31. 聖なる王権ブルボン家 (3) ~ ルイ14世、一人の王と一つの国家
可能な限り、戦争を避けるよう。余の悪しき前例を真似てはならない。
しばしば余は、あまりにも軽々しく戦争を始め、虚栄心のゆえに戦争を長引かせた。余を真似てはならない。
平和を愛する国王となるよう。臣民の苦しみを和らげることに専念してほしい。
――ブルトゥーユ男爵『回想録』より。死の間際、ルイ14世からアンジュー公ルイ(ルイ15世)に向けて
ルイ14世。リシュリューとマザランが築いた中央集権体制を土台に絶対王政を敷いた、フランスを代表する国王。しかし、彼の治世は安泰だったのか? 彼は本当に『太陽王』だったのだろうか?
「聖なる王権ブルボン家」著:長谷川輝夫
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195194
申し訳ないが、最初にお断りしなくてはならない。ルイ14世の時代には2つの大規模な戦争があった。1つは三十年戦争。1つはスペイン継承戦争。これらの戦争をルイ14世と共に語るには文字数が足りない。従って、今回は参考文献のみ紹介し、別の機会にこれらの参考文献を解説したい。
「ドイツ三十年戦争」著:C.ヴェロニカ・ウェッジウッド
http://www.tousuishobou.com/kenkyusyo/4-88708-317-3.htm
三十年戦争に関する最大にして最高の参考文献。今ならヨドバシカメラで1万円。安いと思う。
「スペイン継承戦争―マールバラ公戦記とイギリス・ハノーヴァー朝誕生史」著:友清理士
http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-7791-1239-3.html
スペイン継承戦争に的を絞って、マールバラ公の戦いを描いた書籍。戦争の背景を知っているとベター。
では改めてルイ14世について解説する。
――ウェストファリア条約とピレネー条約
1643年、5歳にも満たないルイ14世は、父ルイ13世の死に伴って王位を継承した。ルイ13世は世継ぎを案じて、リシュリューに反感を抱いていた王妃アンヌが摂政となった後に暴走しないように、摂政会議において多数決で政策を決めるように遺言を残した。しかし、遺言はあっさり破棄される。
だが、意外にも摂政アンヌはリシュリューの路線を強化した。リシュリューの後継者マザランを摂政会議の座長に抜擢する。そして、摂政は祖国スペイン贔屓を止め、息子が統べるフランスの利益を優先した。フランスが優位の間は戦争を継続するように命じたのである。
国内でフロンドの乱を抱えながらも、摂政とマザランはこの反乱を上手く切り抜け、国際条約の締結に向けて準備を進めた。
後に大元帥となるテュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュの活躍でフランス軍は連勝した。そして1648年、ウェストファリア条約において神聖ローマ皇帝から多大な譲歩を引き出すことに成功する。アルザス地方の大半を勝ち取り、領邦の分立を認めさせたのである。
また、摂政とマザランはスペイン王女マリア=テレサとルイ14世を結婚させることで、スペインとの和平を図った。しかし、ルイ14世はマザランの姪マリ・コンチーニと恋に落ちる。自分の姪がフランス王妃になれるという誘惑を前にして、マザランは政治家としての立場を優先した。1659年、マザランは姪を宮廷から追い出し、ルイ14世の婚姻と和平を条件とするピレネー条約を締結させた。
――ジャン=バティスト・コルベール
1661年、マザランの死の翌日、ルイ14世は親政の開始を宣言する。最初に財務卿フーケの逮捕に踏み切った。これはコルベールの陰謀と考えられている。さらに、王太后アンヌを始めとする王族と大貴族の影響を避けるため、彼らを国務会議から締め出した。
ルイ14世はコルベールやルーヴォワなど宰相格の貴族を重用したが、決して一人に権力が集中しないようにした。コルベールは財務総監を務める傍ら、海事や建設にも携わり、広範な分野でルイ14世を支えていく。
コルベールはまず身分による免税特権から外れている間接税を増税した。しかし、ただ税を取るだけはすぐに頭打ちになる。金山銀山が国内にないフランスでは硬貨の量は限られている。そこで、輸出を強化して外貨を獲得することで国富を増やす、重商主義政策を開始する。贅沢品の輸入禁止や関税の増額、そしてインド会社の設立や国内産業への投資によってフランス経済は上向いていった。
また、コルベールは軍事力強化のため、くじ引きによる徴兵制度を創設した。この結果、兵数は平時の1662年に6万、1671年には12万、1681年には15万、戦時の1668年に23万、1674年に40万、1693年には60万にもなった。しかし、同時に戦死者も増え、スペイン継承戦争では10万人もの戦死者が出た。
――ヴェルサイユ宮殿
動員数は軍事だけに留まらない。1661年から造営が開始されたヴェルサイユ宮殿の完成には25年もの歳月を要した。1684年には2万2000人の人足と6000頭の馬が駆り出されたという。
まず、ヴェルサイユにあった狩り用の宿泊所を改築しながら庭園や花壇、オレンジ用温室が築かれた。1668年からは館を包むように増築が行われ、太陽神話をテーマにした泉水用の彫像もデザインされた。1678年からは政府機関をヴェルサイユに移管する決定がなされ、拡張と整備が進められた。
フランス王室は各地に宮殿を持ち、移動して統治するスタイルを取っていた。しかし、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿に籠もり、貴族や政府要人を集めることにした。ヴェルサイユ宮殿は訪問者に開かれており、誰でも豪華な内装を見学し、その威光を知ることになった。一方で、各地の国王広場にルイ14世自身の彫像を建てさせ、地方での国王のイメージ作りにも腐心した。
ヴェルサイユ宮殿に政府機能が集中することで、貴族たちは宮殿で散財することになり、地方で蓄財や軍備に励むことができなくなった。日本でいうと参勤交代に近い。宮殿の存在は貴族による反乱の兆候を摘み、国内の安定に寄与した。
――対外戦争
1667年、帰属戦争が勃発する。きっかけは王妃マリア=テレサの持参金がスペインから払われていないという理由だった。ルイ14世自身が戦争で指揮を取り、スペイン領ネーデルラントの諸都市を陥落させた。1668年のアーヘン条約で戦争は終結する。フランスは占領したフランシュ・コンテを返還する代わりに、ネーデルラントのいくつかの都市の併合に成功した。
1672年、ルイ14世は同盟関係にあったはずのオランダと開戦する。インド会社を持ち、同じく重商主義政策を取っていたオランダは経済的なライバルだった。また、宗教的にもカルヴァン派のオランダは反フランスキャンペーンを行っていた。
同時に、イギリスが財政援助を求め、代わりに軍事同盟を提案してきた。ルイ14世はイギリスの協力を得て、スペインをも戦争に巻き込んでオランダに宣戦布告する。圧倒的優位のフランスだったが、オランダの意図的に堤防を決壊させて進軍を阻止する防衛作戦、洪水線によって戦況が行き詰まってしまう。さらに、イギリスが裏切って勝手にオランダと単独講和を結ぶ。
イギリスの脱落で戦争が長引いたもののフランスの圧倒的優位は覆らず、海上でスペイン、オランダに勝利したフランスはどうにか1678年に和平を結んだ。しかし、相次ぐ増税で国民の不満は爆発寸前だった。
それでも戦争は続く。1685年、ファルツ選帝侯が亡くなると、ルイ14世は自分の弟の妃が選帝侯の妹にあたることから領土を要求した。この動きに対して、1686年に神聖ローマ帝国、スペイン、オランダ、スウェーデンなどが対仏同盟、アウグスブルク同盟を結成する。
1688年、皇帝がトルコと休戦する前がチャンスとばかりにフランスはファルツ選帝侯領に侵入。ネーデルラント、ライン河、アルザス、アルプス、ピレネー、北海、英仏海峡、地中海、挙げ句は植民地まで戦線が拡大。それでもヨーロッパ最大の陸軍を持つフランスは一歩も引かなかった。海軍もイギリスとオランダを合わせた艦隊に匹敵している。だが、戦況が膠着し、1697年、国内の厭戦気分に押されて、和平が結ばれた。
結局、フランスはファルツ選帝侯領を諦め、占領地を返還した。フランスは譲歩したが、病弱でいずれ亡くなるであろうスペイン王カルロス2世の継承問題で、他国を敵に回さないための計略とも言えよう。
――スペイン継承戦争
カルロス2世はルイ14世の孫アンジュー公にスペインの全領土を一括相続させる決心をする。ハプスブルク家の誰かに相続させれば、ハプスブルク家の強大化を恐れた他国の影響は免れない。他国に対抗しうるのはフランスしかいない。ブルボン家への相続は苦肉の策だった。
1701年、アンジュー公はフェリペ5世として即位。しかし、当然ながらアンジュー公はフランス王位継承権も持っている。スペインとフランスが同君連合となれば対抗できる国はなくなる。そこでイギリス、オランダ、神聖ローマ帝国がハーグ条約を結んで対仏同盟を結成する。
フランス側はスペイン、サヴォイア、バイエルンだけだった。しかも途中でサヴォイアが裏切り、同盟側にポルトガルも参戦する。オーストリアには名将プリンツ・オイゲン、イギリスは海軍増強。一方のフランスは国家財政の赤字に凶作。同盟側は強気の姿勢で皇帝ヨーゼフ1世の息子をカルロス3世として擁立し始める。
しかし、皇帝ヨーゼフ1世が突如亡くなると、カルロス3世が皇帝に即位。今度はカルロス3世がスペイン・オーストリア全土の君主になることを恐れた同盟側は和平を許諾。スペイン継承戦争は1713年、ユトレヒト平和条約が結ばれ、イギリスと皇帝に有利な条件が示された。
――死の呪い
対外戦争の苦戦に続き、ルイ14世を不幸が襲う。1711年、王太子ルイが死去。1712年、次の王太子になったブルゴーニュ公の妃が麻疹で他界。さらにブルゴーニュ公自身も麻疹で死去。ブルゴーニュ公の息子のうち兄も5歳で夭折。1714年、孫のベリー公も死去。
相次ぐ親類の死去でルイ14世は後継者問題に直面する。ルイ14世は愛人モンテスパン夫人との間にもうけた息子に継承権を与えた。また、幼いアンジュー公のため、摂政会議の座長として甥のフィリップ・ドルレアンを指名すると同時に、自分の幼少期と同じく多数決で政策を決めるように遺言に明記した。とはいえ、遺言の実行力はさして意味を成さなかったが。
1715年8月31日、「主よ、救い給え」。それが最期の言葉だったという。翌9月1日、太陽王ルイ14世は没した。





