Ep.1 聖女の帰還
ノートレッド公国、首都ノルトダン。 「花の都」の異名を持つこの街は、今日も琥珀色のレンガ造りの街並みと、風に揺れる花々が織りなす極彩色の風景に包まれていた。
「……ああ、この香り」
街の門をくぐり、肺腑の奥深くまで故郷の空気を吸い込む。 土と草花、そして微かな人々の生活臭。それらが混然となった懐かしい匂いに、ライナの瞳が自然と潤んだ。
(やっと、帰ってきた……)
泥と魔力に塗れた過酷な巡礼。聖女としての責務。 それら全てを置き去りにして、ようやく踏みしめた故郷の石畳だ。 今のライナが望むのは、女神からの祝福でも、人々からの賞賛でもない。ただ、愛しい家族と過ごす、変哲のない日常。それだけだった。
逸気持ちを抑え、実家への路地を急ぐ。 しかし、慣れ親しんだ我が家の前に佇んでいたのは、父ではなく、招かれざる客たちだった。
銀細工の施された豪奢な甲冑を纏う騎士たち。その厳重な警備の奥に、一人の男が立っている。 高位の聖職者のみが許される法衣。男はライナの姿を認めると、慇懃に、しかし爬虫類のような粘着質に目を細めた。
「これはこれは。聖女様、長きにわたるお勤め、誠にご苦労様でした」
男が深々と頭を下げる。
「道中、何か不便なことやお困りのことはありませんでしたか?」
ライナは足を止め、無意識に身構えた。男から漂う気配は、神に仕える者のそれではない。もっと俗悪で、底知れぬ何かだ。
「……いえ、問題ありません。失礼ですが、どちら様でしょうか」 「おっと、これは失礼いたしました。憧れの聖女様を前にして、少々舞い上がってしまいまして」
男の唇が、三日月形に吊り上がる。
「申し遅れました。私は神麗ゼラフィム法皇国、聖光十字星教団――光の十二使徒が一人、『憂い』の司教ホールキンスと申します。以後、お見知りおきを」
――ゼラフィム法皇国。 その名を聞いた瞬間、ライナの背筋を冷たいものが駆け抜けた。 父がかつて警告していた、大陸最大の宗教国家。表向きは慈愛を説くが、その裏で世界樹の加護を独占しようと暗躍する巨大組織。
「それで、私に何用でしょうか」
努めて冷静に問うライナに、ホールキンスは芝居がかった仕草で答える。
「お迎えに上がったのですよ。我らが聖女様を」 「……はい?」 「古来より、役目を終えた聖女様を保護するのは我らゼラフィム教の務め。さあ、参りましょう。神聖なる象徴として、丁重に『管理』させていただきますよ」
保護、管理。その言葉の裏にある「籠の鳥」という響きを、ライナが聞き逃すはずもなかった。 ようやく終わったのだ。ようやく、一人の人間に戻れるはずだった。それを、この男たちは奪おうとしている。
「お断りします」
ライナの声が、路地に凛と響く。
「遠路はるばるのご足労には感謝しますが、お引き取りください」 「おやおや、待ってくださいよ」 「結構です! 私は長旅で疲れているんです。帰ってください!」
ホールキンスの静止を振り切り、ライナは強引に騎士たちの間をすり抜け、扉へと手をかけた。 重厚な扉が、彼らとの世界を隔絶するように音を立てて閉ざされる。 扉の向こうに取り残されたホールキンスは、しばらくの間、呆気にとられたように立ち尽くしていた。数千年の歴史において、ゼラフィムの誘いを拒絶した聖女など前例がない。
「……なんと愚かな」
漏れ出した呟きには、隠しきれない焦燥と、昏い怒りが滲んでいた。
*
「なにこれ……汚い! 足の踏み場もないじゃない!」
家の中に入ったライナの目に飛び込んできたのは、散らかり放題の室内だった。長旅の疲れも吹き飛ぶような惨状に、思わずため息がこぼれる。
「もうっ! しょうがないわね。私がいないとすぐこれなんだから……」
そう怒りつつも、ライナの表情はどこか晴れやかだった。 これが、私の帰る場所。泥臭くて、生活感にあふれた、愛しい我が家。
「疲れてるけど、まずは掃除から始めるか」
数時間後。仕事から帰宅した父・ライゼンは、別世界のように整頓された部屋と、ソファで眠る娘の姿を見て、目頭を熱くすることになる。
「……大きくなったな」
無精髭の父と、大人になった娘。二人の再会に、多くの言葉はいらなかった。
「ただいま、お父さん」 「……おかえり、ライナ」
空白の数年間が、温かい夕食の湯気と共に埋まっていく。 だが、この平穏が「嵐の前の静けさ」であることを、二人はまだ知らない。




