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31. 聖なる王権ブルボン家 (2) ~ ルイ13世、一人の王と一人の枢機卿

私の第一の目標は国王の尊厳。第二は国家の盛大である。


――リシュリュー

 稀代の政治家リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシー。この優秀な枢機卿に支えられた凡庸な国王ルイ13世。彼の治世は親政というよりは親征ばかりで、常に周囲や戦争に振り回されていたようにも見える。果たしてその実態は……。



「聖なる王権ブルボン家」著:長谷川輝夫

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195194


――「こんなに早く国王になりたくなかったのに」

 父の暗殺により、わずか8歳半で王位を継承したルイ13世。彼は物事に熱中しやすく信心深い子供だった。あまり勉強は好まなかったが、狩りや武術に励み、毎日ミサに参列した。だが一方で、父と愛人の間に生まれた非嫡出子を嘲り、女児であれば妹たちすらも軽蔑していた。


 戦士としての国王、そして敬虔な国王として知られるルイ13世ではあったが、傲慢で嫉妬深い性格は成人しても変わらなかった。この性格は母の影響があったのかも知れない。アンリ4世の再婚相手マリ・ド・メディシスは、愛人に現を抜かす夫と不仲だった。彼女は嫉妬にかられたが、夫の存命中は従うしかなかった。しかし、今や摂政となったマリは、ルイ13世に対して冷淡で、愛情を注がなかった。


――全国三部会

 アンリ4世の従兄弟コンデ公アンリは不服だった。自分が外国にいるうちに、マリの摂政就任が決まってしまったのだから。自分が就くべき地位を狙い、彼は実際に兵を挙げて反乱を起こした。マリは事態を収拾しようとしたが、1614年には国庫が底をつく。金をばら撒いて解決することはもうできない。


 戦況が行き詰まったところで、コンデ公はアンリ4世の時代に開かれていなかった全国三部会の開催を要求した。マリも要求に従い、同年に全国三部会を開催することにした。全国三部会では聖職者、貴族、平民の各身分の間で利害が対立したものの、聖職者の代表者たちはマリへの支持を表明し、マリはなんとか面子を保った。


 この全国三部会で、聖職者の代表として出席したリシュリューは巧みな演説を披露した。その姿は演説を見たマリの目にもとまり、後にリシュリューはルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュの司祭として宮廷入りを果たすことになる。


――母子戦争

 1614年に成人宣言し、摂政が付かなくなったルイ13世だったが、権力は依然として王太后マリが握っていた。そして、王太后の背後には彼女の寵愛により元帥まで上り詰めたイタリア人貴族コンチーニの影があった。コンチーニは国務会議を牛耳り、大元帥の座まで狙っていた。そこで、ルイ13世はコンチーニを失脚させることに決める。


 コンチーニに反発する貴族を利用し、手際良くコンチーニを暗殺したルイ13世は王太后をルーヴル宮の居室に監禁し、親政を開始する。また、王太后の側近たちを更迭。国務卿となり、国務会議に出席していたリシュリューもアヴィニョンまで追放された。


 ルイ13世の側近として白羽の矢が立ったのはリュイヌ公だった。しかし、リュイヌ公は飼鳥園係の小貴族で、ルイ13世とは親しかったものの政治センスはゼロだった。今度はリュイヌ公に反発する貴族を味方につけた王太后が巻き返し、ルイ13世が窮地に陥る。


 ルイ13世と王太后の争いは1619~1620年の間に続いた。その中でルイ13世は、王太后への影響力を持つリシュリューを調停役として使うことにした。一方で、国務会議から締め出された王太后は自分の意向を反映させるため、リシュリューを当てにしていた。リシュリューの大出世は母子の仲違いによるものだったのである。


――ラ・ロシェル攻囲

 ルイ13世は王権の強化を狙い、強硬な姿勢を貫いた。父アンリ4世の故郷ベアルンでプロテスタントを武力で弾圧し、カトリックの礼拝を復活させた。教会財産もカトリックに返還され、プロテスタントたちの反感は強まった。


 ついに1625年からプロテスタント貴族のロアン公とスービーズ公を指導者として、港街ラ・ロシェルで反乱が始まった。この動きに呼応して、イギリスは援軍を送る。1627年、バッキンガム公率いる艦隊がラ・ロシェル沖合のレ島へ上陸した。


 ラ・ロシェルの防備が強固であったことから、国王軍は兵糧攻めを実行する。周囲に塹壕を掘り、港の海側を封鎖するための堤防を築くのに4ヶ月をかけ、街が干上がるのを待った。肝心のイギリス艦隊は救援に失敗し、街は餓死者が跡を絶たなかった。1年後、ラ・ロシェルが降伏した時には2万8000の住民が6000人にまで減っていた。ルイ13世はラ・ロシェルから特権を剥奪したが、すべての住民に恩赦を与えた。


――三十年戦争

 1630年に王太后が失脚すると、政治の主導権はリシュリューが握った。リシュリューはアンリ4世の政策を継承し、1618年から始まった三十年戦争への介入によってハプスブルク家の勢力を削ぐことを優先課題とした。


 手始めにリシュリューはスウェーデン王グスタフ2世アドルフに毎年100万ルーブルを提供することにした。北方の獅子と称されたグスタフ2世アドルフはドイツで勝利を重ねる。しかし、1632年、リュッツェンの戦いで命を落とす。さらに1634年、ネルトリンゲンの戦いでもスウェーデン軍はスペイン・皇帝連合軍に敗れた。


 ここに来てフランスはスペインに宣戦布告し、三十年戦争に直接介入を開始した。税制が改定され、戦費の調達が急務となった。間接税の徴収は徴税請負人と呼ばれる金融家(フィナンシェ)が担った。彼らは徴税の前に国王に資金を前貸しし、その後で徴税によって利益を得た。金融家(フィナンシェ)には聖職者や貴族が資金を出資しており、彼らの財産が王権を支えた。


 リシュリューの死後も戦争は続いたが、リシュリューの政策を継承したマザランによってフランスは戦争を切り抜けた。


――情報戦

 リシュリューは国王と自分たちの評判を高めるため、世論操作に心を砕いた。1631年、ルノドーに週刊誌「ガゼット」の独占発行権を与えて、政府の官報として利用した。ルイ13世自身も記事を投稿し、自らの軍事作戦について述べている。


 リシュリューは王権の御用作家を雇用し、彼らにルイ13世を賛美する内容の書籍を執筆させた。また、1635年には政府の許可なく書物を出版した者を死刑に処すという命令まで下す。さらに同年、「アカデミー・フランセーズ」を設立。リシュリューの腹心である会員たちはフランス語の統一を図りながら、国王の政策を擁護する御用学者として、高度に組織化された集団となった。


――王太子ルイ14世

 スペインから輿入れした王妃アンヌにとり、リシュリューは夫をスペインとの戦争に唆す憎き人物だった。自分の祖国との戦いに夫が駆り出される度、彼女は不安に襲われただろう。一方でルイ13世のほうは性的にプラトニックで、同性愛の傾向もあり、アンヌへの愛を示すことは殆どなかった。


 王妃はスペインやネーデルラントにいる家族との手紙を通じて、フランスの情報を漏洩させることもあった。この手紙は直ちにリシュリューの目に止まり、王妃は尋問を受けることになる。王妃は二度とこのようなことがないようにルイ13世に誓わされた。


 この仮面夫婦に果たして子供ができるのか。意外にも1638年、王妃ご懐妊の報が流れた。この男児こそが、後に太陽王となるルイ14世だった。

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