3. 年貢を納めていた人々 西洋近世農民の暮し ~ トイレの話
富は糞尿と同じく、それが蓄積されている時には悪臭を放ち、散布される時には土を肥やす。
――トルストイ
続いては近世の農民がどのような生活をしていたか探る。
今回、その中心となるのはドイツ南部の都市テュービンゲンおよびその付近の村々である。
「年貢を納めていた人々 西洋近世農民の暮し」著:坂井洲二
http://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-05069-5.html
本書では当時の神聖ローマ帝国の領邦国家であったヴュルテンベルク公国の一都市、テュービンゲンの資料に基づいて、当時の経済の担い手であった農民の暮らしを記載している。その中で著者は当時の日本との比較を行いながら、近世ドイツ独自の日常について分析している。
最初に描かれるのはトイレである。衛生に関して現代日本の右に出る国は無いとも言われるが、近世の衛生事情など推して知るべしと言ったところで、あまり詳しく知りたくないという人もいるかと思う。とはいえ、当時は肥料として糞尿は資源の一部であったし、トイレもまた無くては困る設備であった。
肥料として日本が主に人糞を利用していたのに対して、ドイツでは家畜の利用が盛んだったため厩肥がメインで、人糞はトイレで処理された。
トイレは家の2階部分から河などに張り出した小屋のようなものが残っている。河を利用した水洗式である。その他、日本と似たような汲み取り式のものもあったが、地下を大きく利用して何年分も糞尿を貯めて置けるようにしていた。
こうした人糞を盗もうという輩はドイツにも存在したが、近世のトイレは外から鍵をかけることができたので、侵入者を閉じ込めておくことも可能だった。憐れなり人糞泥棒。
まあ、これくらいでもうトイレと糞尿の話はいいだろう。よほどのスカトロ趣味でない限り、この手の話は小説の肥やしにもならないはずである。
農民たちの仕事である農業については、農地の利用や作物について描かれる。一口に年貢と言っても、その実情を知ることは難しい。しかし、19世紀まで農奴は存在し、テュービンゲン付近のネーレン村では人口の三分の一が隷属民であった。
当地ではドイツとしては珍しく葡萄の栽培が行われていた。ビールが流行りだすのはドイツ北部が最初で、それから16世紀になってから各地へと伝わり始める。その後、紅茶、そしてコーヒーが輸入されるようになると、ワインの需要は大きく下がってしまう。
年貢は収穫の4割にも上ったので、不作となれば農民は生活苦に喘いだ。ワインを作るため葡萄は重要な年貢の一部であったが、葡萄汁をしぼる設備を持つことができるのは領主の特権であり、その利用料もまた年貢として支払われていた。
作中には生活保護者から農民、職人、大学教授まであらゆる職業の人々の年収なども記されている。結局、葡萄園の農民たちはワインの需要の落ち込みにより、他の畑でも働く日雇い状態になってしまったようである。
さて、当時の農業は三圃式農業である。農地を三分割して、その中で冬穀用、夏穀用、休耕地を毎年ローテーションさせて育てるというものだった。近世になると、農業は既に合理的で組織的に行うものになっており、村単位で農地を管理することが徹底されたことが伺える。
イギリスやベルギーでは休耕地にカブを植えるなどの改良も見られるが(輪栽式農業)、まだドイツでは休耕地の利用は活発ではなかったということである。19世紀に入ってから、ようやくジャガイモとクローバーが導入されると、休耕地が活用され始め、公国の人口増加を支えた。
ところで、年貢が支払えない時はどうなったのか。その際は村の連帯責任となり、村が農家の年貢を肩代わりする形になったようである。それでも支払えない場合は軍が駐留するということにまでなった。こうした取り立ては常に厳しく、農民たちを疲弊させたのだった。
この他に衣食住、家族、教会の役割など都市および農村の日常がどのようなものだったのか、様々な記録に基づいて詳細な情報が記されている。一般的に見ると、テュービンゲンは大学都市であったこともあり、流通は盛んなほうだったが、同時にフランスとオーストリアの軍隊の通り道でもあったため、戦時には軍の駐留が当然のように起こった。
また、珍しい点としてはレストランの存在があげられる。近世のドイツ南部ではどこの村でも一軒以上のレストランが存在し、結婚式ではそこで食事をとることが習慣となっていたようである。
村や町が財産を築くことができれば、領主が持つ設備を購入することもできた。そうすれば、年貢は免除される。また、村民であれば養老院などに入ることができた。だからこそ、農民たちは共同体として村全体で権利を得ようと働いた。
彼ら個人の財産は微々たるものだったが、地域として見ると、彼らはその働きに応じた権利も持っていたのである。