32. 中・近世ドイツ鉱山業と新大陸銀 (下) ~ その産出量で破産っておかしくない?
兄弟たちよ。さあ立て。火が燃えている間に、諸君の剣を冷やすな。鈍らせるな。
ニムローデの金敷でトッテンカンと剣を打て。奴らの塔を叩き潰せ。
奴らが生きている限り、諸君が人間への恐れから脱することは不可能だ。
奴らが諸君を支配している限り、諸君に神の話をすることはできない。
日のあるうちに、さあ立て。神が諸君の先頭に立って進まれる。続け、続け。
――蜂起したマンスフェルト鉱夫たちへの扇動文
シルバー三連休の鉱山業、後半戦。新大陸といえば銀山、銀山といえばポトシ。ポトシによって象徴されるのは、奴隷制度という負の世界遺産である。というのは既に分かっているので、もう少し別の観点から鉱山業を見ていきたい。
「中・近世ドイツ鉱山業と新大陸銀」著:瀬原義生
http://www.bunrikaku.com/book1/book1-779.html
コロンブスは西インド諸島に上陸した際、アメリカに宝が無いのではないかと不安になったが、杞憂だった。ヌエバ・グラナダ(今のコロンビア)は黄金郷と持て囃され、ポトシは年平均70万ペソの銀を稼ぎ出した。アメリカはまさしく金銀が唸る夢の大陸だったのである。
しかし、その労働事情はドイツとは全く異なる。ドイツ国内の鉱夫たちは支払いに不満があればストライキを起こすなど、自分たちの権利を主張する機会にも恵まれた。また、富は再配分されて裕福な都市民たちを生み出し、地域経済に貢献していた。
一方で、新大陸ではインディアンや黒人が奴隷として駆り出された。彼らによって採鉱と選別が行われたが、その過酷な労働によってヌエバ・グラナダのアンティオキアでは10万いたインディアンが500人にまで減った。富は支配者層にすべて収奪され、5分の1税がかけられてスペイン本国に輸送され続けた。
あまりに過酷な労働の実態を知らされ、当時のスペイン女王フアナすらも1532年にメキシコの司教に原住民を奴隷化しないように願い出ている。だが、フアナは狂女と呼ばれ、その政治的影響力は皆無だった。
コロンブスがアメリカで初めて金脈を発見したのはチバオだった。そこで水洗い選鉱を行い、サン・ドミンゴに到着する頃には金20万ペソを積んだ帆船をスペインへと送り出している。その後、エスパニョーラ島には王立水洗い選鉱所が2箇所設けられ、年30万、その後は45万ペソもの金粉末が集められた。1519年の総督の報告では、金の精錬額は10万4858ペソにもなったという。
ヴェネツィア在スペイン大使カスパーロ・コンタリーニの報告では1520年頃、新大陸から流入する金は年額50万ドゥカートに達したという。この数字から、1493~1520年の金流入総額は1万8000~2万キログラム、年700キログラムと推定されている。
1530年代に入ると、スペインのコンキスタドール、ピサロによるペルー・インカ帝国への略奪が始まる。インカ皇帝アタワルパの保釈金は金97万6133ペソ、銀4万9991マルク。首都クスコ襲撃で奪われた量をあわせると、その量は金6654キログラム、銀2万6000キログラム。想像を絶する金額の金銀がペルーには存在した。
インカ帝国の崩壊とともに、クスコの近くあったカルカスで、鉱山奴隷による採鉱が始まった。その後もペルー各地で銀山は発見され、17世紀から18世紀の間にパスコ、フアルガヨック、フアンタヤーヤといった銀山で総額6億7263万8900ペソもの銀が産出された。
こうした諸銀山に先駆けて、1545年にポトシが発見される。ポトシの頂点は1580年代で、年150万ペソ以上の産出額が1世紀ほど続き、18世紀初頭まである程度の水準を維持していた。
ポトシの開発以来、新大陸の銀の産出量はヨーロッパの4倍にも達した。銀の生産量は1601~1620年にはドイツで1万400、オーストリアで1万1000、その他ヨーロッパで8000、一方メキシコで8万1200、ペルーで10万3400、ポトシだけで20万5900に上る。
ただし上記の数値を推定した研究には批判もある。16世紀にボヘミア銀などの産出量は過小評価されており、ドイツやオーストリアでは5万近くの銀が産出されたともいわれる。また、ペルーの金銀の種類は区別されていない。北ペルー、中部ペルー(ポトシ)というように区別して、王室に収められた5分の1税から改めて推定すると、その額は半分程度にもなるという研究もある。
16世紀におけるポトシの産出量は破格であったが、ヨーロッパが壊滅的な打撃を受けるほどではなかったということである。しかし結局、スペインが衰退から逃れることはできなかった。
スペインは新大陸の貴金属の流出を抑えるため各種法整備を行ったが、逼迫した国家財政の前では焼け石に水だった。特に「アルカバラ」は最悪の消費税だった。普通、消費税は商品一品ごとにかけられるものだが、アルカバラは取引一回ごとにかけられた。卸でも小売りでも消費税が累積し、物価高騰を招き、さらなる輸入品の増大を招いた。また、銀の精錬法として水銀アマルガム法が取り入れられるようになると、ドイツからも水銀の輸入が増えた。
スペインは莫大な負債を抱えたまま、1567年にはアルバ公がネーデルラントに進軍。軍の傭兵費用が財政危機に拍車をかける。さらに、1581年には対トルコ、レパントの海戦で勝利できたものの、その無敵艦隊も1588年には壊滅する。
この頃のスペインは国内で穀物を供給しきれず、織物などの手工業も貧弱で、輸入に頼っていた。さらに、新大陸への移民たちによって日常品需要も高まり、輸入品が増額し続け、貴金属の流出を止めることができなくなっていた。
スペインの困窮に対して、ネーデルラントは経済的成功を謳歌した。ネーデルラントは織物をニュルンベルクを通じてバルセロナに輸出、ヴェネツィアも直接スペインに輸出し、これらの国は活況に沸いた。
そんな中で、日本の銀はどのような位置にあったのか。生野銀山から秀吉への運上銀は年2万キログラムにも及んだという。また、17世紀初期に石見銀山から家康に納められた運上銀は1万2000キログラムにもなった。同時代の佐渡相川銀山の産出額は年6~9万だと推定される。
17世紀初期には銀の輸出量は年20万キログラムにも達したとまでいわれる。それはつまり、ポトシすら凌ぐ量だったということである。日本の銀、多すぎ。そして、その銀を捌いていた長崎奉行や勘定奉行、やばすぎ。





