Ep.2 剣鬼と愛弟子、そして凶報
翌朝。
澄み渡る青空の下、鋭い風切り音だけが庭に響いていた。
ライゼンは日課である剣の素振りに没頭している。 木刀が空気を断つたび、張り詰めた気が周囲の空気を震わせる。 かつて「ノートレッドの剣鬼」と恐れられたその剣技は、老いてなお衰えることを知らない。
その時、ライゼンの気配察知が、家の前を徘徊する奇妙な存在を捉えた。 殺気はない。あるのは、小動物のような怯えと迷いだけだ。
「お前さんは、そこで何をしとるだ?」
ライゼンが声をかけると、男は肩を震わせ、強張った顔で振り返る。 その顔を見て、ライゼンの記憶の引き出しが開く。
「……あっ、思い出した! お前、アイルか!?」
アイル。かつての愛弟子であり、娘ライナの幼馴染。 数年前、「俺がライナを守る」と大見得を切って「勇士」として旅立った少年が、たくましい大人の男になって帰ってきたのだ。
だが、その態度は歴戦の勇士とは程遠いもの。
「久しぶりだのぅ~、アイルや! 元気にやっとったかや?」 「は、はいッ!!」 「でぇ~、今日はどうした?」 「あうっ、はいッ……」 「んっ!? いや、『はいッ』じゃなくて!」 「あぅ~、はい~……」
情けない声を上げる弟子に、ライゼンのこめかみに青筋が浮かぶ。
「『はいッ』じゃないわ! このバカ弟子がァッ!!」
ご近所中に響き渡る怒号。 朝の静寂は一瞬にして吹き飛ぶ。
「久しぶりに会って、少しは成長したかなと思ったら、さっきからなんじゃお前は! もっとビシッとせんかい!」 「は、はい……すみません……」
ライゼンが頭を抱えたその時、家の中からライナが飛び出してくる。 寝癖のついた髪を揺らし、無邪気な笑顔を浮かべている。
「あらあら、アイル。もう来ていたのね」 「なんじゃ、ライナがお前を呼んでいたのか?」
ライゼンは腕を組み、訝しげに二人を見比べる。 もじもじと視線を泳がせるアイル。頬を赤らめるライナ。 その奇妙な空気感に、ライゼンは一つの冗談を口にする。
「なんかこやつ、様子がおかしいんよ。まるで、嫁でももらいに来た婿殿のようじゃないかや。はっはっはっ!」
豪快に笑い飛ばしたが、その瞬間、二人の若者が凍り付く。
空間が静止する。 ライゼンの額を、冷たい汗が伝う。 まさか。いや、まさか。そんなはずはない。
だが、ライナは意を決したように一歩前に進み出ると、父の目を真っ直ぐに見据える。
「あのね、お父さん……私たち、結婚したの」 「いっ……!?」
ライゼンの喉から、悲鳴にも似た音が漏れる。 だが、愛娘の追撃は止まらない。
「それからね……お腹に、赤ちゃんもいるの」 「い、いやああぁぁぁぁッ!!!」
ライゼンは膝から崩れ落ちそうになりながら、真っ赤な顔のアイルを睨みつける。 鬼の形相とは、まさにこのことだ。
「アイル! そうなのか!?」 「は、はいッ!! 申し訳ありませんッ!!」
その場に響き渡る二つの肯定。 ライゼンは完全に脱力し、天を仰ぐ。 帰ってきて早々に、まさか孫までできているとは。
だが、その衝撃が嵐のように過ぎ去った後に胸に去来したのは、どうしようもないほどの「喜び」。
*
一月後。
ノートレッド公国大公殿下の計らいで行われた結婚式は、幸福そのもの。 純白のドレスに身を包んだライナと、照れくさそうに笑うアイル。 その姿を見守るライゼンは、涙をこらえるのに必死で、式の詳細をほとんど覚えていない。
ただ、世界は輝いていた。 この平穏が、永遠に続くと信じていたのだが。
後日、大公殿下の居城アーセンベルク城に呼び出されたライゼンは、そこで重い現実を突きつけられることになる。 謁見の間。ウィルシャロン大公は、祝いの言葉もそこそこに、真剣な眼差しでライゼンを見据える。
「その聖女様のことだが、ゼラフィム教のことは重々承知しておるな?」 「……『シャロンの薔薇(純潔の掟)』のことですな」
ライゼンは重い口調で答える。 シャロンの薔薇。 それは、聖女は生涯清らかであるべしという、ゼラフィム教が定めた絶対の掟。
「左様。『聖女の神聖化』などとは名ばかりの、宗教国家としての象徴を利用するための建前よ」
大公は苦々しく吐き捨てる。
「公にはされていないが、裏ではかつて掟を破った者はことごとく異端審問にかけられ、それを庇護した勢力は例外なく滅ぼされたと聞く。ゼラフィムは、それほどまでにこの『象徴』に固執しておるのだ」
大公は、深い息を一つ吐き出す。
「……覚悟はできているな?」 「当然です。娘と孫のためならば、この首など惜しくはありません」
ライゼンは迷うことなく答える。 その言葉に、ウィルシャロン大公は満足げに頷く。 自身もまた、小国が大国に牙を剥くことの意味を、既に腹に括っている様子。
*
その頃。 大陸の彼方、神麗ゼラフィム法皇国。聖都アウロハス。
現法皇アンドレアス八世の元に、ライナの結婚という「凶報」が届く。
「な、何だと……!?」
法皇の声が、怒りと戦慄で震える。
「おのれぇ……! ゼラフィム教の威信に傷をつけおって、ただではおかぬぞ、ノートレッド公国ぅ!!」
法皇の顔は紅潮し、血管が浮き出るほどの激昂を見せる。
「しかも、相手は獣人だとぉ!? 許しがたき冒涜……!」
教典において『悪魔の化身』とされる獣人と、聖女が結ばれる。 それは天地がひっくり返るほどの背信行為。
「光の十字軍を招集せよ! 全世界の信徒から編成された我が教団の全兵力をもって、ノートレッド公国を蹂躙せよ!!」
聖堂に響き渡る狂気の命令。
「最早、あの女は聖女ではない。『マグダラの魔女』である! 即刻、異端審問裁判にかけよ! そして、父となった男は即刻処刑せよ!!」
矢継ぎ早に血塗られた指示が飛ぶ中、腹心のタナトス枢機卿が冷淡な口調で言葉を挟む。
「法皇猊下、少し落ち着いてください」 「何を言うかタナトス! これを看過せよと言うのか!」 「いえ。軍の編成、兵站の確保など、準備には半年を要します。相手の背後には大国グリオンダイルがついているのです。……万全を期すべきかと」
枢機卿の瞳には、感情の色がない。 法皇の激情とは対照的に、その頭脳は冷徹に、ノートレッド公国を地図から消し去るための算段を弾き出していた。
巨大な軍事国家の歯車が、軋んだ音を立てて回り始めた瞬間である。




