5. 大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ ~ 年季奉公に出されたと思ったら奴隷にされていたんだが
大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。
(中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する。)
――豊臣秀吉『天正十五年六月十八日付覚』
日本は帝国主義を以て海外植民地を作った国の一つではあるが、同時に奴隷として海外まで人身売買された歴史も併せ持つ。(残念ですが、どこの国も同じようなものですよ)
しかし、日本国内の仲介商人や売買された本人が「年季奉公」という期限付き契約だと考えていたのに対して、日本人を買ったポルトガル商人はその意味を理解していなかったか、あるいはスルーした。イエズス会、そういうとこだぞ。
「大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨーロッパ」著:ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子
http://www.chuko.co.jp/zenshu/2017/04/004978.html
予備知識としてポルトガルによる大航海時代初期の海上交易事情を少々語らねばなるまい。
1494年、トルデシリャス条約の締結により、スペインとポルトガルの熾烈な競争と15世紀は幕を閉じたかに見えた。しかし1500年を迎えた途端、ポルトガルが主張して西側にずらした境界線ギリギリの地点で彼らはブラジルを「発見」する。ポルトガルが事前にブラジルの存在を知っていたのかは不明だ。何はともあれポルトガルはブラジルを獲得した。
同時期、ポルトガルはインド洋でイスラムと再開する。反目し合うインド人の争いにエジプトからのイスラム艦隊とポルトガル艦隊が加わり、代理戦争の様相を帯びた海戦でポルトガルはイスラムを打ち破った。その後、ポルトガルはインドの要衝ゴアを抑え、さらに独占体制を確実にするためマラッカ海峡を奪取、そして1557年にはマカオに到達する。
ここまではポルトガルにとっても計画通りだった。だが、この間、1543年に種子島へ鉄砲が伝来してしまう。ポルトガルと日本の邂逅であった。
西から東まで海上交易路を築いたポルトガル人は全世界で奴隷を買った。だが、奴隷の区別は適当で、中国人も朝鮮人もフィリピン人も、そして日本人もまとめて東インドの出身者、インディオ(男)/インディア(女)という括りで呼ばれた。
奴隷は確かに労役に就いたが、ポルトガル人は幼少の子供も買った。彼らは富と信仰のシンボルであり、慈悲深いキリスト教徒であるポルトガル人自らのステータスを示す存在だった。未開地の少年少女を周囲に侍らせて、実子のように教育し、洗礼まで施すのが香辛料貿易で儲けたイケてる商人のスタイルだったのである。
そういう幼年奴隷の中には日本人も含まれていた。10歳にも満たない日本人少女が洗礼を受けて改名し、マリア・ペレイラとして1570年代にポルトガルに渡ったことも記録されている。
1587年のバテレン追放令公布後も宣教師は長崎に住んでおり、日本人キリシタンもそこにいた。そこでは容易に年季奉公という形で人身売買が起こった。
長崎を経由した奴隷は日本人だけでなく中国人も含まれる。東アジア周辺では中国人や日本人の海賊、いわゆる倭寇が活動しており、人質や奴隷の売買が容易に結びついたのである。
こうして集められた奴隷は主にマカオへと輸送された。マカオには奴隷ではない日本人の商人や船長もおり、同時に既に異民族間の婚姻が進んでいた。ポルトガル人と奴隷から自由民となった日本人が結婚することもあった。
マカオは集荷と海運を行う湾港都市であり、多くの奴隷が輸送業に携わったと考えられる。しかし、奴隷と言っても後のプランテーションにおける無賃労働とは異なり、稼ぎの5割は本人の賃金として受け取ることができた。その稼ぎを貯めて自由を取り戻すこともできた。
また、敬虔なキリスト教徒として罪を精算すべく、ポルトガル人の主人は遺言の中で「私の死後、奴隷は自由の身とする」などと残すこともあった。そのような経緯で、主人の最期には恩給まで受け取って解放された日本人奴隷もいる。
一方で、騙し込められたり手違いだったりで奴隷になった日本人とは異なり、戦場で奴隷狩りにあった日本人は実戦経験を積んだ傭兵として働くことになった。しかし、こうした日本人はスペイン軍に協力し、遠征に繰り出したり、暴動を引き起こすなど、時に危険な存在にもなった。結果、マカオではいかなる日本人奴隷も帯刀禁止という命令が下された。
また、マカオでは傭兵としてアフリカ人奴隷も参加していた。彼らの多くは給与を受け取り、さらに自分のために日本人奴隷を買うこともあった。黒人奴隷の下にいる日本人奴隷という構図である。
だが、マカオの内政は長続きしなかった。日本人の多すぎる流入と貧困層の暴動を警戒した明が対策に乗り出すと、たちまち日本人は追放された。江戸幕府成立後はフィリピンのマニラが高山右近ら日本人キリシタンを引き受け、スペインの傭兵として利用した。
1607年、奴隷への虐待が激しすぎることを理由に、ポルトガルはゴアでの奴隷売買を禁止した。しかし、その後も奴隷への虐待や密売は続いた。1610年に日本人女性奴隷を虐待し、陰部に熱した鉄棒を押し当てて殺した主人の妻は、何の罪にも問われなかった。
ヒールがあればこんなことには……。