1.塔と階段と賢者
一人称です
私は今日もひたすら階段を上る。
どのくらい上るかって訊かれると、多分あちらの世界のスカイツリーくらい? って、確か634メートルだっけ?
ううん、もっとあるよ。倍くらいあるよ。いつも昇り階段三、四時間はかかる。鬱だ。バベルの塔やカリン塔よりはマシな程度か。
でも致し方ない。
そんな馬鹿高い塔の上に居を構える、どうしようもない変わり者に用があるのだから。
奴は正直言って性格がよろしくない。
こちらが必死の形相で訪れれば、性格が滲み出た悪辣な笑顔で嫌味ったらしく迎えるのだ。
「また貴様か、アマーリエ。瀕死の豚か犬のようだな。いい加減諦めたらどうだ? それともすでに正常な判断力を有さないのか?」
私は反論もせず――いや、できずに、ただただ奴を睨み付ける。頭がおかしい(意訳)とまで言われて、いい加減にしたいのはこちらの科白だった。
「ああ、気の毒だな、アマーリエ。貴様はどんなに腹立たしくとも吠える声すら持たぬ」
見下しきった表情は毎度のことだけれど、ほんっっとにムカつく。
この男はいつも当然のごとく私を蔑む。
まあ私以外の人間に対しても平等に、貴賤による差別もなく、老若男女問わず、全方向のべつ幕無しに……だけれども。
私はアマーリエ。
ただのアマーリエ。
塔に住む男はカルロといった。
ええ――そう残念ながら、こいつは「ただの」男ではない。
カルロは枕に「大賢者」なる大層な称号を持つ、この世にふたりといない稀少な魔法使いだった。
◆ ◆ ◆
さて、改めまして。
前述の通り、私の名はアマーリエ。
ちょっとばかり前世の記憶があるだけの、何の変哲もない普通の女です。
って、普通は前世なんか知らんがなと仰られるかもしれませんが、この世界では全然珍しくないんだな、これが……。
だいたい二割くらいは生まれ変わる前の記憶を持っているらしい。それでもって、そのうち半数近くは子どもの頃に忘れちゃうのだそうだ。何の統計かはさておき、私が残りであるところの全人類の十パーセントだったとしても、まだまだ充分一般的な部類だよね。
ただ――さすがに別の世界からの、つまり所謂「異世界転生」というのは稀少かなと思う。他に聞いたことないなあ。バグかなんかだろうか。
なんで異世界と判ったかって?
だってこの世界に日本なる国はないからね。地図も歴史も全然違うし、魔法なんてケッタイなものがあるし、さっきも言った通り転生がわりと普通だったりするし……これはもう明らかでしょう。
あと生活水準と衛生水準の違いにはゾッとした。ほんと要らないよね、前世の記憶なんて。
まあ昔のことは置いといて、現在の私の境遇を話そうと思う。
私ことアマーリエは二十代半ばの成人女性である。現時点では独り身で、普段はこの世界で随一の高さを誇る「賢者の塔」のお膝元で暮らしている。前世で例えるなら押上駅最寄り住民みたいな。いや違うか。
で、当然ながら「賢者の塔」には「賢者」様がいらっしゃる。
奴だよ奴。
あの傲岸不遜の権化のような男。
世界一の魔法使いにして、唯一の大賢者にして、当代一の偏屈野郎――カルロ氏である。
見た目は三十歳そこそこだけど、実は齢三百を超えるクソジジイなのだそうだ。そういや毛根は未だ健在のようですが、見事な総白髪でしたね! 若作りじじぃとか超キモイ。
じゃなくて、実は不老不死の禁忌に手を出しているのだとか何とか。噂ですが。そのせいか畏怖されている以上に忌避されている人物だった。
何しろ十日に一度は塔に上る私ですら、奴が他人と話しているところを殆ど見たことがない。
そりゃそうだ。誰が好き好んで無限に思えるような階段を上るかよ。エスカレーターもエレベーターもないのに。ええ、私ぐらいですよ、畜生。
私だって嫌なんだって。
止むに止まれぬ事情があって、仕方なしに試練を受け入れているだけで。
ああ、早まった。
どうして私は軽々しく、この階段を上ろうと思い立ってしまったのだろう。
+ + +
さてさて、私がわざわざ塔の天辺まで行こうとした理由とは。まあ語ると物凄く長くなるので割愛させていただく。要するに件の大賢者様にお会いしたい事情があっただけっていう。
実は私は隣国の生まれだったりする。かれこれもう三年にもなるのかな? この国へは亡命同然にやって来た。
尤も「賢者の塔」は世界に名を馳せる大賢者様の威光により治外法権だから、国際関係とかどうでもいい。
私が塔を中心に広がるこの街に移住してきたのは、運命でも何でもなく単なる偶然だった。
幸いこの国に裕福な親戚がいたおかげで、祖国を出てからも衣食住には困らない生活を送ることができた。けれども私は実のところ、致命的な欠落を抱えていた。
もちろん生きてはいける。
無為徒食でも贅沢さえしなければ、一生穏やかに過ごせる保障はあった。
でも噂を聞いてしまった。
あの塔の上には――不可能を可能にする、奇跡すら起こせる、神のごとき偉大な大魔法使いが存在するのだと。そこまではいい。街の住民のみならず、世界の誰もが把握している周知の事実だ。
聞けば、いと高いところにおわす魔法使いは下界の人間に全く興味はなく、苦労して塔に上ったとしても簡単に話ができるような相手ではない。顔を合わせたことのある者自体が稀だった。
ここにもうひとつ、塔を抱えるこの国でも限られた人間しか知らない秘密の話があった。なんと――そんな夢か幻のような人物でも、ほんの時折、極めて僅かながら、不思議な気まぐれを起こすことがあるのだという。
つまり確率的には凄く低いけれど、もし幸運に愛されていれば。或いは悪運が強ければ。
もしかしたら通常ではあり得ない、とてつもなく非現実的な願い事でも叶えてくれる……かもしれない、とか何とか。
親戚経由でそれを耳にした私は、自分でも驚くほど迷いなく、その魔法使い――大賢者カルロに会いに行く決心を固めたのだった。
階段を上ること、何時間か。おそらく初回のうえ休み休みだから……五時間か、或いはもっとかかったかもしれない。
ぜぃぜぃ言いながら最上階の扉を開けた私を待っていたのは、ひょろりと背の高い、学者然とした男だった。片眼鏡だ、珍しい。
一見温和そうな印象のその男は、疲労困憊の女を目にしても労わることなく、意地悪く口端を歪めて笑った。
「ようこそ、浅ましくも見苦しく分不相応な望みを抱くお嬢さん……と呼ぶには少し薹が立っているようだが」
褒めてほしい。
私は何と言われても感情を露わにすることはなかった。
そりゃあ内心うへぁって引き攣ったよ。表情筋を総動員して無表情を装った自分偉い。我ながら大人の対応を極めてる。
想像よりもずっと若く見える――人物評からは棺桶に片足突っ込むくらいの老人だと思い込んでいた――その男カルロは、何も言わない私のことを無遠慮に観察する。少しだけ見え隠れする表情は、何故か愉悦を含んでいるように思えた。
「……なるほど?」
何もかも見透かしたような瞳が気味が悪い。深い深い紫色。古来より魔を宿すと伝えられる色彩だ。
「名はアマーリエ。つい最近下の街に住み始めた。無職独身。親類の貴族が身元保証をしているから、平民に比べればまあまあな暮らしぶりだ。個人資産もそこそこあるようだな」
「……!」
「凡人には意外か? 塔に引き篭もっていようが、地上の出来事を把握するなど、俺くらいの魔法使いになれば容易いことだ。貴様の事情程度寝ていてもわかる」
ずばりと言い当てられて、私もさすがに驚いた。最初は疑っていたけれども、やはりこの男が名高い大賢者様に違いなかった。
で、あれば――。
私はおずおずと手荷物の中からある物を取り出した。そっとカルロの前に置く。
何の変哲もない細身の小瓶だった。
「ほう」
ついでに風呂敷に包んであったお茶菓子も差し出した。塔の下の街で購入したものだ。
「……ふ」
大賢者カルロは躊躇せず受け取った。実は突き返される可能性も考慮していたが、無用の心配だったらしい。
「幸運だったな、俺はここの菓子は昔から気に入っている」
おい! お菓子の方ですか!
複雑だ。たまたま流行りの人気菓子店が売り切れだったせいで地味な向かいの店で買ったんだが、逆に効を奏したのか。何だろう、老人にはお洒落スイーツより饅頭や羊羮みたいな?
「いいだろう、アマーリエとやら。考えてやる。貴様は条件を満たした――」
「!」
カルロは茶菓子を摘まみながら小瓶を手に取り、鷹揚に頷いた。
ちなみに、条件というのはお偉い大賢者が地上の凡俗のお願い事を聞いてくれるかもしれない――第一関門を指す。
ひとつに、塔には単独で上ること。身分問わず誰であろうと連れ立ち禁止。
ひとつに、大賢者様の研究の休憩時間に扉を開くこと。これは完全に運次第。
ひとつに、大賢者様がお気に召す手土産を持参すること。
特に最後の条件は難しい。高級品でも希少品でも関係ない。大賢者様の興味を引くものでなければ容赦なく門前払いされるのだと聞いていた。
だから殆ど賭けみたいな試みだった。
後で思い返すと、これは本当に勝ったと言い切れるのか、私は大いに悩む羽目になる。
+ + +
「最低でも千日以上だ。更に長ければ千八百日を数えるだろうな。貴様の望みを叶えるには」
あのとき告げられた言葉に嘘はなかったと信じている。つまり時間をかければ、カルロは望みを叶えてくれるのだろう。
三年から五年の時間を提示されても、私は引き下がらなかった。
第二関門。カルロはもうひとつ、必要条件を私に突き付けた。
「十日に一度だ」
「十日置きに塔まで上ってきて、貴様の血の一滴を寄越せ」
そう言って、カルロは試験管っぽい容器を私の手首に触れさせた。肌に妙な感触がして、血を抜かれたのがわかった。
うぎゃあ、心臓に悪いよ!
別に傷を付けたりもせず、魔法を使って採血したみたいだけど……いえいえ、器に溜まった量、とても一滴には見えないんですが。
多分献血一回分くらい? 身体に大きな影響が出るほどじゃあない。まあその頻度なら貧血にもならないか。ううん、栄養はきちんと摂取しとかないと体力的にはキツそうかも。
それにしても……人間の生き血がいるなんて、魔法というより呪術っぽくて何だか怖い。果たして真っ当な方法なんだろうか。
背に腹は代えられんけど、本当に大丈夫かな。
カルロは白くなったり青くなったりする私を面白そうに見下ろした。
「ああ、そうだ。ついでに下の街の菓子なり流行りの品なりを届けろ。せいぜい俺を飽きさせるなよ」
うわあ、面倒くさい……。
正直この提示にはげんなりしたけど、仕方ない。私はこくこくと頷いて受諾した。要するにお供え持ってお百度参りしろ的な話だろう。
「ふむ」
素直に言うことを聞き続ける私の何が興を引くのか理解できないが、カルロはずいと近寄って来た。
男とは思えない滑らかな指が、醜い傷痕の残る私の喉を滑る。
私はごくりと唾を呑んだ。
「掻き毟ったか」
「……!」
「毒を喰らったのなら無理もないな。まあ声を失う程度で済んだのなら、幸甚ではないか?」
私が持ってきた小瓶をわざとらしく指で振って、カルロは鼻で嗤った。その中にはかつて私が含んだものと同じ毒薬が入っている。確かに助かったのが不思議なくらいの劇物だった。
毒を飲まされた経緯も理由も、この分だとおそらく把握されてるんだろうな。
ただ……私にとって幸いなことに、この男にとっては凡俗の個人的事情など何の意味も為さない。突然訪れた女がどこの何者だろうが、殺されかけるような物騒極まりない背景を抱えていようが、どうでもいいし、どうにでもなるのだ。
大賢者の名は伊達じゃない。
それでこそ私が賭ける価値がある――。
だから私は今日も階段を上る。
約定を違えぬよう、自分の未来を掴めるように。