6.罰と階段と終わり
「う、うぁぁぁっ!」
ロベルト殿下が人目も憚らず情けない叫び声を上げたのは、別に例の小瓶を目にしたのが原因ではなかった。
カルロが開けた瓶の蓋から液体が吹き出し、蛇のようにロベルト殿下を襲っていたからだ。
水流で作られた蛇――或いは水で編まれた縄――は、ぐるぐるとロベルト殿下の顔面から首回りを囲む。瓶の容積的に有り得ない水量なので、何か魔法の力が働いてるのだろう。
小さな瓶から無尽蔵に放射されるそれは、一見すると無色透明なただの水としか思えない。
でも、おそらく違うはず。
そうだ、もともと小瓶に入っていた中身を、私はよく知っている。
つまり――。
「憶えているか?」
攻撃を受けただけでみっともないくらいに慌てふためくロベルト殿下に、カルロは容赦なく追い討ちをかけた。
「忘れるはずもなかろうなぁ。貴様とエカチェリナとかいう売女が用意したのだろう?」
「な……に、を言……ごぼっ」
「――毒だ」
ロベルト殿下が耐え切れず液体を思い切り飲み込んだのを見届けると、カルロは解答を口にして水流を収めた。
「ど……く、だと」
「そうだ。貴様らがかつてアマーリエに盛ったものと同じ」
くくっ、とカルロは喉の奥を鳴らしながら、大仰に瓶を掲げた。
「安心するがいい。かなり希釈して使ってやったのだからな。尤も致死量がどの程度かは知らんが」
「げほっ……な……」
告げられた当人は一瞬ぽかんとして、直後に唇を戦慄かせた。蒼褪めた表情はロベルト殿下のみならず、ざわめきと共に軍全体に広がっていく。
薬瓶の中身が毒薬で、それを王子が口にした。誰もが恐るべき事態に驚愕し、狼狽したまま身動きが取れずにいる。
げえ、とロベルト殿下は恥も外聞もかなぐり捨てて、悶絶しながら嘔吐いた。毒はそこまで即効性じゃないはずなので、多分まだ回ってはいない。反射的に胃の内容物を吐き出そうとしたのだ。
「いい格好だ」
カルロはさも可笑しげに嗤った。
「アマーリエは声を失ったが、貴様には何が残るのか、興味深いことだ」
「う……あ……」
「助かりたいか?」
「た、助け……」
毒の症状は出ていないにも拘わらず、ロベルト殿下の心はあっさりと折れた。必死の形相でカルロに縋りつく。
冷静に考えれば、かつての私でさえ一命を取り留めている。毒性を薄めていると言っていたし、適切な治療をしたら特段焦る必要もなさそうだ……と、私は妙に醒めた目で元夫の醜態を見ていた。
カルロはいっそ清々しいほどに底意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「死ぬのは恐ろしいようだな。薬をやろうか? 治癒の魔法花から精製した質のいい代物だが――」
「た、頼む……お願いだ……!」
「欲しいのか? 原料となった魔法花は、貴様が邪険にしたアマーリエが文字通り自らの血を捧げて育てた。権利はすべてアマーリエにある。貴様、頭を下げて頼めるのか?」
「アマ……リエ、が……」
「そうだ。アマーリエは三日と空けず我が塔に通い詰め、俺に頼み込んだ。追放された元領主の娘が、かつての領民を救いたい一心でな。己の声を取り戻すよりも万人を救える薬を作ってくれ、と。どんな願いでも叶えてやろうと言ったのに、まったく健気なことだろう?」
何だかカルロにしては適当な発言だったが、わざわざ突っ込むのは野暮なんだろうな。いや、だって私自身が魔法花を育てた訳じゃあないし、塔に通うのも三日どころか十日も置いていたし、とか。
カルロが殊の外大げさに私を持ち上げて、周囲に聞こえるようわざとらしく吹聴しているのは、おそらくロベルト殿下への嫌がらせに過ぎない。
第二王子の心証を悪くして、離反を狙っているのかもしれない。
そんな当て推量をしていたら、カルロの科白はそれどころではなく、更に過激さを増した。
「この錠剤が貴様が欲する治療薬だ。毒消しの効果は約束できる。何せ貴様の兄の王太子も回復させたのだからな」
「……な」
いきなり――殆ど爆弾のように、カルロは暴露する。投げ込まれたのは衝撃的な事実だった。
「何を驚く? 同じ毒だから当然だろう? 貴様が王位欲しさに兄の第一王子に接種させたものと」
「治してやったら大層感謝されたぞ。気の毒なことだ。ずっと病床に伏していた原因が、よもや弟に謀られた結果だったとは」
「な……な……」
「貴様の女もその父も、今頃共犯で牢の中だ。王太子のみならず国王の怒りも凄まじくてな……いずれここにも報せがくるだろう」
衝撃的な告発に、ロベルト殿下の取り巻きや側近すら絶句していた。部下であっても陰謀に荷担していない者ばかりなのか、信じ難い面持ちで、カルロとロベルト殿下を交互に見遣る。もし話が真実であれば、第二王子自身が反逆罪に問われるのは必至だった。
「王子……」
「まさか……ロベルト殿下が」
「いや、しかし」
「……だが、大賢者殿が偽りを申すだろうか」
ロベルト殿下は疑心に満ちた周囲の視線と声を感じ取り、あからさまに動揺を見せた。
「な……にを馬鹿な。……おい、騙されるな! 濡れ衣、そう、こいつはアマーリエに唆されて嘘八百を騙り私に濡れ衣を着せ、父上……王を謀ろうとしているに違いない! 待てよ、いや、まさか私を妬んだ兄上の企みか!? そうなのだろう!?」
「弁明は自国の王にするがいい」
カルロは戯言など僅かにも相手にせず、傲然と言い捨てた。更に止めとばかりに告げる。
「さて……そこまで吠える元気があるのならば、薬は不要と見える。しおらしくしていれば慈悲をかけてやるのもやぶさかではなかったのだがな」
絶対に思ってもいないことをわざわざ厭味ったらしく口にして、カルロは片眼鏡越しに冷ややかな視線を向けた。
「まあ万一必要とあらば、貴様の兄に多少余分に恵んでやったから、直接伺いを立てるがいいさ」
「……っ!」
相手の悔しそうな表情に満足したのか、カルロは再び私の手を取ると踵を返して、もと来た経路を戻る。最早邪魔立てする兵はひとりもいなかった。
やがてタイミングを見計らったかのように、やや遠くから国王の使者の到着を報せる伝令の声が聞こえた。
◆ ◆ ◆
何をどう説明したらいいのか。
要するにカルロは私の与り知らぬところで、王太子殿下が欲深い弟王子の画策で長い間毒に侵されていた事実を調べ尽くしていた。
病弱で王位に就けないと懸念されていた第一王子は、幼少時は確かにやや虚弱だったものの、成人するに従い身体も丈夫になっていった。政務にも精力的に携わり、王太子の地位は磐石なものになるかと思われた。
無論、次期王位を狙っていたロベルト殿下や彼の派閥には不都合である。エカチェリナとその父親が中心となり、陰謀は進められた。
暗殺を疑われないために、毎日ごく微量の毒を王太子殿下に盛っていた。侍女を買収して、少しずつ飲食物に含ませる。当然、徐々に体調を崩すだろう。その頃には医師も抱き込んで、王太子殿下は病身に戻ったと診断させた。気がついたときにはすでに手遅れ……という筋書きだ。
ちなみに私が飲まされた毒薬は同じ種類ではあるが、おそらく致死量に近かった。運良く命拾いしたのは毒がやや遅効性で発見と処置が早かったため、と当時から聞いている。
危なかった。
私は自分の症状をカルロに正確に伝える目的で、隣国で何とか同じ毒を入手したのだけれど、下手をしたら王太子暗殺犯にでっち上げられてた可能性もあったんじゃなかろうか。
そんな物騒なものはさっさとカルロに押し付け、もとい、預けておいて正解だったかもしれない。
話は戻って、あの後すぐにロベルト殿下は国王陛下の代理人に拘束された。カルロが王太子殿下を救い、私の亡命経緯をつまびらかにしたおかげだ。
真に国に仇なす謀反人は誰か――とカルロは問い、王は結論を出した。玉座の間にあってすら微塵も臆せず堂々と語る大賢者の貫禄は、国主を遥かに凌駕するものだったそうな。
……飽くまで噂だけれども。
それにしても、一体いつの間にそんな裏工作をしていたのやら。
もちろん私はカルロと四六時中一緒にいた訳ではないし、これでも救護活動で忙しかったので、目を離した隙にカルロがどこで何をしていたかなんて知る由もない。本当に如才ないというか、その完璧っぷりが大賢者たる所以なんだろう。
兎も角、第二王子は捕えられ、妃のエカチェリナも父親の大臣も投獄されている。あのときカルロは本当にロベルト殿下にあの毒を飲ませたのか、単なるブラフだったのかはわからない。一応、ロベルト殿下はまだ五体満足で生きているようだから。
その後、国王の勅命により元領地から軍は撤退し、王政側と民衆の間で話し合いの席が設けられた。現在は臨時の執政官が置かれ、課された重税も撤廃された。
ついでに私の実家の名誉も取り戻されたみたいだ。隠れていた親族の生き残りも、現在は再び貴族社会に復帰している。中には私のように亡命してたり、市井暮らしに馴染んで元の地位に戻るのを厭っていたり、或いは残念ながら苦労に負けて儚くなってしまった者もいた。
すべてを救うことはできない。もちろん責任を追及すべきは第二王子であり、横暴を極めたエカチェリナとその親の大臣だ。ただきっかけはやはり元夫に疎まれた私だから、当然罪悪感は残っている。
救護活動や治癒の薬に恩義を感じてくれたのか、元領民には随分と気を遣われた。殆どカルロの力であって私の功績ではないのだけれど、第二王子麾下の兵たちの前で繰り広げられた派手なパフォーマンスのせいで、どうにも誤解されてしまったらしい。
評判を聞きつけて、何かしらの便宜をはかると言ってくれた他の貴族もいた。でもやはり祖国はもう私の居場所ではないように思えた。
ただでさえ一度亡命した身、今回の騒動の責任追求にあたっても、私自身も捕縛される可能性もあっただろう。実際には王都に呼び出しもされず、肩透かしをくらった感はある。
多分、大賢者様の存在そのものが牽制になったからに違いない。大事なく済んだのは幸いだった。
結局、覚悟を決めて祖国に戻ってはみたものの、私自身ができたことはとても少なかったと思う。
名家に生まれても、異世界にいた前世を記憶していても――ただのアマーリエであってもなくても、無力な一個人に過ぎなかった。
でも……あの日あのとき階段を上ったことだけは、決して後悔しないだろう。
――元領地が落ち着きを取り戻し、人々の生活も復興の目処がたった頃、私は再び出国した。