30. 勘定奉行 荻原重秀の生涯 ― 新井白石が嫉妬した天才経済官僚 ~ 貧乏旗本次男の俺が財政チートで江戸幕府を立て直すまで
貨幣は国家が造る所、瓦礫を以てこれを代えるといえども、まさに行うべし。
今、鋳するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙鈔に勝る。これ遂行すべし。
――荻原重秀
勘定奉行、荻原重秀。かつての歴史教科書では、その経済政策によって米価の高騰を招き、市中を混乱させたとして批判されている。しかし、その実像は勘定奉行として辣腕を振るい、幕府の財政を建て直した立役者だった。
「勘定奉行 荻原重秀の生涯 ― 新井白石が嫉妬した天才経済官僚」著:村井淳志
https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0385-d/
検索したところ、なろうでは荻原重秀について誰も言及していない。恐らく私が最初。誰も目につけて来なかったので、今回は少し長め。
本書では1696~1712年に勘定奉行を務めた荻原重秀(1658-1713)の謎めいた生涯を追う。彼は日記や著作を一切残さなかったため、その来歴は主に幕府の記録や同時代の他者の日記からしか読み取れない。しかし、その実力は折り紙付きだった。
重秀は17歳で勘定所に召し上げられてから勘定方で働き続け、勘定方の最高責任者である勘定奉行にまで上り詰めた。その履歴の中で、太閤検地以来80年ぶりの検地(延宝検地)、佐渡金山の再開発、小判の改鋳(元禄銀の鋳造)、長崎貿易の改革、大地震や富士山噴火による天災への対応、幕臣の給与システムの見直しなど、幕府の財政に関わる事業を一手に担った。
重秀の最終的な知行は3700石。普通の旗本であり、同じく5代将軍・綱吉に仕えた側用人、柳沢吉保の160石→15万石や、間部詮房の250石→5万石に比べると地味である。しかし、順調に加増されていったという意味で、そのキャリアは将軍や老中の望む結果を出し続けて評価されたものだったといえる。
江戸時代には様々な改革があった。主な改革は享保、寛政、天保の改革だろう。しかし、これら以外にも田沼意次や新井白石などによって改革は断行されてきた。意次を除く改革が重農主義、緊縮路線だったのに対して、重秀の政策は海外貿易の促進、改鋳による投資刺激、市場の活性化を狙ったものだった。
享保の改革に先駆けて改鋳を行ったことは重秀による改革の中で最も重要なものである。
元禄八年(1695年)、勘定吟味役である重秀を責任者として、小判の吹き直し(改鋳)が開始された。元禄小判はこれまでの慶長小判に対して、金の含有量を32%減らして銀の含有量を増やしたものだった。出来上がった元禄小判は白みがかっていたので、表面だけ銀を除去してから流通された(小判を薬品に浸して焼き上げ、炭粉や塩で磨き上げる「色揚げ」によって色を変えた)。
重秀は金の含有量が違うのに、慶長小判と元禄小判を等価で扱うように触れを出した。これは金銀を本位貨幣とする複本位制の下では、根本的な価値の変更を意味する。
商人モノの代表的ラノベ「狼と香辛料」でも通貨の話はよく出てくる。通貨の流通量は少なく、信用の高い通貨が重用されている。改鋳のために銀を売るエピソードもあった。こうした貨幣経済の中で、通貨はどのような特徴を持つだろうか。
貴金属を通貨とする場合、その産出量によって通貨の流通量も制限される。金銀が産出され続ければ通貨の価値は下がるはずだが、経済が発達すれば貨幣が不足する。そうなればデフレが進み、高金利になり、投資不足と失業をもたらす。日常の支払いでは品質の高い金貨は用いられずに払底し、"悪貨が良貨を駆逐する"。
こうした状況を打破するには、素材価値と額面価値が乖離した名目貨幣を導入しなければならない。改鋳した悪貨を良貨と同じように扱うということは、額面価値との乖離を意味する。
金の含有量が少ない元禄小判は慶長小判より価値が低い。千両箱を蔵に隠していた江戸の商人にとっては堪ったものではない。自分の高価な金が、安価な銀に取り替えられてしまうのだから。だが、ただの紙切れである日本銀行券を使っている現代の我々からすれば問題ないようにも思える。紙幣の品質が落ちても気にする人はいない。
しかし、アメリカが金本位制から脱却したのは1971年のことだ。1971年以前の社会では通貨の価値は素材に依存していた。重秀は両方を等価に扱い、慶長小判を徐々に市場から回収するように指示した。日本は世界の国々より早く、名目通貨の導入に踏み切ったといえる。
貨幣の価値が減じるということは、急激なインフレを招く恐れもある。教科書でも元禄改鋳で米価が高騰したと言われていた。しかし、実際は異なる。元禄八年(1695年)から次の改鋳(1706年)までの11年間で米価は年率3%しか上昇していない。寛文十一(1671)から25年の平均価格から比べても年率2.7%の上昇でしかなかった。
米価が急騰したのは主に米の供給量の減少が原因と考えられる。冷夏により、1695~1696年の間に米価は高騰。また、1703年には元禄大地震があり、やはり米価は上がった。逆に豊作だった宝永元年(1704年)には米価は暴落したため、この後、宝永小判への改鋳が行われている。
改鋳によって幕府は500万両もの出目を稼ぎ出したといわれている。これは商人の蔵に眠っていた小判の交換によるものである。当時は税務署も無いわけで、誰がどれだけ稼いでいるか把握することは難しい。そこで、改鋳は間接的に課税として機能した。
交換せずとも慶長小判を退蔵していては購買力が減るだけだし、さらなる改鋳というリスクもある。こうなると商人はそれらを商品購入にあてるしかない。米穀・絹布・薬種などを買うことが望ましいとされ、在庫投資によって米以外の諸色も価格が上昇、市場が活性化する要因になった。
とはいえ、問題もあった。幕府は偽造対策の必要に迫られ、幾度となく取り調べを行うことになった。また、朝鮮は品位の低い小判の受け取りを拒否したため、貿易決済専用の小判を鋳造する必要もあった。改鋳の効果が出たのは日本が島国であり、為替レートが殆ど変動しない閉鎖経済圏だったことも理由として挙げられるだろう。迂闊な名目通貨導入は、インフレと世界大戦に繋がる危険があるので注意されたし。
そもそも改鋳の原因となったのは金銀の不足である。この時代、佐渡金山では産出量が減少していた。また、連合東インド会社や朝鮮、清との貿易によって海外への金銀の流出も深刻化していた。こうした問題を解決するため、重秀は佐渡で鉱山開発を行い、また長崎会所を設けて貿易事業の改革を行う。
元禄四年(1691年)、勘定吟味役と佐渡奉行を兼務した重秀は佐渡へと渡った。重秀は毎年公金を注入し、最終的に11万3000両もの資本が佐渡に投下された。莫大な資本は排水溝の掘削に使われた。個人の鉱山師では如何ともし難い問題を公共事業として解決し、水没していた鉱脈の発見に繋げたのである。
また、重秀は佐渡の収穫量にも着目した。鉱山の衰微で人口が減ったため、佐渡では生産される米に対して住民が少なくなっていた。余剰米が外部に売り出されるほどだったので、これを年貢として回収し、鉱山への投資にあてた。
勘定奉行に昇進してから、重秀は長崎貿易の改革に乗り出す。当時の日本は金銀産出量が多かったとはいえ、外国品の購入額もまた凄まじいものだった。銀座の鋳造量が年7000貫(2万6250kg)なのに対して、寛文元年(1661年)には3万1000貫(11万6250kg)もの銀が流出した。日本から輸出する製品は少なく、一方的に海外から購入するという歪な関係が、銀流出に拍車をかけた。
銀流出を抑えるため、幕府はいくつか政策を実行した。寛文四年(1664年)には金による決済も一部解禁された。貞享二年(1685年)にはさらに輸入総額を制限し、華人は銀6000貫、オランダ人は金5万両までしか取引できないと定めた。それでも積み戻し品の密貿易や輸入品の高騰もあり、政策はなかなか効果が出なかった。
そこで、重秀は銅に目をつけた。元禄三年(1690年)には伊予・別子銅山からの銅産出が増加し、輸出余力も出てきていた。銅を輸出すれば銀流出も輸入品の高騰も同時に防ぐことができる。幕府は銅決済を認めた「銅代物替貿易」により、銅決済に応じた商人からの運上金を得ることにした。商人は銅決済で莫大な利益をあげ、幕府も多額の運上金を得ることに成功したため、重秀は銅輸出を拡大することに決めた。
重秀は貿易を幕府直営とするべく長崎会所を設置、元禄十二年(1699年)には役料と経費以外はすべて幕府が収公する旨を発布した。この利益は6、7万両ほどである。また、大阪に銅座を設置し、銅の生産を管理下に置いた。長崎会所は幕末まで長崎貿易の中枢を担った。こうした管理体制は一商人では為しえない、政府だからこその施策であった。
この他にも様々な財政政策を実行し、幕府財政の救世主となった重秀だったが、ついに政敵が現れる。綱吉が亡くなり、家宣が将軍になると、幕閣の顔ぶれが変わった。柳沢吉保が隠居し、将軍のお抱え儒者である新井白石が頭角を現す。白石は改鋳を不正義として、重秀を激しく弾劾するようになった。
白石が改鋳を悪と考えた理由は、経済的な理論には基づいていない。人間の身体でいえば、一般の商品は髪や爪のようなもので替えがきくが、金銀は骨のようなもので失われれば取り返しがつかないと、白石は考えていた。これは家康が作り上げた幣制を守るべきという考えと、海外でも金銀は重用されているという事実から導き出したものだった。
白石の主張はともかく、家宣は有能な勘定奉行である重秀の罷免を受け入れなかった。しかし、白石は諦めず、親の仇のように重秀を罵り、幾度となく家宣に重秀の罷免を要求した。とんでもない粘着質である。結果的に、死の直前で体調が思わしくなかった家宣は、三回目の弾劾で重秀を罷免した。
解任の後、重秀は病死したと伝えられている。しかし、真実は不明である。彼は絶大な功績と、自身の謎を残して姿を消したのだった。





