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31. 聖なる王権ブルボン家 (4) ~ ルイ15世、一人の王と一重の繁栄

我が亡き後に洪水よ来たれ。


――ポンパドゥール夫人

 ルイ15世というと、宮廷で何人もの愛人を侍らせる浮気者、政治には無関心で弱腰な国王というイメージが強い。だが、彼は国民の人気を失いながらも、できる限り国を豊かにした。ルイ15世は彼なりの方法で、フランスに繁栄をもたらしたのである。その治世で言及すべきことはあまりにも多い。



「聖なる王権ブルボン家」著:長谷川輝夫

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195194


――大繁栄の時代の始まり

 1715年、摂政会議について取り決めたルイ14世の遺言を、摂政会議の座長となったルイ14世の甥フィリップ・ドルレアンは早速破棄する。そして、5歳半のルイ15世を支えるべく、フィリップ・ドルレアンは摂政に就任する。いきなり勝手を始めた摂政は放蕩家で有名だったが、政治手腕は確かだった。


 摂政は外交では戦争を回避すべく、イギリスとの協調路線を取った。大同盟戦争以来、激しく衝突してきた両国関係を改善した理由は、ルイ15世の夭折時の継承問題を避けたかったからと考えられる。スペイン国王フェリペ5世は依然としてフランス国王の王位継承権を手放しておらず、スペインに対抗するためにはイギリスの協力が必要だったのである。


 関係改善でフランスとイギリスの文化交流が花開いた。『法の精神』のモンテスキューや、ジョン・ロックやニュートンをフランスに紹介したヴォルテールといった偉大な思想家は、間違いなくイギリスから影響を受けていた。


 また、摂政によってスコットランド人銀行家ジョン・ローが登用され、財政・経済改革にあたった。ジョン・ローの政策は財政赤字や農民の債務削減に一定の効果をあげる。インフレと好景気、植民地貿易の興隆により、フランスは繁栄を享受した。とはいえ、ジョン・ローによる管理通貨制度の実施はあまりにも先進的で、最終的にバブルの崩壊、そして革命を招くことになる。


――不釣り合いな結婚相手

 1721年、摂政会議はルイ15世の婚約相手としてスペイン王女マリア=アンナ・ビクトリアを選ぶ。当然、フランスとスペインの関係を改善する政略結婚である。しかし、ルイ15世は(当たり前だが)当時3歳の王女に無関心だった。結果、スペインを激怒させたものの、国務会議は婚約を解消する。


 続いて1725年、ルイ15世はマリ・レクザンスカヤと結婚する。彼女の父は元ポーランド国王スタニスラス・レクザンスキだったが、今は没落貴族に過ぎなかった。マリにとっては大変な玉の輿、ルイ15世にとっては世継ぎを産ませるという、それぞれの目的は達せられた。1727年から11年間の間に王妃は男子2人含めて10人の子供を産む。


 国民にとっては不満な結婚相手だったが、意外な面で国益に利する。1733年、ポーランド国王アウグスト2世が亡くなると、フランスは王妃の父スタニスラス・レクザンスキを復位させようとする。これに対抗したオーストリアとロシアに対して、スペインとサルディーニャを同盟に引き入れて宣戦布告。1735年、講和によって、フランスは王位継承権を破棄する代わりにロレーヌ公国とコルシカ島を手に入れる。


 王妃は持参金こそ持ってこなかったが、ロレーヌという重要な軍事拠点をもたらした。


――宰相アンドレ=エルキュール・ド・フルリー

 少年時代、幼くして両親と兄弟を失ったルイ15世は内気で情緒不安定な性格だったという。彼の家庭教師となったのが後の枢機卿フルリーだった。温厚で教養のあるフルリーの下で、質の高い教育が施された。ルイ15世は天文台を見学したり、化学実験に付き合うなど、理系分野を好んだという。


 1726年に摂政を廃止した16歳のルイ15世だったが、側近として73歳のフルリーを選ぶ。若いルイ15世にとってフルリーは最も信頼のおける人物だった。フルリーを追い落とそうとした貴族もいたが、控えめで敵の少ないフルリーの立場は揺るがなかった。


 フルリーは貨幣改革を行い、1ルイ金貨=24リーヴルと定め、貨幣価値の固定化を図った。流通の効率化のため、各地で道路整備を実施した。また、都市の治安を保証するために浮浪者を取り締まったり、各地の慣習法を統一させるなどの改革を実施した。


――オーストリア継承戦争

 しかし、フルリーの晩年、彼の影響力に陰りが見える頃、1740年にはオーストリア継承戦争が始まる。マリア=テレジアがオーストリアの領袖になることにフランスはあまり興味がなかったが、空位となった皇帝位にハプスブルク家ではなくバイエルン選帝侯を擁立する。この行動が結果的にフランスを戦争に巻き込むことになった。


 1743年にフルリーが亡くなると、イギリスとの関係も破綻する。フランスは植民地を開拓し、カナダ・ルイジアナ間のオハイオ峡谷まで占拠している。イギリスがこれに対抗しないわけがなかった。1748年に戦争は終結するものの、フランスは何も得られなかった。しかも、オーストリアはマリア=テレジアの夫カール6世の皇帝即位に成功している。


――人口増加

 フルリー亡き後、ルイ15世はいよいよ親政を始める。この時代、フランスの人口は漸進的に増加している。フランスの人口は1700年で2150万、1750年に2300万、1770年に2660万、1790年で2810万。90年で30%増加した。17世紀に上下していた人口が増加の一途を辿っているのである。


 この理由としては死亡率の低下が挙げられる。16世紀後半から19世紀中葉まで、ヨーロッパは小さな氷河期にあった。ヨーロッパ中が不作に喘いでいた中、18世紀には一時的に気候が温暖になる。このため農作物の凶作が減少し、食糧事情が改善した。また、道路整備のおかげで食糧の流通が容易にもなっていた。


 また、疫病の被害も大きく減っている。1720年のマルセイユでのペストの流行も患者の隔離措置などで最小限に抑えられ、その後、ペストは発生していない。そして何より、戦争の回避によって戦死者が減っている。戦闘があっても国外で行われており、国民の被害は少なくて済んだ。


――文化の振興

 フランスのエリート層の間では、自宅の客間を開放して詩の朗読や音楽会を開くことが流行する。いわゆるサロンの中でも、大貴族の夫人たちが中心となって開催するサロンが有名になった。また、議論の場としてカフェも流行り始める。


 地方の都市でもアカデミー・フランセーズを真似た小アカデミーが設立される。文芸協会や読書クラブも開かれ、出版印刷業が活発化した。18世紀初頭と比較して革命の時期には年間刊行点数はおよそ3倍、3000にも達した。流通網の発達で地方でも書籍が注文できるようになり、外国の書籍や発禁書まで手に入れられるようになった。


――ポンパドゥール夫人

 ルイ15世はあまりにも好色だった。ベッドを共にした女性は数知れず。それでも王妃はそれに耐えた。お人好しだったのかも知れない。一方でルイ15世は告解と聖体拝領の儀式を避けた。自分の罪を告白して不倫を止めることも、秘蹟を冒涜するわけにもいかない。彼はついに「病を治す儀式」すら放棄してしまう。フランス国王は聖性と権威を失ってしまったのである。


 そんなルイ15世の愛人として有名なポンパドゥール夫人ことジャンヌ・ポワソンは、上品なマナーと高い教養を持つ美貌の女性だった。彼女はパリの社交界で名を馳せ、ルイ15世も彼女の噂を聞きつける。ジャンヌの虜になったルイ15世だったが、貴族でもなく爵位の無い彼女を宮廷入りさせるのは難しい。


 そこで、ルイ15世はジャンヌに領地と爵位を授け、ポンパドゥール侯爵夫人と名乗らせる。そして、1745年、彼女を正式に宮廷で「披露」する。ポンパドゥール夫人はあまり情事に付き合わず、専ら他の女性を世話し、国王とは友人として付き合った。


 内気なルイ15世にとって、毎日、話相手になって退屈させない彼女はかけがいのない存在だった。しかし、やがてポンパドゥール夫人は政治にも口を出すようになっていく。


――暗殺未遂と外交革命

 1756年、フランスはイギリスに宣戦布告し、七年戦争が幕を開ける。ルイ15世にとって最後の戦争だった。ルイ15世は開戦と同時に高等法院のストライキを禁じ、大きな反発を招いた。国内外で情勢が緊迫する中で、1757年1月5日、ルイ15世がヴェルサイユ宮殿の庭園にいた時、事件が起こる。


 突然、王の前に飛び出してきた男がルイ15世の右脇腹をナイフで突いた。男は取り押さえられたが、ルイ15世は血を流したまま自室に歩いていき、死を恐れて司祭を呼ばせた。だが、幸い厚着をしていたおかげで軽傷だった。


 犯人は処刑されたものの、ポンパドゥール夫人の差し金により、責任を取る形で1757年に陸軍卿ダルジャンソン伯、海軍卿マショー=ダルヌヴィルが罷免される。有能な軍事大臣を失ったことは戦争に多大な影響を及ぼした。


 七年戦争でフランスは屈辱的敗北を喫することになる。ヨーロッパ随一の軍事大国に成長したプロイセンと海洋大国イギリスを相手にして、苦戦するのも無理はない。だが、そもそもプロイセンと敵対することになったのは外交政策が理由だった。


 フランスは従来、オーストリア・ハプスブルクに敵対してきた。だが、オーストリアからの同盟の提案に、ポンパドゥール夫人が同意する。ルイ15世は当初、この協定に渋っていたものの、イギリスとプロイセンが結んだという情報が入ると、フランスはルイ14世の時代のような孤立を恐れた。1756年、第一次ヴェルサイユ条約によってフランスとオーストリアの同盟は締結される。


 オーストリアがシュレージエンを奪回するまで、フランスは戦争を継続するという条件によって、フランスは無駄な敗戦を重ねることになる。植民地はイギリス軍に荒らされ、カナダのヌーヴェル・フランスでは1759年にケベック、1760年にモントリオールを失うことになる。


 1763年、パリ条約とフベルトゥスブルク条約によって戦争は終結した。フランスはイギリスに、カナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ、西インド諸島のセント・ヴィンセント、トバゴ、ドミニカ、グレナダ諸島、セネガル、ミノルカ島を割譲。代わりに西インドのマルチニック、グアドループ、セント・ルーシア諸島を奪還。スペインにはフロリダの補填としてミシシッピ以西のルイジアナを割譲。


 カナダ全域を失ったものの、辛うじて維持した植民地で貿易は続いた。また、国土を戦争に晒さずに済んだことで、工業水準はイギリスと同等に保たれた。


――王太子の結婚

 1764年にポンパドゥール夫人が亡くなると、彼女の庇護を受けていたショワズール公が外務卿兼陸軍卿となる。イギリスへの報復を望んだショワズール公は軍事力強化に取り組み、一定の効果をあげた。また、彼は従来厳しく規制されてきた穀物取引の自由化に踏み切った。


 さらに、ショワズール公は王太子とオーストリア皇女の結婚を成立させる。それこそがルイ16世とマリー・アントワネットだった。


――最後の改革

 ショワズール公が高等法院に迎合的だったことから、ルイ15世は彼を罷免する。1771年、大法官モプーに司法改革を指示。


 かつての摂政フィリップ・ドルレアンは高等法院に建白権を認めさせていた。これは高等法院が勅令や法令に意見する権利であり、ルイ14世の時代には剥奪されていた。ルイ15世の時代には建白権が復活し、高等法院が国王に対して反抗できる根拠となっていた。モプーは建白権を回避すべく、多くの改革を実施した。


 まず、パリ高等法院の司法官を追放し、司法官職の売官制度を廃止。さらに裁判を無償化。パリ高等法院の管区に新規の高等法院6つと控訴院にあたる上級評定院を設置。司法官職を私有財産、世襲化されていた状況を打破し、いつでも国王が司法官を罷免できるようにしたことで王権は強化された。

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