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29. カラー版 図説 建築の歴史: 西洋・日本・近代 ~ 突撃! 隣の悪役令嬢の家

ここがあの女のハウスね…


――宮崎吐夢

 衣食住足りて礼節を知る言葉がある。衣は説明したので省略。食は多数の先人がいるのでこちらも省略。では皆さん、住、足りてますか? 今回は古今東西の歴史から現在絶賛売出中の戦国時代ハウスをご案内する。



「カラー版 図説 建築の歴史: 西洋・日本・近代」編:西田雅嗣、矢ヶ崎善太郎

http://book.gakugei-pub.co.jp/mokuroku/book/ISBN978-4-7615-3207-9.htm


 汚い貧民窟。素朴な民家。堅牢な城郭。荘厳な寺院。豪奢な邸宅。機能的な工場。清潔なオフィス。無機質なコロニー。物語の舞台となる建築について想像力を働かせて詳細を思い描くなら、やはり建築の歴史を知っておくと嬉しい。


 建築は主に建築の様式や技術に関する建築史、意図や文化に関する宗教・文化史、装飾や解釈に関する美術史という3つの観点から調べることができる。今回は基本的な建築史を見ていくが、本書では古代から戦後まで建築の歴史を分かりやすいカラー図説付きで概観することができる。



 日本家屋の「お座敷」の様式は室町時代に成立した。鎌倉時代初期には武将の屋敷は正殿と殿舎が廊や渡殿で連結された平安スタイルの寝殿造が基本だったが、次第にそれが崩れていく。


 公家が接客用の建物を分け始めると同時に、武将も屋敷で主君を饗すようになっていく。こうして接客空間と生活空間を分離するようになり、障子と襖を利用した間仕切りスタイルの書院造が主流となった。


 こうした様式の変化は3代将軍、足利義満の北山文化、8代将軍、義政の東山文化という二つの武家文化が中心となった。義満が建てた金閣の一層は寝殿造の住宅風に造られた。一方で義政の時代には能、蓮歌、生花、茶がブームになる。この頃から座敷飾として押板、棚、書院という様式を備えた書院造が芽生え始め、寝殿造は姿を消す。


 さらに時代が下り、戦国・江戸時代に入ると書院造の装飾は一挙に豪華になる。大河ドラマなどで、絵が描かれた屏風や襖、欄干に彫刻を備えた大広間のシーンを見慣れている方も多いと思うが、こうした室内装飾は権力者たちの御用絵師だった狩野派が担った。内装に拘る一方、外観はあまり発展しなかった。



 戦国・江戸時代に発展し、そのスタイルが開拓されたものと言えば茶室であろう。村田珠光(1423-1502)、武野紹鴎(1502-1555)は室町時代の格式高い茶の作法を変化させ、亭主と客が座を一つにする茶室の概念を生み出した。今も武野紹鴎による四畳半の図が残されている。こうした様式を完成させたのが千利休(1522-1591)だった。


 妙喜庵待庵は利休が関わった可能性があるという、現存する最古の草庵茶室である。


 待庵はわずか二畳の隅炉、一畳の長板付きの次の間、一畳の勝手がついた茶室である。壁には大きな寸莎(すさ)(塗壁材料に混入する繊維質のつなぎ材。壁のひび割れを防止する)を入れ、躙口(にじりぐち)正面に入隅と、天井を土壁で塗廻した室床と呼ばれる床がある。


 茶室の天井は空間の広がりを見せるため、いくつかの様式を組み合わせた複雑なものが多い。待庵では天井は三分割され、床前と点前座は棹縁天井、躙口上は掛込天井となっている。


挿絵(By みてみん)

図 妙喜庵待庵の平面図


 利休の弟子の一人である古田織部(1543-1615)は、二畳の隅炉に追加して相伴席を設けた三畳台の茶室を好んだ(藪内家茶室燕庵(えんなん))。また、織部の流れを受け継いだ小堀遠州(1579-1647)は利休のつくった草庵茶室を書院造に組み込んだ(大徳寺頭塔竜光院の蜜庵(みつたん)席、大徳寺頭塔孤篷庵(こほうあん)忘筌(ぼうせん)席)。こうして武家茶人は草案から書院造へと茶室を作り変えていった。



 近世の民家も中世から大きく変化した。畳を田の字に敷き詰めた四間取りの形式が一般化し、中世の三間取りから規模が大きくなった。また、中世では一間取りごとに上屋柱が建てられていたが、近世では差鴨居によって省かれるようになる。強固な軸組が造られ、耐久性が増したおかげで、近世の遺構は中世よりも多い。


 気候や風土に応じて、全国の民家は地域によって独自のスタイルを発展させた。東北では主屋から厩部分を突出させ、L字に曲げた曲屋、九州では主屋の棟と土間の棟を分割してL字型に組み合わせた分棟型など、地域によって平面形式は異なる。富山や岐阜では養蚕と防雪のため合掌造が一般化した。


 名主(みょうしゅ)階級の家は藩役人との応接間として床の間や付け書院を備えた書院座敷も見られる。しかし、贅沢な座敷は農民に分不相応な奢侈であるとして禁止された。


 京の町家については、揚見世や格子、虫籠窓を備え、軒を接して連なる町並みが造られた。防火のため瓦葺が推奨され、18世紀後半には桟瓦葺屋根が広まった。京町家の形式は全国に普及し、各地で洗練された町並みが生み出された。


 また、豪華な客座敷を備えた御茶屋屋敷の集まり、すなわち遊郭は全国各地に点在した。秀吉と家康の政策によって御茶屋は都市周辺部の一画に集められたが、京の島原、大阪の新町、江戸の吉原の他にも、公許遊郭だけでなく、多くの私娼遊郭(私娼窟)が栄えていた。

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