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8. 世界の歴史 15 成熟のイスラーム社会 ~ アッラーの名の下に、世界を揺り動かした中央ユーラシアの皇帝と奴隷たち

お前がスルタンの宮殿で名を高めようとするなら、お前はユダヤ人か、ペルシア人か、ヨーロッパ人にならねばならぬ。

お前の名をハービル、カービル、ハミディと変えねばならぬ。


――無名のトルコ人

 異世界転生フィーバーを迎えた創作サイトを訪れる若者にとって、最も馴染みの薄い地域の一つが中央ユーラシアだろう。しかし近世において優れた統治システムを築き上げ、豊かな文化を享受し、世界を相手に貿易を行い、奴隷身分から成り上がり、可愛い奴隷をハーレムで侍らせていた者たちこそが彼らだった。

 皆さん、理想の異世界は中央ユーラシアにあったんですよ。だから今日は少し長いです。



「世界の歴史 15 成熟のイスラーム社会」著:永田雄三、羽田正

http://www.chuko.co.jp/bunko/2008/05/205030.html


 本書は中央公論社が出版している世界史の叢書、全30冊の15巻目にあたる。本書ではトルコのオスマン帝国、イランのサファヴィー朝、そしてインドのムガル帝国を少しだけ加えた、近世のイスラム社会を解説している。


 中央ユーラシアと一口に言っても、何がどこにあったのかも知らないという方もいるかも知れない。筆者も詳細には分かっていない。だから、まずは上記3つの帝国を把握しよう。今は文庫版になって持ち運びも楽になったので、初心者にもオススメの一冊である。


 必要最低限の事前知識は、中世にユーラシア全土を支配した最強国家モンゴル帝国が滅んで、モンゴル文化を継承する世界の遊牧民が都市民として定着していったという流れである。遊牧民の有力者は当初、モンゴル皇帝の称号「ハーン」を重視し、その権威を拠り所とした。前回、清で言及したホンタイジもハーンを名乗っている。


 彼らのうち、西アジアから中央アジアにいたトルコ系遊牧民は地元のイスラム神秘主義教団と接触し、イスラムに教化された。ただし中世当時、イスラムにおける君主の称号「スルタン」の権威は、モンゴルによる支配や遊牧民の反乱によって地元の総督レベルまで失墜していた。


 そこから拡大したのが上記3つの帝国である。



 オスマン帝国は西アジアのアナトリアのさらに西の端、小アジアで内政に勤しみ力を蓄えた。彼らは東欧やバルカン諸国へ進出し、キリスト教国家を支配下に治める。オスマン帝国は1453年、東ローマ帝国を占領。東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルをギリシャ語由来のイスタンブールに改名して遷都し、名実ともにギリシャ系イスラム帝国となった。


 彼らの統治の基礎はギリシャとモンゴルにあり、それをイスラム法「シャリーア」によって理論化したものだった。非イスラム地域や民衆を治めるため、イスラム以前のアラビア半島の行政法「カーヌーン」を引き継ぎ、そこにモンゴルの禁令集を加えた。イスタンブールは当時からキリスト教、ユダヤ教、ギリシャ正教が入り混じっており、スルタンの支配下でも宗教的に寛容な政策は続いた。現在のやや穏健なスンニ派のトルコ共和国の姿勢はオスマン帝国の影に重なる。


 オスマン帝国はシャリーアに基づいて国家による土地保有制度を確立し、地主による中間搾取のない収税や軍糧の確保を達成した。商業を推進する一方で軍需品を生産するため、ギルドにも行政による一定の監視があった。これが帝国の征服事業に繋がったことは言うまでもない。


 それらの中で異彩を放つ制度が「デヴシルメ」だった。この制度は非イスラムの少年を集め、イスラムに改宗させた上でトルコ人家庭に預け、スルタン個人の奴隷として育成するというものである。


 故郷や家族と離れた少年には、スルタンに忠誠を尽くす以外の道は無い。少年は成人すると多くが常備歩兵「イェニチェリ」になった。特に優秀な者は宮廷侍従の教育を受け、高級官僚として召し上げられた。中には東欧の寒村から大都会に連れられて大宰相まで登りつめ、オスマン王家の娘婿になる者もいた。



 イランのサファヴィー朝はどうだったのか。彼らの領土はカスピ海とペルシア湾に面し、現在のパキスタンからイラクまでに渡る広大なものだった。旧ソ連成立以降に国境で分断されたが、これらの地域は近世にはサファヴィー朝が支配していた。つまり、彼らはペルシア系イスラム帝国といえる。


 (ただし、現在のイランやその支配地域がサファヴィー朝の歴史をそのまま受け継いだわけではない。サファヴィー朝はイラン高原を中心にはしていたが、これらの地域の人々は今も独自の民族的アイデンティティを持っているので注意してほしい。)


 シーア派のサファヴィー朝は同じイスラムのオスマン帝国とも戦火を交えた強国だった。その首都イスファハーンは17世紀に繁栄を極め「世界の半分」とまで謳われた。サファヴィー朝はオスマン帝国に対抗するためオランダとも手を結び、欧州とも貿易を行っており、イスファハーンではあらゆる商品が取引された。


 トルコ系遊牧民の活躍はオスマン帝国に限らず、サファヴィー朝でも同様だった。建国初期、サファヴィー朝はシーア派教団として、騎馬戦術で東方イスラム世界を軍事的に支配した。しかし、いくら戦闘力があっても教団に行政の才は無かった。そこで彼らは占領した地域から、ペルシア語に通じた知識人「タージーク」を集めた。戦争はトルコ系遊牧民、行政はイラン系都市民という役割分担である。


 1501年、ペルシア王イスマーイール1世はイランの都市タブリーズでシーア派の国教宣言を行う。スンニ派が三分の二を占める都市で「何だこいつ?!」と思われたことは想像に難くない。それでも、シーア派教団の軍事力を背景にした支配は、その権威をシーア派に認められる以外に無かったのである。


 以後、サファヴィー朝はシーア派改宗政策および保護政策をとった。シーア派は減税、スンニ派は増税され、多くの住民がシーア派を選んだことで帝国の宗教的一体化に貢献した。だが、帝国の発展とともに建国の功臣であったシーア派教団の軍人は貴族化。王にとっては邪魔者になり始めた。


 そこで彼らに代わって組織された近衛軍団の名が「王の奴隷(ゴラーム)」。主にコーカサス出身者が集められた多民族部隊だった。彼らは捕虜や徴兵を受けた者あるいは志願者だったが、奴隷ではない。近衛軍団に王への強い忠誠を誓わせるため直接俸給を与える制度が作られ、シーア派教団の軍人の特権は剥奪。近衛軍団の俸給になった。


 ところで、サファヴィー朝は当時のイスラム宮廷では珍しく、女性にも一定の発言力があった。王妃や王女だけでなく実母や叔母、姉妹から愛人に至るまで、王の傍にいた女性は国家運営の助言を行った。また、王から分け与えられた財産を使って、バザールや隊商宿などの公共建築への投資も行っている。



 スンニ派オスマン帝国とシーア派サファヴィー朝の宗派争いと実際の戦争で、お互いに征服した地域から人材を登用したり、国内で育成したりするうちに、ギリシャとペルシアにおける人的交流は少なくなった。一方で、サファヴィー朝とその東に位置するインドのスンニ派ムガル帝国との間では人的交流は続いた。


 ペルシアで成功できなかった医師はムガル帝国で宮廷に召し上げられて貴族となり、インドの商品を抱えた商人はイスファハーンで大金を得る。ギリシャとペルシアが文化的に分断された一方で、ペルシアとインドは風通しが良かったようである。



 建築様式が違うかも知れない。衣装が違うかも知れない。食事が違うかも知れない。神の名が違うかも知れない。だから何だというのか。私たちが望む異世界は近世の中央ユーラシアに存在したのだ。中世ヨーロッパ? アッラーの名の下に地獄へ送ろう……。

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