31. 聖なる王権ブルボン家 (1) ~ アンリ・ド・ナヴァル、黄金時代の始祖
余が汝に触れる。神が汝を治す。
――病を治す国王の儀式
近世に黄金時代を迎えた国はいくつも存在する。スペイン、オランダ、ポーランド……同じく黄金時代を迎えた国の一つがフランスである。今回は黄金期フランスを治めた国王たちのドラマを紹介する。
「聖なる王権ブルボン家」著:長谷川輝夫
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本書では数多存在するフランス国王の中から、アンリ4世からルイ16世までブルボン家の国王5人を描く。彼らは一体どのような王だったのか。そして、どのようにフランスを大国へと成長させ、絶対王政を確立していったのか。
16世紀末から18世紀末。彼らの治世下では内戦やユグノーの反乱そして対外戦争が続き、一時は戦死者が10万人を数えるなど、血塗られた歴史が垣間見える。一方で、重商主義政策によって国富を増やし、綺羅びやかな宮廷文化に加えて、様々な王立アカデミーが設立するなど、経済的、文化的な発展も著しいものがあった。
近世を通じて軍事的、経済的、文化的あらゆる影響力を強めたフランス。その歴史は中央集権化と、その中心にいる国王とともにあった。本稿ではアンリ4世、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世、そしてルイ16世について述べる。
――ナヴァル王子
1553年、アンリ4世はフランスの南西、ピレネー山脈の北に位置する君侯国ベアルンで誕生した。ベアルンを治めていたダルブレ家は、ピレネー山脈のさらに南西にあるナヴァル(ナヴァラ)も治めていた。そのため、ダルブレ家の当主はナヴァル王と称した。
ダルブレ家と縁組したアンリの父アントワーヌ・ド・ブルボンはブルボン家の当主でもあった。ブルボン家は当時のフランス王家ヴァロワ家に近い筆頭親王家である。
もしもヴァロワ家が断絶すれば、王位を継承する権利も持ち合わせている。だが、ヴァロワ家には4人の男児、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世、アンジュー公フランソワがおり、さらに父親アントワーヌを含めれば、アンリの継承順位は6番目。誰も彼がフランス国王になるとは予想していなかった。
しかし、1559年、国王アンリ2世から王位を継いだフランソワ2世が1560年に早逝。そして、1574年にはシャルル9世、さらに1584年にアンジュー公フランソワが結核で死去。アンリ4世の最後のライバルは、ヴァロワ家最後の一人、アンリ3世となるのだった。
――ユグノー戦争
フランスはカルヴァン派のジュネーヴ(共和国)と国境を接する。このため、フランスにはカルヴァン派の影響を受ける貴族も出現し始めていた。その中にはアンリの両親もいた。しかし、1562年、第1次ユグノー戦争が勃発した時、アントワーヌは態度を一変させ、カトリックに改宗する。
アントワーヌはカトリック側で戦っていたものの、カルヴァン派についた弟コンデ公ルイに攻められ、戦死する。コンデ公ルイは国王シャルル9世を拘束しようと企むが、失敗する(モーの奇襲)。この事件を機に1567年、第2次ユグノー戦争が始まる。プロテスタントは一時、パリにも迫る勢いを見せたが、和平によって一旦は平和が回復する。
しかし、第2次ユグノー戦争の後、シャルル9世の母カトリーヌ・ド・メディシスは強硬な姿勢をとり、プロテスタントの活動を禁じさせた。これにより1568年、第3次ユグノー戦争が開始。アンリ4世もプロテスタント勢力に加わったが、1569年に叔父のコンデ公ルイが戦死。彼の代わりにアンリ4世はプロテスタントのリーダーとして担ぎ出されることになる。
第3次ユグノー戦争で国王から妥協を引き出し、プロテスタントは一時的に信仰を認められた。これを機に、カトリーヌ・ド・メディシスはアンリ4世と王妹マルグリットの政略結婚を目論んだ。誰もが望んだプロテスタントとカトリックの和解。
だが、1572年、婚礼の数日後、パリで陰謀と暴動が巻き起こる。婚礼のため集まっていたプロテスタントが虐殺されたのである(サン・バルテルミの大虐殺)。プロテスタント軍司令官コリニー提督によって父を殺されたギーズ公アンリが軍を率いて、コリニー提督と有力貴族を襲撃。親王であるアンリ4世と従兄弟コンデ公アンリは助命されたが、王宮に捕らえられた。
捕らえられたアンリ4世はコンデ公アンリとともにカトリックに強制的に改宗させられ、大虐殺のわずか2ヶ月後、第4次ユグノー戦争でかつての同胞と戦った。1574年には第5次ユグノー戦争が始まる。1576年、アンリ4世はなんとか王宮から脱出する。その後もユグノー戦争は続くが、アンリ4世は再び改宗し、ついにプロテスタントのリーダーとして活動できるようになった。
――三アンリの戦い
アンジュー公フランソワが死去すると、アンリ4世の即位が現実味を帯びてきた。しかし、強硬派カトリックであるギーズ公アンリはプロテスタントであるアンリ4世を妨害する。
1585年、ギーズ公アンリは北フランスで挙兵し、第8次ユグノー戦争の引き金を引く。アンリ3世はギーズ公と結託したものの、アンリ3世はギーズ公が集めた傭兵の費用を負うなど、大きな代償を払った。アンリ4世も対決姿勢を固め、イギリスやドイツから傭兵を集め始めた。
国王に不満を持つ穏健派カトリックもアンリ4世の味方につく。プロテスタントはクートラの戦いで勝利を収めるが、カトリックの優勢は揺るがない。だが、その優勢が決裂を生んだ。アンリ3世は和平を急いだが、ギーズ公は敵の殲滅を望んだ。パリ市民は弱腰の王を見限り、ギーズ公の凱旋を祝福した。
ギーズ公に王位を追われると考えたアンリ3世は、ついにギーズ公の暗殺を決心する。1588年、全国三部会の最中にギーズ公は殺害された。これにより、ギーズ公の親類やパリ市民はアンリ3世を国王と認めなくなった。アンリ3世打倒の声が高まる中で、1589年、アンリ3世はドミニコ修道会士ジャック・クレマンによって暗殺された。
――即位、そして再び改宗
当初、アンリ4世は国王と認められなかった。パリではアンリ4世の叔父ブルボン枢機卿がシャルル10世とされ、2人の王が並び立つことになった。アンリ4世はパリを包囲するが、カトリックのスペインから援軍があり、パリを攻め落とすことはできなかった。
そんな中でシャルル10世が死去。スペインが王位継承を狙うと、国内ではアンリ4世を国王に押す動きが出始めた。1590年、アンリ4世はカトリックからの支持を取り付けるべく、カトリックへ改宗した。ようやく正式に国王になったものの、スペインとの戦争は避けられなかった。
一方でアンリ4世はプロテスタントとの和解を望んだ。1598年、プロテスタントの信仰を認めたナントの勅令を発し、自らの運命を波乱の渦へと投げ込んだ内戦に終止符を打つ。だが、戦費を調達するために作った外国への負債や国家財政の立て直しなど、問題は山積していた。
アンリ4世は側近として世襲貴族に代わり、新出の法服貴族を選んだ。さらに大物貴族の野心を削ぐため、金を与えて国務会議から締め出す。司法官や財務官などの国王役人を厚遇しながら、官職に年あたりの税を設けて財政にも留意した。
――暗殺
1610年、「四輪馬車の中で死ぬと予言された」と側近に打ち明けていたアンリ4世は、最期の時を前に漠然とした不安に駆られていたようだ。それでも寵臣シュリー公と会談するため、アンリ4世は5月14日にルーブル宮から四輪馬車で出発する。
四輪馬車が他の馬車に行く手を阻まれ、道で立ち往生した瞬間、一人の男が国王の下へと駆け寄った。男は扉の窓から手を伸ばし、国王の心臓をナイフで突いた。アンリ4世はその場で息絶え、波乱に満ちた人生の幕を閉じた。暗殺の黒幕は定かではないが、暗殺者フランソワ・ラヴァイヤックは惨たらしく処刑された。





