人が消える高台寺
少しだけ空が広く見えた。
二条城の天守閣を上から見下ろし、池梨乃を思い出す。
梨乃が消えてから2年。
高台寺公園から眺める同じ夕焼けは、私の知らない夕焼けだった。
隣に梨乃がいないからなのか、街がかたちを変えたからなのかは判らない。
去年来たときはどうだっただろうか、思い出せない。
そして、梨乃を思い出せなくて悲しみが薄まる。
梨乃は私の目の前で姿を消した。
今でも信じられないけれど、梨乃の体が徐々に透けていって見えなくなって触れなくなった。
「梨乃……」
呼びかけても返事はなくて、目の前で消えた梨乃をどう探せば良いのか解らず、その場で名前を呼び続けた。
「梨乃」
梨乃が消えた日から、彼女の名前を呼ぶために高台寺公園を訪れる。
多分これで3度目。
梨乃と私は、ここへ何しに来たのだろうか。
ひどく疲れていた気がするけれど都見物でもしていたのだろうか。
友達がいなくなってしまったショックが一時的に記憶を喪失させていると心理カウンセラーが言っていたけれど、姿だけじゃなく存在そのものが消えてしまうようで怖い。
失われいく記憶。
あの日、警官に呼びかけられて我にかえった。
痛い。
警官に力いっぱい両腕を捕まれ体を揺すられていた。
「君、しっかりしなさい。何があったの?」
梨乃が消えてしまったことを警官に伝えたかったけれど、のどが渇き顎がガクガクしてうまく話せなかった。
すでに日は落ち眺めた市内がとてもきれいな夜景になっていた。
何時間叫び続けていたのだろうか。
「梨乃が、消えました」
警官に事情を聴かれ梨乃の話をした。
語彙力のなさを悔やんだ。
何度も何度も見たままを話したけれど、警官には伝わらなかった。
梨乃は行方不明者になってしまった。
周りがどんどん慌ただしくなって、夜の高台寺はライトに照らされ眩しい。
動けない私は声を掛けてくれた警官とその様子を見つめていた。
「今から梨乃さんの捜索が始まるけど、君は一旦お医者さんで体を休めようか」
「違うんです、消えたのはここなんです」
無意味な捜索隊を見ていたら涙があふれてきた。
梨乃が消えたこの場所に心を埋め込んでしまったような気がする。
翌日には『京都女子高生神隠し』と2時間ドラマのようなタイトルがつけられ報道された。
嘘っぱちのマスコミが面白がって書いたであろう記事は皮肉にも真実だったけど、誰にも信んじられないまま梨乃の捜索は続けられた。
捜索は2年経った今でも定期的に行われている。
捜索というよりも新たな失踪者を出さない為に、高台寺周辺の警備が強化された。
梨乃が消えた1年前にも30代のサラリーマンが高台寺で失踪していて、去年は8歳の女の子がいなくなり誘拐事件が疑われたけどマスコミは『神隠しだ』とはやし立てた。
いずれも忽然と姿を消していて行方不明となっている。
人身売買やテロ目的の拉致など、失踪の理由を専門家たちが口々に語っている。
高台寺公園には【不審な人物を見かけたら通報!】と書かれた看板が立てられ、梨乃は死んだわけではないのに看板の足元には花束が置かれるようになっていた。
「梨乃……」
そっか、あの時夕焼けに染まる京都市内なんて眺めてなかったんだ。
初めて見る二条城の天守閣を見ながら梨乃を呼んだ。
「涼音さん、今年も来てたんですね」
振り返ると去年行方不明になった女の子の母親が手を振りながらこちらに近づいてきていた。
「お嬢さん見つかりましたか?」
不毛な質問を二条城を見ながら投げかけると返事は返ってこなかったので、彼女は恐らく首を横に振っていたのだろう。
「梨乃さんは応えてくれましたか?」
彼女の問いかけは無機質に私の首を振らせた。
彼女の名前は知らない。
去年ここで出会い女の子を見なかったかと聞かれた。
我を忘れ血相を変えて駆け寄ってきた彼女は、私が見てませんと答えるとみるみる正気を取り戻したようにみえた。
そして彼女は落ち着いた声で「呼び戻せるでしょうか?」と聞いてきた。
探し回る無意味さとこの場で呼び続ける意味を彼女は知っているのだと感じた。
行方不明の女の子も梨乃と同じなんだと思ったけれど、彼女に確認することはできなかった。
彼女も梨乃の話を聞きたがったけど、真相を追及することはなかった。
私の話を頷きながら聞く彼女は、頷きながら名乗ることもなくどこかへ去ってしまったのだった。
「変なこと聞くようですけど、涼音さんは梨乃さんのこと思い出せますか?」
「えっ?!」
思わず聞き返してしまった。
私はどんな顔をしていたのだろうか、私の顔をじっと見つめる彼女の顔がわずかにほころぶ。
「娘がいなくなってまだ1年しか経ってないのに、娘の顔が思い出せないんです」
何か、何か彼女に言わなければと思うけれど何も言葉が出てこなかった。
言葉が見つからなかった。
彼女もきっと私の言葉を待っていたのだろうけど、彼女は大きく息を吸い込んだあと一旦ゆっくり息を吐きだしもう一度大きく息を吸い込んでからまた話し始めた。
「娘の帰りを待ちながら娘なんていたかしらって思うの、変でしょ?」
彼女は私の返答を待たずに話を続ける。
「朝もね、週刊誌で娘の顔と名前を確認してから家を出てここに来たの。娘は……」
彼女は言葉をつまらせ、手が……とつぶやいた。
彼女は見えない何かを手の平で優しく包み込むように震えていた。
手の感触、今でも鮮明に思い出す梨乃が消えた証拠。
「あの、この景色は去年と同じですか?」
「見慣れた景色ね」
「空が、広いんです」
彼女は不思議そうに空を見渡していた。
私は二条城を見ながら言葉を探した。
薄れゆく記憶と違和感。
「梨乃が消えたのは、ここじゃない気がします」
彼女は空を見上げたまましばらく動かなくなってしまった。
首を下ろした彼女はそのまま何も言わずに帰って行った。
彼女の感情を揺さぶるつもりはない。
だけど彼女と話しながら気づいた、私と彼女の違いを伝えたかった。
出てきた言葉は目の前の夕焼けにピッタリで、清々しい気分になった。
梨乃が消えたあの場所はどこへ行ったのだろう。
目を閉じて、池梨乃を思い出す。
思い出せる梨乃は透けたままだった。
「涼殿、しっかりしなさい」
あの日と同じように男の人に呼びかけられる。
違ったのは私の肩を優しく叩く柔らかい手。
目を開けると私の顔を覗き込む男に驚き思わずのけ反った。
倒れないよう手をつこうと思った時には、誰かに肘が思いっきり当たっていて「うっ」と唸る声がした。
「ひ、ひどい涼ちゃん……」
振り返ると同じ年くらいの女の子が胸を押さえてうずくまっている。
「ごめんなさい」
慌てて彼女の方に体を向けると、彼女はうずくまったまま顔だけこちらを向けニコっと笑う。
「いいよ。涼ちゃん久しぶりだね」
「えっと、会ったことありましたっけ?」
「先生、私忘れられた」
彼女は私の後ろに視線を送り男に甘えた声で話しかけた。
「歴史が変わったのかも知れねぇな」
男の方を振り返ると、男はすでに背を向けていて「好きにしな」と言いながら部屋を出て行った。
部屋?!
彼女の方に向き直ると、彼女は嬉しさはち切れんばかりに小刻みに縦に揺れている。
彼女を思い出せず顔が引きつってしまう。
私も同じくらい喜ばなくてはいけない気がする。
「そんなことより、何で部屋なんですか?」
「どんなことより?うーん、ワープしたから?」
「瞬間移動?」
「じゃなくて時間跳躍。ワープというよりタイムリープかな」
どうしよう、彼女の話がファンタジーすぎてついていけない。
「えっと、なんかいろいろお世話になったみたいでありがとうございま」
そう言いかけると彼女は食い気味に割って入る。
「ちょちょちょちょちょ、ちょっと待って!今、この場をさっさと片付けて立ち去ろうとした?」
その問いにニコッと笑顔で返すと彼女はほっぺを膨らまし怒ってみせた。
「そうはさせねぇよ」
彼女は先生と呼ばれる男の江戸っ子なまりを真似ながら私を引き留めた。
気さくな彼女に思わず笑みが漏れる。
そんな私の目をじっと見つめ今度は真面目な顔で言った。
「私は池梨乃。先生は勝麟太郎、そしてここは海軍操練所、になる予定のところ」
一瞬で笑い方を忘れてしまった。