第2話 前輪は狂っている
青海夜海です。
記憶喪失の少年は廃虚の街に目を覚ます。
眼を覚ましたら普通は最初になにをするだろうか。背伸びをしてカーテンを開けて洗面所で顔を洗い髪を整え自室かどこかで着替えてリビングに顔を出し、「おはよう」の挨拶を両親とか兄妹とかにして、朝食を食べる。順番なんてどうでもいいし、飯だって食べなくたっていい。片親だとか寝たきりだとか、彼女と朝チュンしたとか、そんなものは些細。いや、朝チュンは赦すまじ。断じて認めぬ。うらやま、けしからん!
つまり、僕が言いたいことは一つ。目を覚ましたら大抵はルーティンと呼ばれる習慣行動を行うということ。だから僕の次の行動はそう、ルーティンであるはずだった。
僕は瞼の裏を焼く熱と光に意識を引っ張られ、目を覚ました。
「…………どこだここ?」
靄のかかった頭も冴えない眼も首を傾げては覚醒させられるくらい、目の前の光景は凄惨で厳かに静謐を漂わせていた。
次に僕は無意識に動かした指にぬちゃっとした感触に目を向ける。赤だ。真っ赤な液体が持ち上げた手いっぱいに付着し、よく見れば襟元から下にかけて黒ずんだ真っ赤なグラフィティが出来上がっていた。もちろんキザな刺繍でもファンアートでも僕のサインでもない。臭いは鉄分を含み、乾き切っていない液体はどこからどう見ても『血』そのものだった。
「……ってうわぁあああ!え?なんで血?怖いんだけど⁉」
全身血だらけで踊るように身体を見渡すが、傷跡も痛みも何もなかった。じゃあ、返り血かと言われれば、そもそも僕は殺人者でも暗殺者でも超能力者でもないわけで、誰かを殺したいほど憎んでいたことも……恐らくない。うん、僕は僕を信じる!というわけで非常に困り果て混乱し呆然と立ち尽くす僕は一つのことに気づく。
もしも、これが僕のルーティンだったら非常に嫌だし今すぐ改善したいまであると。
僕はここにいる理由がわからなかった。そもそもここがどこかも知らなければ、僕自身のルーティンすら本当にわからない。つまるところこういう事だ。
「僕ってだれ?」
僕はどうやら記憶を失くしたらしい。
次に思い出したのは昨日?のことだった。
夜の防波堤に独り佇む黒髪の女性。大量の血を浴び、その手にナイフを持って僕を殺した麗しい空色の瞳の女性。僕が一目惚れして告白して、僕をフッて殺した夜空のような彼女。
「ぁぁアアアアアアアア!僕、フラれたぁあああっ⁉」
思い出しただけでも胸が痛いとはこのこと。黒歴史で赤星だ。ストライクでアウトだぁ。
僕は彼女に一目惚れした。そして、彼女に殺された。
「そうだ!僕は殺されたはずじゃ……?なのに生きてるってことは、夢?でも、血がついてるから夢じゃない?いや待て。夢だったのならまだ僕には可能性が――って!夢だったらあの人はいないってことじゃないか!嫌だ!好きな人にフラれたなんて嫌だ!で、でも彼女と出逢わないのはもっと嫌だぁ!僕はどうすれば~~~っ!」
頭の中で悪魔が囁く。頭の悪そうな悪魔だった。
「へいへい!ひよってんじゃねーよ!都合の悪いことなんて全部忘れろ。んで、もう一回アタックだ!そのまま既成事実作って無理矢理婚姻届け出せ!市役所は夜でもやってんぜ」
ちょっと待ちなさい、と天使が現れる。どっちも二次元キャラなのはどうして?
「それは誠実じゃありません!ここは夢などと現実逃避せず、彼女に届かなかった己の未熟さを認め、彼女と釣り合う男性へと努力すべきです!そのためにもまずは筋トレをしましょう。そして鍛え上げたボディーでもう一度アタックするのです!きっと、あなたの身体に彼女はメロメロ間違いありません!」
天使さん?涎でてますよ?あなたが筋肉好きなだけじゃ?
「確かに一理あるか。市役所も筋肉のほうが疑わねーか」
悪魔さん認めちゃった⁉あと市役所好きですね⁉
「そうです。努力すればもっと円滑に既成事実を作れるはずです!筋肉最高です!」
なんで共鳴してるんだ⁉って、既成事実を作るのは確定なの⁉……君たち淫魔?
(仮)悪魔と(仮)天使の危ない提案を頭を振って追い出す。ダメ。紳士でいろ。純潔真摯にハートフルにジェントルマンに紅茶を入れれるように。それは執事だ。
「僕が誰かなんてどうでもいい。この際、生きてるから殺されたのも別にいい。とにかく、もう一度彼女に逢いに行こう!」
そうして僕は歩き出す。敵に強襲され終わりを迎えたような廃虚の街を散らばる破片に躓きそうになりながら歩いて行く。淫魔どもは引っ込んでなさい!
見れば見るほど凄惨だった。蹂躙された痕と言い換えてもいい。自分のことは何一つ覚えていない僕だが、知識記憶に残る東京の街並みとは似ても似つかないほどに荒れ果てていた。
廃人同然の虚無な残骸地。ビルのガラスは粉々に砕けていて、ピサの斜塔みたいなのもある。所々に店だとわかる外装の死んだ店内を覗けども、商品はどれもカビが生えたり錆びついていたり劣化していたりと使えそうなもの食べられそうなものはなかった。食料はおろか水すらなく、雨が降ってできたのかそれとも窒素とか二酸化炭素とかそう言った元素の化学反応で産まれたのか、所々の凹みにとても綺麗とは言えない水が溜まってはいるが、頭がいいとは思えない僕でもわかる。きっと飲んだら最後、あの世逝きだ。いや、ナイフで刺されて生きているから希望的観測なら死なないのでは?
「とは言えどうするか。彼女ともう一度出逢う前に僕が死ぬかもしれない。人を探そうにも動物の気配すらしないし、音も何も聴こえないや。マジで、ゾンビ映画だ。そこの車の影とかから出てくる奴だ。下手に暗い建物の中に入れば襲われるやつだな」
静謐な世界に一人きり。街は破壊され人の気配はなく物資も何もない状態。パニック映画の序章の基本だ。知らないけど。
ゾンビうんぬは置いておいて、空仰げば頂点より少し傾いた位置に太陽があることから、正午は過ぎていることがわかる。時間として十三時から十五時手前の間。普通なら街が一番賑やかになる時間帯のはずだ。けれど、現実は見ての通り。
「誰かいませんか。ゾンビになってないなら出てきてください。野良犬はご勘弁願います」
路地裏からこちらを見るネズミしかいない。そのネズミもまるで僕を嘲笑うかのように奇怪な鳴き声を置いて走っていく。ネズミの分際で生意気なー。
「あれか、感染ものもありうるのか」
とまあ、歩けど声かけど、一向に反応はなく。この世界で僕だけが生きているみたいだった。
無造作に伸び放題の雑草ども。錆びたドアを汚染する苔植物。ミミズ道から隆起する岩石。赤いペンキを振り撒いたような血に固まった映画館のポスター。銃弾が撃ち込まれたのか穴凹だらけのコンビニの壁。スナック菓子が散乱する駅の待合室。植物の氾濫が芸術を描く噴水のある公園。本でドミノが作られた幼稚園の砂場。サッカーボールが散乱している中学校の校庭。焼け焦げた跡が醜い民家の羅列。道端まで散らばっている女物の下着。積み上げられた本にレモンが添えられた本屋。墜落したヘリコプターの残骸は黒い煙に包まれたように黒焦げ。出産された薬莢は捨てられ、野球バットが甲子園に敗退したみたいに転がっている。
そんな珍妙な世界のどこにもそれらは転がっている。
景色に混じり芸術に汚染され灰燼になった廃虚のアート。人間の死体が腐敗すらもう残さず、言葉通り残骸となって彫刻のようにそこら中にあった。
固まった血に埋もれた黒ずんだ石のような死体ども。
そんな景観を横目に死体を踏まないように僕は歩く。
ただ歩くだけの時間が過ぎ、太陽が西へ大きく傾き始めた頃、その音が耳を掠めた。
「ん?叩く音?人……?」
カンカンと甲高い音に鈍い鈍器で潰すような音が混ざり合い、それはそう遠くない所からやって来る。僕とて独りぼっちは嫌なので誰かと合流できるのならそれに越したことはない。けれど、数時間一人きりだったものだから紛らわすために吐いていたゾンビや感染なんちゃらが頭に過り、ごくりと生唾を呑む……なんてことはさすがにしないが、恐る恐る近づく。音は地下駐車場の奥から響いていた。
「よし、行くか。てか、行くしかない」
地下駐車場内は案外に小綺麗だった。それは地上の惨たらしさと比較してだが、真に人の死体は一つもなく、老朽化が進んだような罅が壁に刺青を走らせているだけ。堪り溜まったゴミや硫黄に似たアルカリの臭いが鼻を刺すが、誰かと合流できると思えば我慢できる程度だ。建付けの脆くなった車のドアがガタ落ち、燃料が漏れ出ている。燃料が腐るとか固まるとかは知らないけど、火を起こせば一発で火事の大惨事だろう。
そんな中で音を鳴らすのは誰だ。僕は柱の奥、詰まったそこで一心不乱に瓦礫の山へトンカチを振り下ろす男の背中を見つけ、逸る気持ちで近づき声をかける。
「あの……ちょっといいですか?」
記憶の中では人と話すのは昨日の彼女以来だ。昨日のあれを会話とカテゴリーしていいならだけど。僕実はコミュ障?
男は瓦礫を砕く手を止めて中腰の背中を伸ばしきる。灰の積もったぼろぼろの髪にいつから着ているのかわからない、襤褸に近いダッフルコート。春間地の季節に不自然さはない。けれど、一つ変わった所があるとすればそれだった。
振り向いた男が手に持つ、トンカチが電子構造を組み替えるような歪みの後にトンカチは白い銃のようなものに変わり、濁った黒い眼と一緒に僕に向けて来た。
「余所者がなんの権限、許しを得て近づく?罪を知れ恥に塗れて泥を呑め愚図ッ‼」
「…………っっ⁉」
声は出さなかった。そこだけは褒めて欲しい。けど、動けなかった。つまり情けない。
男は容赦なく引き金をトリガー。僕の胸へ三発撃ち込まれ、アバラに一つ、横腹を貫通、残りが心臓の隣を掠め静脈を破損させる。
「がぁっ⁉」
僕は胸を押さえ膝を付き炙られる痛み、雷鳴轟き走る痺れに視界が直ぐに明滅しだす。
僕は死ぬのだと悟った。だから最後に無表情なその男を見上げ。
「僕を、撃って……楽しい、ですかぁ?」
そう笑ってやれば男は忌々しいとばかりに舌打ちをした。
「お前ら余所者が喋るなっ!お前らが馬鹿なのが悪い。そんなお前らの身勝手のせいで俺の愛した人はこの奥で埋もれて死んだッ」
「なんですか……それ?不幸自慢ですか?イマドキ流行らないって……はぁ、何も知らない、関わりもない、そんな僕を殺すあんたの方が、身勝手だ」
「黙れッ!貴様らのせいだァ!あーもういい!うんざりだ!とっととくたばれ」
そう言って男は僕の腹に蹴りを入れた。僕の身体は面白いように転がって血を混ぜた唾液を嘔吐する。たぶんいくらこの痛みを語った所で陳腐な言い回しをするだけなので割愛するが、これだけは言いたい。
僕は死に逝く運命の中、息を吐くように笑う。
「〝死ねばいい〟」
眼を覚ました。痛みはなかった。血は残っていた。生暖かくて鉄の臭いが異臭に混じって鼻梁を汚した。
胸を押さえながら顔を上げた。瓦礫に埋もれた男の腕が覗いていた。血の水たまりが出来上がっていた。僕は立ち上がって彼に近づいた。
男は死んでいた。不運な事故死だ。瓦礫の山をトンカチで砕いて崩れた瓦礫の山の巻き添えにあったのだ。自業自得だ。
僕を殺した男が死んでもなんとも思わなかった。別に人の死が世界の摂理だとか説くつもりじゃない。死ぬことが前提で僕はどうやら狂っているらしいからだ。そんなことを死ぬ直前に思い出して、自分はどうやら死なないのだと理解した。
あと一つ思い出したことがあった。
男のトンカチを拾い上げ血を払ってポケットに仕舞う。使い方はわからないけど、ないよりマシだ。もう一度事故現場を見る。無惨な死だ。どうしようもない事故死だ。愛した人と同じ場所で死ねたのなら本望だろう。僕はそう結論づける。
立ち去ろうとする僕は「そうそう」と思い出したことを男に告げた。
「僕の名前。よぎり……夜に霧って書いて夜霧。下の名前が苗字かわからないけど、そんな名前みたいだ」
僕はその場を後にする。地下駐車場から外に出れば太陽が西の地平へ沈んでいく時間帯だった。黄昏と言えば聴こえもよくて綺麗な感じだが、誰もいない、人が今一人死んだこの廃虚はきっとこっちの表現がよく似合う。
「逢魔が時みたいだな」
化け物がやって来る時間だ。夕焼けが絶滅した街を終焉へ見舞うように照らしつける。憐れられているような見守られているような。これも摂理だと見放されているようなそんな心地が襲う。
「もう夜か。うーどうしようか。寝床ってないし、お腹も空いたし喉も乾いてるんだけど……暗くなって歩くのは危険なのかな?化け物とか出そうだし、どこか崩れなさそうな建物に入るかな」
正直歩いていただけだけどお腹も空いて喉も乾いて疲れもある。まー三日飲まなくても大丈夫とか聞いたことあるような気もするし、我慢すれば大丈夫でしょう。僕はとにかく歩き始めようとして、やけに視界が定まらない事実に直面する。
「あれ?おかしいな」と瞼を擦れども揺らぐ視界は意識を保てない。
もう時期、夜が来る。彼女と出逢った夜が来る。
僕は眠る。意識を失ったように座り込む。
夕陽が地平に半分以上隠れ、世界は街は姿を変える。
――――――――――――っ
私は目覚める。私の美麗な身体で私の意識で『私』が立ち上がる。
血濡れの漆黒を纏い、スリットの入った黒いワンピースを下に黒い髪の青いひと房を撫でる。コツン、一度ヒールの踵で地面を蹴り私は夜に紛れる。
「厄介なことになった。けれど、彼に自覚がないなら身を隠す上では最適ね」
私はこの身に起こった不自然を受け入れる。そして、利用する。その歪な神秘を。もしくは悪夢の奇跡を。
「さあ、眠れる時間よ」
私は歩き出す。右手にはナイフを持って建物を飛び越えて屋根上を辿って、私は向かう。
人を殺しに、闇に紛れる蝶のように。
ありがとうございました。
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