局、付けてくれなかったんだよね」


 この旅路は日付が変わる頃まで行われ、マンションに持っていくものと捨てるものの区切りに難儀した。


 何度か廊下を横切るが、影はいる時といない時とあった。


「規則性、なんてないか」


 明日も早いからもう寝てしまおう。

 でも、アレが襲ってきたら……?

 考える間もなく、眠りに落ちてしまう。



 翌朝。

 自分でも驚くほどすっきり目が覚めた。


「ト、トイレ……」


 寝ぼけまなこで廊下に移動すると、まだ黒い影はそこにいた。


「お、おおう……」


 驚きと眠気で変な声が出る。

 しかし、尿意には勝てない。


 私は朝支度をして、また廊下に降り立つ。

 アレはいなかった。


「今日は弁護士さんとの面談だし、考えるのはよそう」


 私は忙しいのだ。



 弁護士さんはとても親切にしてくれた。

 私に親身に寄り添い、難しい事務処理はやってくれるという。


「シゴデキは違うなぁ」


 私も見習わないと。


 実家の鍵を開け、扉を開ける。


「ただいまー。聞いてよ、弁護士さんってば優しくて――」


 影だけが佇んでいた。


「そうだ、いないんだった」


 いるのは黒いモヤだけ。

 電気はついてないし、晩ご飯のにおいもしない。


 なんて虚しいんだろう。

 私はよくもわからない者に嬉々として話しかけていたのだ。


「……馬鹿らしい。あんたもそう思っているんでしょ?」

「…………」


 返事は相変わらず来ない。

 独り言はあとから寂しさが来るものなのだと、はじめて知った。


 シャワー、ご飯、遺品整理。

 実家マンションのルーティン。

 ゴミ袋が無くなりそうだ。

 明日の買い物メモにスマホを取り出す。


『ゴミ袋七十リットル、五〜十個』


「結構、足りないもんなんだね。明日は……」


 壁掛け時計に目をやろうと頭を上げると、影がそこにいた。


「――っ、わ! な、なに?」


 距離およそ十センチ。パーソナルスペースなんてアレにはなかったか。


「…………」


 返事はない。


「廊下にしかいないんじゃないの? なんなの?」


 後ずさり、床に散らばったものを次から次に投げていく。

 しかし、影は動じず、物は影を通り過ぎていった。


「ホントに、もう! あんたは所定の位置に戻りな!」


 意思が通じたのか、影は廊下に消えていく。


 そっとドア越しに覗くと、本当に所定の位置にいた。


「……びっくりした」


 それにしても、私も少し言い過ぎたかもしれない。

 いいや、別に愛着なんて持つ必要ないでしょ。

 ひとりが少し寂しかっただけ。


 私は廊下に向かって、声をかける。


「さっきはごめん。あんた、なにも言わないからわからなくて、驚いただけ。私に用がある時はなんか合図して」


 寂しかっただけだよ。



 その晩はがらにもなく、泣きじゃくった。


「おかあさ……ん! おと……さ!」


 パチッ、キリリッ。

 ミシッ、パキリ。


 ラップ現象?

 アレの仕業か。


 指で涙を拭い、天井を見る。

 ヌッと影が顔を出した。


「あい、ず……? ああ、そうだったね」


 変なものに懐かれてしまったみたい。


「慰めなんて、いらないよ。これは、自分で乗り越えるしかないんだから」


 影が口元を隠すような仕草をする。

 アゴを押さえているのか。


 ――そうだ。これはおかあさんの癖だ。

 私が泣いた時、困らせた時に頬を押さえ、アゴを触る。


「おかあさん、なの?」

「…………」


 影が首を横に振った。


 違うの、か。

 でもここにいるんだね。


「……ありがとう」


 影は答えてくれない。

 それでいい。今はそれだけが、私の救いだ。



 それからは嵐のように過ぎ去った。

 私は遺品整理を終わり、宅配業者に荷物を任せ、自宅のマンションに。


 そして――。


「あんたとも、お別れだね」

「…………」


 返事はなくとも、ラップ現象で応えてくれるまでになった。


「……私も少し、寂しいよ。でもここも引き払っちゃうから、早く成仏しなさいよ?」


 パチンッ、パキキッ。

 きっと寂しいと言ってくれている。


「次の入居者さんは私みたいな人じゃないかもしれないでしょ? 人気ひとけのない場所とか行ってみたら?」

「…………」


 廊下の壁に溶け、いなくなったのを見届けると、私は玄関に鍵をかけた。




   ◆◆◆


 管理会社にマスターキーを預け、私は久々の自宅に帰る。


「ただいまー、ってアレのせいで癖になっちゃったじゃ――」


 前は親に向けて言っていたのに、今は……。

 応えるように、ワンルームにはあの影がいた。


「……ついてきちゃったの?」


 パキキッ、ミシッ。


 どうやら、この生活もまだ続くようだ。


 私が仕事復帰しても、アレはこの部屋にいる。

 ただいまのあとの無言。ラップ音にも随分慣れてきた。

 しかし、どういう原理でついてきちゃったのか。それはわからない。


 パンッ、キリリッ。


「そうだね、ドラマの時間だね」


 影にも好みがあるらしく、毎週火曜の恋愛ドラマがお気に入りのようだ。

 主人公は平凡だけど、イケメン営業課長やワンコ系後輩のどちらを選ぶのか。

 影は後輩が好きなようだが、私は断然シゴデキ課長派。

 弁護士の一件以来、頼れる年上に惹かれるみたい。


『先輩、俺じゃダメですか?』


 パキンッ、ミシッ、パンッ!


 後輩くんの甘いセリフにアレも興奮しているらしい。

 確かに甘いマスクにセリフ。実は社長の御曹司なのに鼻にかけず、教育係の主人公にまっすぐアタックするのは、ファンタジーだとわかっていても、胸がときめくものだ。


『残業もほどほどにしとけよ。ほら、コーヒー』


「きゃー、やばばば!」

「…………」


 課長のターンの時は、びっくりするほど静かだ。

 なんでわからないかなぁ。やっぱり、頼りがいのある課長が、私にだけ見せる顔の良さに気づいてないのかな。


 ……アレは女の子なのかな。

 だっておかあさんの仕草に似ているし、おかあさんも年下が好きみたいし。

 おとうさんが三つ年下だったのも関係している?

 それにしたって……。


 私は影の様子を横目で伺う。

 両手を頬辺りに置いて、本当に女の子みたい。

 もし、人間だったらどんな顔をしているんだろう。


 ドラマも終わり、私は実家から持ってきたアルバムをめくる。


「このアルバム、見てなかったんだよね」


 いちいち確認もできず、とりあえず思い出っぽいものはこっちに持ってきたのだ。

 ピンクの表紙にもこもこした感触。

 所々、黄ばんで埃をかぶっていた。


 一ページ、二ページと固い台紙をめくると、見覚えのない赤ちゃんが写っている。


「誰だろ……」


 パキンッ、ドンッ。


 影もアルバムに釘付けなのか、ラップ音が激しい。

 三歳くらいのワンピースの女の子が目に入る。

 女の子はひまわりと一緒に写っていて、とても嬉しそうにピースしていた。


 ドンッ、ドンッ、ドンッ。


「落ち着いて。……あれ?」


 近所の遊園地のものか。メリーゴーランドに乗って、真剣な顔をしている。


 ここで写真がなくなった。


 指で女の子をなぞる。

 この子は誰だろう?


 パキンッ、ドンドンドンッ!


 次をめくってもめくっても、写真はなかった。


 ドドドドッ!


「ちょっと、静かにして!」


 ……パキッ。


 ラップ音は止んだ。

 最後のページには白い封筒が挟まれている。


「て、がみ? 私宛?」


 私の名前と『春海はるみ』へと書かれている。


『親愛なる我が子たちへ。この手紙を読んでいるということは、私たちはこの世にはいないのでしょう』


『このアルバムは四歳を前に病気で亡くなった春海の楽しかった頃のものです』


 情報が脳を駆け回る。

 これは私以外の〝家族〟の写真だ。


瑠璃るり、これは春海という姉だった家族の、あなたに残したい写真たちです』


『重い病気で五歳まで生きればいいと言われた子です。たくさんの愛情を私たちなりに注いできたつもりです』


 そんな話、してくれなかったじゃないか。


『姉は四歳になる頃、病状が悪くなり入院し、そこで亡くなりました』


『享年四歳。彼女は苦しみながらも、私たちにはそんな素振りを見せず、この世を去ったのです』


『私たちは泣いて泣いて、もうこの子以外に我が子はいらないとさえ思ったのです』


 呼吸が不規則になる。


『しかしある晩、私たちの枕元に春海が立って「私を忘れてほしい。過去にとらわれず、生きて」と言われたのです』


『まもなく瑠璃、あなたが生まれました。春海に似ていて、私たちは彼女の生まれ変わりなのだと確信したのです』


 似て、いる……?


『そして私たちはあなたに丈夫に育ってほしいと願い、宝石の名前をつけたのです』


『小さい頃は画数が多くて嫌いなんて言っていたね。でも私たちは元気な姿を見ているだけで、救われる思いでした』


 そうだ。この名前は少し不便だったんだ。


『私たちはもういないけど、きっと春海があなたのそばで見守ってくれています』


『それはどんな形でも、あなたの味方になってくれるはずです』


 アレは、アレは……。


『追伸。ずっと言えなくてごめんなさい』


 手紙は濡れてしわくちゃになってしまった。


「ねぇ、『春海』ちゃん! 返事して」


 キー……ンッ、パァンッ。


「ごめん、〝アレ〟なんて言っちゃって。おねえちゃん、ホントにごめん」


 ふわり、目の前に正座する影が浮かんだ。


「ずっと、見ててくれていたの?」


 コクリ、影が頷く。


「これからも?」


 春海は首を横に振る。


「……なんで」


 彼女は黙ったままだ。

 じっと見つめても、反応はない。


「……そっか。おねえちゃん、おかえりなさい」


 影は薄くなり、輪郭がぼやけていく。


「どうしても、行くんだね……」


 パキッ。

 もう向こうの景色が見えている。


「今まで、ありがとうね」


 ミシッ。

 お別れの時間が来たようだ。


「次は天国で会おうね」


 モヤが粒になり、雫が垂れる。


 春海の涙なのだろうか。

 もう、私は本当にひとりきりで生きていかないとならない。

 まだドラマは後半にもなってないのに、寂しすぎやしないか。


 鏡を見ると、目が腫れていて最悪だった。

 私は立ち直れるのだろうか。

 ……違うでしょ。おねえちゃんには以前、言ったじゃんか。


『自分で乗り越えるしかない』


 大人になるために。

 私は立ち上がり、洗面台に向かった。


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