7. 中国の歴史 09 海と帝国 明清時代 ~ 領土不定無力、自称中華皇帝たちのグランドデザイン
亡国があり、亡天下がある。亡国と亡天下はどのように分けられるのだろうか。
皇帝の姓が変わり、国の名称が改まることを亡国という。
仁義が塞がり、けものを率いて人を食わせ、人がたがいに食むことになれば、亡天下という。
――顧炎武『日知録』巻十三 正始
久々にチキンラーメンを食べたらパッケージに60周年と書いてあった。すごーい! チキンラーメンと言えば日清食品。その社名の由来は「日々清らかに豊かな味を作る」という理念なので、日本とも清とも無関係である。
それでは何故、清を取り上げるのか。それは取り組むのが面倒なところから最初に片付けておきたいからである。では何が面倒か。勿論、政治的な意味においてである。
「中国の歴史 09 海と帝国 明清時代」著:上田信
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2_(%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE)
本書は講談社が出版している中国通史の叢書、その新版の9巻目にあたる。講談社の同じシリーズでも、旧版では元朝と明朝が一冊にまとまっていて清が抜けており、図説版では明朝と清朝がバラバラになっており、近世の王朝にあたる明朝と清朝を一冊に収めたものは本書しかない。
そう。中国は体制交代が近世のど真ん中で起こったので区切りがつけにくく、書籍一冊でまとめるには政治的に面倒なのだ。
その視点から見ると、本書は本連載「1. Wikipedia(略)」で述べたウォーラステインの「世界システム論」を踏襲しており、世界との同期性を意識した構成となっている。一冊で一気に近世の中国を理解できる非常に便利な代物である。逆に近世を意識しないで本書を手に取ると、ただの鈍器になってしまうかも知れない。
秦朝から宋朝までの帝国は前王朝から与えられた爵位を以て国号としてきた。国号の他称は連綿と続く帝国の正統性を示す伝統だったのである。しかし、宋朝を倒したモンゴル人のフビライは国号として「元」を自称する。問題はその後である。
「明」も「清」も元とともに国号を自称した。それまでの歴史は何だったのか。正統性を投げ捨てた自称中華帝国の始まりである。
しかし、明はいきなり問題に突き当たる。元はウィグル商人やムスリム商人が利用していた銀による交易システムに乗っかって商業を行った。しかし、明は元とともに交易システムも破壊してしまう。原始的な貢納が蘇り、帝国各地の流通は停滞した。
16世紀になって日本から銀が流入するようになると、明の交易システムは復活する。銀を主体とした商業時代の到来である。ここにアメリカ大陸から銀を得たヨーロッパ勢も加わり、明の交易は元以来の大盛況となる。
だが、この時代は長続きしなかった。17世紀には日本の銀は枯渇し、明の交易を支えられなくなってしまう。同時に中国各地で反乱が相次ぎ、アジア各地で政権が交代し、ヨーロッパを含めたユーラシア全体が不安定化した。日本の銀が明そして世界の命運を分けたのだった。これがいわゆる「日銀砲」である(嘘)。
さて、近世の交易の中で欠かせないのが奴隷である。また奴隷の話? 誰が何と言おうと奴隷なのである。インドのムスリム宮廷に仕えた去勢された使用人「火者」が奴隷として輸入され、華南の広州や泉州の豪族によって使役された。
宦官が朝廷や皇室の一族、王府に仕える官僚であったのに対して、火者はそれ以外の功臣などに仕える者として区別された。しかし、有能な火者の中には献上品として皇太子に贈られ、宦官にグレードアップして活躍した者もいる。
明朝の宦官は一般のイメージと異なり優秀な者もいた。清朝は明朝が宦官によって衰退したと考え、宦官を志願者に限ったが、その結果、貧困層が宦官として身売りして宦官の質が逆に低下した。儒教思想に染まった官僚たちは皇帝と私的な関係にあった宦官を嫌い、彼らに有利な史料も消したのだった。
宮刑としての去勢が廃止されて以降、明朝では従来の志願者や死刑軽減者だけでなく、異民族の捕虜や奴隷から去勢者を朝貢によって集めていた。こうした朝貢による宦官の要求は朝鮮、ベトナム、モンゴルなどの国も対象になったようである。国際色豊かな宦官は初期の宮廷に多くの有益な知識をもたらすことになった。
奴隷とか去勢とかそういう話ばかりだと流石に変態だと思われるので、さっさと別の話題へ移ろう。
耄碌した豊臣秀吉と小西行長の講和交渉の失敗によって長引いた朝鮮侵略への対応で、明朝の財政は破綻した。国内は党派抗争と反乱が激化し、その中で満州族が台頭する。1636年にホンタイジは満州、モンゴル、漢の民族の上に君臨する支配者として清を国号とし、明と対決した。
その後、なんやかんやあって皇帝が自殺し、明は滅びた。清朝がまずやったことは帝国全員ラーメンマン化だった。辮髪を強制された漢民族はあまりに辮髪が嫌だったために、仏門に入って坊主にする者が後を絶たなかったという。
チキンラーメンは日清発だが、ラーメンマンヘアーは清朝発だったのである。しかし、チキンラーメンが多くの人の命を救った一方で、辮髪令による混乱は多くの人の命を奪った。