第8話
扉に貼られていた護符は大した障りもなく簡単に剥がすことができた。指先に蔓草が持つ棘が刺さるような刺激を感じはしたが、アラサラウスの加護を持つファンタマにとっては軽い痛みに過ぎなかった。扉に鍵は掛かっていたが、これもファンタマにとっては何の障害にもならない。扉の隙間に袖口を滑り込ませることができれば事足りる。
驚いたのは閉ざされていた扉の向こう側で展開されている異様な光景だ。
まず目についたのは床に転がり炎を上げる壊れたランタンだ。そこからこぼれ飛び散った燃油のためだろう付近の床、窓に掛けたカーテンからも火の手が上がっている。床からは黒い煙が立ち上っている。書棚や書き物机に置いてあったであろう本や花瓶などの小物が床に散乱し、窓の一つが開け放たれていた。窓のガラスが割れているところを見ると、何ら強い衝撃を受け開いたと思われる。
不思議なのはそれらが、炎や立ち上る煙などを含めてすべてが、彫像のように動かず静止していることだ。部屋で起きた火事が何らかの力を以て留め置かれている。そんな状況だ。
「時間停止の術が行使されている」ゴダードは冷めた様子でファンタマに告げた。彼は開いた扉から躊躇うことなく、間もなく大火に至るであろう部屋へと入っていった。
「時が止められているのはこの部屋だけだ。外から入る分には害はない」
ファンタマもゴダードに続き部屋に足を踏み入れた。なるほど体は支障なく動かすことはできる。だが、意識にのしかかってくる停滞に息が詰まりそうになる。これは屋敷内の他の場所とは比較にならない。
「ここが始まりの場所だ。ここから一連の悲劇が始まった」
「ここはどういう部屋なの?」
家人たちがやってくるのは時間の問題だろう。それは面倒だが、ゴダードにいつまでも訳知り顔で話されては状況がつかめない。彼は何を望んでいるのか。
「元はと言えば俺の書斎だ。そして、すべての始まりはそこに置いてある「時の女神」が発端となっている」
ゴダードは窓側の隅に置かれた本棚を指差した。その前に腰ほどの高さを持つ細身の台座があり、その上に赤黒い靄を纏う紅玉が置かれている。
「あれが「時の女神』だ」とゴダード。「あの紅玉は文字通り時を支配する力を持つ。人が望む任意の時点まで時を巻き戻し、そこからやり直すことができる。その力は強大なだけに使用は一回きり、その際には現当主が宝玉内に囚われることになる。当主が不在の場合はその妻または親族が対象となる」
「それじゃぁ、既にその術式は発動した後でその代償としてロザリーンが宝玉に囚われの身となっている……」
「察しがいいな」
それならタイタ―やベルト・エディーンの調理人達、他の村の住人達の記憶に生じた混乱にも説明がつく。本来と巻き戻した後の事実が混在しおかしなことになっているのに違いない。
「いや……」それはおかしい。「それならあなたが囚われているはず、どうしてロザリーンに役目が回ってきたの?」
「それは俺の過ちのせいだ。俺が馬鹿だったせいで、ロザリーンが宝玉に囚われることとなった」
ゴダードは炎を上げるランタンを避けて宝玉の元へ近づいていく。
室内に漂うのは困惑か、さっきまで漂っていた敵意などは薄れている。
「この家、クローバー家は「時の女神」受け入れて以来、その代の当主は有事に備え屋敷に囚われの身となる定めとなっていた。家に大事があればその身を捧げる必要があったからだ。俺も子供の頃から親父にそう言い聞かされてきたが、いつも釈然としない気持ちがあった。自然の摂理を曲げてまでの行為は正しいのか。何が起ころうとそれを受け入れて前に進むべきではないのかと、いつも悩んでいた。それは成長し外の世界へ出て、その先でロザリーンと出会いますます強くなっていった」
部屋の外に気配が感じられた。倒れたロザリーンと剥がれた護符、開け放たれた扉その意味はほどなく知れることだろう。
「俺はロザリーンとともにこの連鎖を断ち切ろうとしたんだが、事はそんなに簡単な話じゃなかった。この話を持ち出した後にロビーがこの部屋にやってきた。あいつとしては俺達が出て行った後に当主の役目が回ってくることを恐れていたらしい。まぁ、今考えればもっともな話だ。俺はあいつと話し合い、二人で協力できないかと考えていたが、あいつにそんな余裕はなかった。そこで始まったのは話し合いではなく取っ組み合い、殴り合いの大喧嘩だった。殴り合いの末、興奮したあいつは手当たり次第に傍にあった物をこちらに投げ始めた。その最中にあいつは俺の机の上に置いてあった灯のついたランタンを投げつけようとしてきた。俺はそれを防ぐためにあいつの顔を殴りつけた。あいつは手にしていたランプを床に取り落とし、中に入っていた燃油を床にぶちまけることになった。ランタンは落ちて壊れて、こぼれた油により床は火の海となり、ロビーは瞬く間にその炎に包まれた。それを目の当たりにして俺はあいつを助けようとして近づいたが、そのせいで俺も巻き込まれることになった。あいつは床に倒れのたうち回り、俺はよろけた後ずさるうちに窓をぶち破り外へ転落してしまった。窓から投げ出され、背中から地上に叩きつけられ頭を強打し動けなくなり、薄れていく意識の中で開いた窓を見ていたのを覚えている。その後何も見えなくなった」
扉の外で騒がしさが増し、複数の人影が勢いよくゴダードの書斎に飛び込んできた。書斎に現れたのは白い髪の老女と用心棒のウィリアムとランタンを掲げている黒髪の小柄な女の使用人の三人だ。勢い込んで室内に入ってきた老女を用心棒が片手で静止し一歩前に出て、彼女に向かい頷きかける。使用人の女は戸惑い怯えた様子で老女の後ろに斜め後ろに立っている。
「ゴダード様!!」お仕着せの女が彼を目にして悲鳴にも近い叫びを上げた。
「ゴダード!……もう消えてしまったのかと思っていたよ……」老女は驚きを隠せない様子だ。
老女の中では困惑、怒りに安堵といった様々な感情が湧き上がり紡ぐ言葉が見つからない。目にしているものが信じられない様子で首を振る。用心棒の男は無言だが目元は引きつっている。主人の顔をした男への対処に困っているようだ。
三人ともゴダードに気を取られ、派手な身なりのファンタマを気に留めていない。
「その後、俺が気がついた時にはすべてが収まった後の事だった」
ゴダードは書斎に現れた三人を無視して話し続ける。
「目覚めたのはこの窓の下だった。目覚めてすぐに起き上がることができた。あれだけの衝撃を受けたのに気を失っただけで済んだのかと神と運の良さに感謝をした。そこで気がついたんだ。ロビーはどうなった、あいつは酷い火傷を負っているはずだと……助けなければと」
ゴダードは冷めた笑みを浮かべ、乾いた笑いを発した。
「急いで屋敷に戻ると、使用人たちにひどく驚かれた。まるで化け物でも見かけたように逃げ出す始末だ。それも当然だった。埋葬を済ませたはずの男が元気な姿で顔を現したんだ無理もない。使用人たちやウィリアムを振り切り書斎へ向かった。そこには例の護符が張られていたよ。一体どうなっているのかと当惑していると母さんがやってきた」
ゴダードは老女に目をやった。
「あの時の母さんの顔は……見物だった……ね」ゴダードは短いが荒涼とした笑いを漏らした。
「何とも言いようがない顔をしていた」
「そりゃ、そうさ」老女の顔がゴダードを睨みつけ歪む。「息子は二人は手前勝手な兄弟げんかの末に一人は焼け死に、一人は窓から落ちて転落死、屋敷は大火事で焼け落ちて、嫁のロザリーンは二人が起こした火事にまきこまれて瀕死の重傷……彼女はもって数日、その間苦しむだけの容態だった」
「だから、宝玉の中に閉じ込めたのか?」ゴダードも怒りを滲ませ老女を睨みつける。
「宝玉の力の行使は彼女、ロザリーンからの提案さ……それはもう話しただろ」老女は寂し気に溜息をついた。
「お前とコニーがいなくなればこの家は人手に渡ってしまうかもしれない。この家はもう無くなってしまうしれない。彼女はそれを恐れたのさ。それならこの長くは持たない体を使って女神の力を行使したい。お前が生き返ったらこの先はお前は自由に生きていける。それに賭けたいと言ったんだ……」
「だが、実際はこのありさまだよ……」ゴダードはその床に膝をつき、顔を伏せた。
「火傷により意識が混濁したロザリーンによる魔法の行使は不完全なものだったんだ……時間の巻き戻しには成功したが、コニーは焼死したままで、俺も肉体までは取り戻すことはできなかった。俺を目にすることができるのは家族と関係の強い縁者だけだ。俺が強く望めばこの姿を晒すこともできるが、それも限界がある」
それがゴダードは顔見知りで溢れているこの村でも目立つことなく歩き回ることできた理由か。彼は「時の女神」の力で蘇りはしたが、その存在は精霊のようになってしまったようだ。
「それで今度は噂の拝み屋を連れ込んで何をするつもりだい?」目の前で展開する事態から我に返ったミルズがファンタマに視線を向けた。
さすがにこの家を占める存在だけはある。この雰囲気に飲まれることなく覇気を取り戻したようだ。そしてこの家までアリス・ストレスの名は届いてたようだ。
「今度こそロザリーンをあそこから解放する。そのために彼女をここまで連れてきた。」ゴダードは脇に立つアリスを指さした。「母さん、こんな生活はもう終わりにした方がいい」
これらの言葉に女神の精霊が強く反応し、赤い宝玉から赤黒い靄が勢いよく放出され、それが人型の形態を取り始めた。そして形成されたのは黒とその陰影のみで光景され色を失ったロザリーンだ。ファンタマが宿の客室で目にした寝間着のロザリーンが宝玉の前に立っていた。彼女はファンタマに目を留めると片手を振り上げ突進の構えを見せた。この場でまた手合わせとなるか。あの精霊の核は「時の女神」そのものだろうが、それをアラサラウスで破壊できるのか。
「ロザリーンやめてくれ!」
ゴダードの言葉にロザリーンが動きを止めた。ファンタマがロザリーンから感じたのは二つの意識のせめぎ合いだ。精霊としての契約の行使とゴダードへの思い、双方が激しく絡み合いせめぎ合っている。
「彼女を連れてきたって、この家が置かれた状況を外に知らしめたところで、問題の解決には繋がらない!」ミルズの声が書斎に響く。「あなたにもそれはわかっているでしょうに」
「それじゃ、またロザリーンの人形を作り直して代わりを務めさせるつもりかい。コニーの死はいつまでも伏せておくつもりか」ゴダードは母親に目をやった。
「もう気がついているだろうが……」ゴダードはファンタマに目をやった。「焼け死んで俺として葬られたのはコニーだ。棺には俺とあいつ二人が入れられ埋葬されている。墓から棺を掘り起こせばその中には男二人の遺体が収められていることがわかるだろう」
「どうしてそんなことを……」
「この屋敷に現れた新しい秩序を保るためだ。ロザリーンが身を挺して守ったクローバー家を続けるためだよ。クローバー家は酷い痛手を受けたが、これからも絶えることはなく存続すると示す必要があったそうだ。すべては俺が蘇る前になされていた。俺が抵抗する暇もなく……」
「それを知ったあなたはロザリーンさんを解放するべく動き出した?」とファンタマ。
「自分の代わりに動ける者を雇い、この屋敷内で起こっている事実を真のロザリーンさんが置かれている状況を公表しようとした?」
「そうだ。事実が村の外へ露見すれば……」
「救いの手がやってくる……と?」
「そうだ」
ファンタマはゴダードの言葉に眉をひそめた。浅はかな考えだ。だが、人は強い思いゆえに浅はかな行動を取りがちでもある。
「そんなあなたの行動のためにもう三人が犠牲になっていますよ」ファンタマはゴダードからロザリーンへと視線を移した。「村の皆さんも少なからず影響を受けているようです。この精霊の力はそれほどに強い。それでもあなたは止めないつもりですか」
「それでもやめるつもりはない。ロザリーンを解放するまではどれだけの犠牲を払おうとな!」
「はた迷惑な話ですね。悲劇の連鎖を食い止めると言っているあなたが新たな連鎖を生み出している。それをあなたは今後も続けるという」とファンタマ。
「解放されるべき存在はゴダードさん、あなたではないですか」ファンタマの言葉に屋敷から動揺が伝わってきた。
ゴダードのため、家のためにと行使した力が皆を新たな悲劇へと追い込んだ事実を改めて突きつけられたためか。目の前のロザリーンへもその動揺が伝わったに違いない。構えを崩し項垂れ、体を震わせ頭を抱えるように鈎爪がついた両手を添えている。
「彼を、彼の家を守ることに必要なのは血しぶきを上げての戦いではありませんよ」
ファンタマは黒いロザリーンに目をやった。
「ロザリーンさん、あなたならできるはずです。そこから抜け出しなさい。精霊との繋がりを自らの力で断ち切るのです。わたしもお手伝いしますよ」
ロザリーンの体の震えが止まり、彼女は眼前に両手を力強く掲げた。そして両手についた鋭い鈎爪を己が胸に突き立てた。深く食い込んだ鈎爪が胸を切り裂き、体の中央に大穴が開いた。穴の向こう側には黒い靄を纏う紅玉が見て取れる。ファンタマはすかさずその穴を通して紅玉に向かいアラサラウス渾身の一撃を放った。紅玉は載せられた台座から外れて床へと転げ落ち、台座は木端微塵に砕け飛び床へ散乱した。
部屋は瞬時に冷気に満たされ、吹き乱れる寒風により床に転がる家具、小物が転がり舞い上がった。風が収まるとそこには色を取り戻したロザリーンが立っていた。笑顔を浮かべた彼女はゴダードの元に駆け寄り彼を強く抱きしめた。ゴダードもそれに応じて彼女を強く抱きしめた。その後深いお互い口づけを交わし、二人とも静かにその場から消えていった。
「終わったようですね」
ファンタマに感慨に浸っている余裕はなかった。止められていた時間が再び動き出し、書斎内に息づいた炎が勢いを取り戻したからだ。そこに居合わせた者たちはすぐさま避難することを余儀なくされた。
夜中にクローバー家の当主ゴダードの部屋から上がった火の手はたちまちのうちに彼らの屋敷を飲み尽くす火災となった。だが、警察隊への通報が早かったこともあり、屋敷は焼け落ちたものの周囲への延焼は免れた。それでも、当主のゴダード夫妻とその弟ロビーは逃げることがかなわず炎にまかれその命を落とすこととなった。
彼の母ミルズと姉リーズ、それに加えて多くの使用人は災禍を逃れ、現在ベルト・エディーンや村にある彼らの実家、知り合いなどの住まいで避難生活を送っている。これがマリーなどの宿の従業員から聞いた事のあらましだ。
これが本来の流れだったのだろう。
「火事なんて本当に恐ろしい事ですね」
マリーから事の顛末を耳にしたファンタマは言葉をこの程度に留めておいた。
ミルズは火事の現場から持ち出すことができた家宝の紅玉を売り払い、生活の再建資金とするつもりらしい。力は失せはしても宝玉としての価値が失われることはない。ファンタマとしてもそれはそれでかまわない。宝石の在処がわかっていればいつでも取りに行ける。




