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31. 聖なる王権ブルボン家 (5) ~ ルイ16世、一人の王と一度の判決

1789年以前に生きたことのない人に、人生の甘美さはわからぬ。


――タレーラン

 ルイ16世。落日の王朝を任された、ブルボン家で最も不運な国王。戦争、不況、暴動、そして革命。国は乱れに乱れた。すべての負債を清算するために選ばれた道は悲劇だけだった。



「聖なる王権ブルボン家」著:長谷川輝夫

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195194


――未熟な王

 1774年、ルイ15世の孫ベリー公ルイはルイ16世として即位した。アンリ4世やルイ15世と同じく、ルイ16世も王太子たちの死によって継承順位が上がった末に王位を継承した国王だった。しかし、プロテスタントのリーダーを自負して戦ったアンリ4世や、幼い頃から優秀な家庭教師に育てられたルイ15世と異なり、ルイ16世が即位したのは19歳の頃。政治経験は無く、だが歩んできた人生は性格に現れていた。


 父である王太子は生前、兄のブルゴーニュ公にばかり愛情を注ぎ、国王としての資質を備えるように教育を施した。一方でルイ16世は疎んじられ、ブルゴーニュ公の死後はさらに冷たい目を向けられることになる。無学ではなかったが、ルイ15世も彼の政治教育に無関心で、ルイ16世を国務会議に出席させることもなかった。


 祖父や両親から期待されず愛されず、ルイ16世が自尊心が低く決断力を欠いた人物となってしまったのも無理はない。彼は国王の器ではなかったのである。しかも、即位後にはルイ15世が実施した高等法院の改革を撤回し、高等法院の抵抗を後押しすることになってしまう。


――アメリカ独立戦争

 1775年、早くも国外で戦争が勃発する。イギリスとアメリカ植民地が武力衝突し、1776年にはアメリカ大陸会議で独立宣言が決議される。アメリカ独立でイギリスを弱体化させるチャンスとみた外務卿の入れ知恵があったものの、ルイ16世は優柔不断な態度を見せた。財務総監から支出を抑えるように念を押されていたからである。


 そんな折り、フランスとの友好通商条約を結ぶため、フランクリンがフランスを訪れる。フランクリンの影響を受けた青年貴族たちはアメリカを支持し、義勇兵として新大陸に渡った。このような情勢を受けて、1778年、ルイ16世は友好通商条約と攻守同盟を締結し、独立戦争への参戦を決める。


 1779年までの作戦は失敗続きだったが、1780年からはフランス軍を盛り返し、インドでも奮戦する。1783年9月3日、パリ条約をもって終戦。アメリカ植民地は独立を承認された。この戦争でフランスが得たのは西インドのセント・ルーシアとトバゴ、アフリカのセネガル、それとインドのいくつかの商館のみ。10億リーヴルを注ぎ込んだ戦争の戦果としてはあまりにも乏しい。


 この時、さらに追い打ちをかけるように農作物の物価が低下。農業国であるフランス経済は停滞し、工業品の需要が減退、都市でも手工業の失業者があふれた。


――浮ついた王妃

 マリー・アントワネットというと、王室の儀礼や儀式を嫌って勝手気ままに暮らす浪費家だったと言われている。実際にオペラや賭け事に現を抜かし、内向的なルイ16世とは対照的だった。夫抜きでナイトライフを楽しみ、寵愛する女性に高価な贈り物をする。国民が王妃の私生活や同性愛の傾向を非難するのは当然であろう。


 また、母マリア=テレジアからはルイ16世を親オーストリアにするように言いつけられていた。王妃の目論見に対してルイ16世は中立的な態度を崩さなかった。しかし、世間は王妃の行動が国王の政治に影響を与えていると不満を募らせ、国王の威信はさらに低下する。


――課税の限界

 増税せずに財政を支えるため、フランスは借入金を増やし続けた。借入金の利息で歳入のほとんどが消え、財政はまさに火の車。しかし、不況に喘ぐ農民に対してこれ以上の増税には限界がある。そこで、1787年、財務総監カロンヌは新税制の改革案を発表する。それは、すべての土地に課される物納の新税増設、所得税の減額といった、特権身分への増税だった。


 しかし、国王の諮問機関として開かれた名士会は改革案を拒否。名士会のメンバーは貴族や聖職者といった特権身分の代表者であり、免税特権を手放すわけがない。結局、ルイ16世はカロンヌを罷免する。次に財務総監となったトゥールーズ大司教ブリエンヌだったが、彼も新税制の改革案を拒否される。


 名士会は新税の創設には全国三部会の開催が必要だと主張した。これ以上、名士会に聞いても無駄だとして、名士会を解散。代わりに高等法院に改革案を登記させようとする。しかし、高等法院も改革案を拒否し、全国三部会の開催を要求する。


 ルイ16世は強硬な姿勢を見せ、親臨法廷を開いて新税制を強制する。そして高等法院をトロワ市に追放した。しかし、世論が高等法院に同情的になると、ルイ16世は新税を撤回して高等法院を呼び戻してしまう。


 高等法院の抵抗は続き、ルイ16世はルイ15世の時代と同様に高等法院から権利を剥奪することを目論むが、失敗に終わる。1789年に全国三部会の開催を約束させられ、旧来の高等法院の復活にも同意する。


――憲法制定国民議会とバスティーユ襲撃

 第三身分、即ち平民たちの代表者にとって、課税で争う国王と高等法院は最早、信頼に足る存在ではなかった。貴族も聖職者も頼りにならない。そのように考える者たちが増え、貴族たちとの対決姿勢を強める。本来ならば、その調停役として威信を高めるのが国王に期待される役割なのだが、現実は甘くなかった。


 1789年、平民の要求に従って平民代表者を600人に倍増し、貴族300人、聖職者300人を含めた全国三部会の開催が決まる。5月5日、ついに全国三部会が始まった。だが、事態は急転する。


 6月17日、聖職者の代表者シェイエスに呼応して、平民の代表者たちが「議会」の宣言を行う。ルイ16世は議場を封鎖するが、代表者たちは6月20日にはヴェルサイユ宮殿内の球戯場に移動して、憲法制定まで解散しないと主張し、貴族と聖職者も合流するように求める(球戯場の誓い)。


 ルイ16世は身分別の討議を求めるが、平民の代表者たちがヴェルサイユ宮殿に侵入すると態度を軟化させ、貴族と聖職者の平民への合流を認めた。結果、7月9日に全国三部会は『憲法制定国民議会』へと変貌する。


 ルイ16世は武力をちらつかせて議会解散を迫りながら、7月11日に平民に迎合する財務総監ネッケルを更迭する。勿論、これらの対応は却って反発を招く。パリ市民に人気のあったネッケル更迭のニュースが流れると、民衆が蜂起。7月14日、専制の象徴だったバスティーユ要塞が襲撃を受け、パリ市長ら多数の犠牲者を出す事件となる。


――ルイ16世の苦悩

 暴動はパリだけでなく農村にも瞬く間に広がった。こうしたニュースを受け、国民議会は8月4日に封建制度の廃止を決議。教会の十分の一税、官職の売買、都市の特権もすべて廃止された。1790年には世襲貴族制廃止、1791年にはギルド廃止、1792年には領主地代の無償廃止も実行される。


 国民議会は大胆な決議を可決させたが、その裁可は国王に求めた。しかし、ルイ16世は従来の社会秩序を守るため裁可を遅延させる。そして、フランドル連隊をヴェルサイユ宮殿へと移動させる。反革命の陰謀が近づいていると、パリ市民は不安視する。この間、国民議会は国王一家とともにパリ市内のチュイルリー宮殿へと場所を移した。


 1789年11月2日、教会財産の国有化が決議される。さらに、聖職者を選挙で決め、国庫から聖職者への給料を捻出する聖職者市民法が可決される。ルイ16世はこの法律に署名すべきか迷うが、結局、署名する。だが、ローマ法王と聖職者本人たちが黙っているわけがない。大半の聖職者が革命に背を向ける結果となる。


 1791年6月21日、国王一家はパリから脱出を図る。東部の国境に近いモンメディを目指したが、失敗に終わる。この事件に対して、7月17日には国王夫妻を敵視する民衆が共和政を求めてシャン・ド・マルス広場で大規模な集会を開く。この時、国民衛兵が市民を襲撃した(シャン・ド・マルスの虐殺)。


――王権停止

 9月3日、国民議会は憲法制定作業を完了し、一旦、立憲君主制が樹立される。10月1日には制限選挙が実施され、立法議会が成立する。憲法制定国民議会の議員は再選されない決定だったので、立法議会は新人ばかりだった。


 議会には王権強化を図る右派の王党派、王権縮小を求める左派、共和政を求める極左、そして中道派がいた。国王には拒否権が認められていたため、立法議会と国王は対立することになる。だが、1792年に神聖ローマ帝国とプロイセンが対仏同盟を結ぶと、国王の提案に則って4月20日にオーストリアに宣戦布告する。


 しかし、拒否権を乱発し、物価高騰と経済危機に無頓着なルイ16世にパリ市民の不満が爆発する。7月にプロイセンが参戦すると、義勇兵たちがパリに集まった。彼らと国民衛兵は国内の敵の排除を目指し、チュイルリー宮殿を襲撃。スイス兵が戦闘に巻き込まれて犠牲となる。恐れをなした立法議会は8月11日に王権の停止を宣言した。


 王権の停止とともに国王一家はセーヌ河沿いのタンプル塔に幽閉された。


――国王裁判

 国王がいなくても革命の勢いは衰えを知らない。革命の急進化のためにつくられた「パリ・コミューン」が立法議会に圧力をかけ、亡命者へのさらなる過酷な法令を出させる。王権停止に伴って新たな憲法制定が決定し、9月20日には立法議会は解散し、翌日には国民公会が発足。


 1792年12月4日。元国王ルイ16世は国民公会の求めに応じてタンプル塔を後にする。憲法制定の前に元国王の処遇を決めるべく、国民公会は議論を開始する。


 この時、国民公会では自由主義を掲げ、アメリカ流の共和政を求めるジロンド派と、古代ローマ流の共和政を目指すモンタニャール派(ジャコバン派)が対立していた。ジロンド派はルイ16世に寛大だったが、モンタニャール派は厳しい対応を要求した。


――無条件死刑

 モンタニャール派のロベスピエールは裁判抜きにルイ16世を処刑することを望んだ。だが、議論はすぐには終わらない。


 1793年1月15日、国民公会は3つの票決を行った。

 1つ目は元国王は有罪か。これはほぼ全会一致で有罪。

 2つ目は国民の意見を訊くべきか。これは小差で否決。

 3つ目は刑の内容について。投票のやり直しもあり、17日8時まで24時間も議論は続いた。


 最終結果は、無条件死刑に賛成する者、361名。総投票者数721名に対して、わずか1票差で死刑が決定した。


 21日、家族に会うことを諦め、ルイ16世は静かに馬車に乗って革命広場へ向かう。広場に到着すると手を縛られ、髪を切られ、告解師に支えられながら断頭台へと上った。最上段に達すると、告解師と執行人の静止を振り切り、手すりの前まで進んで彼は叫んだ。


「余は無罪のまま死ぬ。余を死に至らしめた者たちを赦す。余の血がフランスの上に降り注がないように神に祈る」と。


――その後

 1793年10月16日、フランスへの裏切りと息子たちとの近親相姦の罪で、マリー・アントワネットも処刑された。後者は、あるいは前者も謂れなき罪だろう。その息子、ルイ17世は結核のため1795年6月8日に亡くなっている。


 ルイ16世は処刑されたが、王政は終わりではなかった。彼の弟たち、アルトワ伯とプロヴァンス伯は亡命に成功。フランス革命とナポレオンの帝政の後、王政復古でルイ18世、そしてシャルル10世として国王に即位した。


 また、現代でもブルボン家は正統な王家である。1700年のフェリペ5世の即位以後、今日のフェリペ6世まで、スペインのブルボン家は王位を保っている。

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