28. 大選帝侯軍医にして王室理髪師 ヨーハン・ディーツ親方自伝 ~ 放浪外科医の一代記
わたしも神の恩寵に救い出されなかったら、以下に述べる数知れぬ危険な目にあった時、どうなっていたか知れたものではない。だからこそ神を称えたいと思うのである。
――ヨーハン・ディーツ
17~18世紀のドイツにおける一般庶民の生活は如何なるものだったのか。一人の男の自伝がそれを生き生きと物語ってくれる。波乱万丈な人生は神に愛されたものなのか、それとも……。
「大選帝侯軍医にして王室理髪師 ヨーハン・ディーツ親方自伝」著:ヨーハン・ディーツ 編:エルンスト・コンゼンツィウス 訳:佐藤正樹
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002979145-00
ヨーハン・ディーツ(1665-1738)はライプツィヒの北西30kmの都市ハレで開業した理髪師兼外科医である。彼は70歳になってから、友人の勧めに従って自分の人生で起こった出来事を綴り始めた。そこには(勘違いや誤りもあるものの)歴史の中に埋もれた庶民の生活と人となり、そして子供たちへの訓戒が記されている。
本書を読めば、普段は触れる機会が無い、近世を生きた一般庶民の視点から歴史を知ることができるだろう。
ヨーハン・ディーツの父は網職人だった。彼はハレの飼料組合の親方、ビール検査官、市参事会員も務める名士だった。ディーツは14歳になる頃に網作りの手伝いをさせられたが、長続きしなかった。しかしある日、床屋仕事をしている夢を見て、自分の将来を決心する。
当時、弟子入りするには授業料が必要だった。親になんとか金を工面してもらい、ディーツは理髪師の親方を見つけて徒弟にしてもらう。そして、町をペストが襲った時にもなんとか生き延び、19歳で徒弟修業を修了して、各地を修業巡歴することになった。
ディーツは奉公先も決まらないうちにベルリンに行き、そこで理髪師の職人として組合に登録された。その後はシュパンダウ要塞で職をもらい、外科医として往診も行うようになる。だが、職人としてはまだまだ若手であり、奉公先を転々とする生活が続く。
ディーツは1686年、21歳で従軍すると大トルコ戦争に駆り出された。当時のベルリンを治めていたのはブランデンブルクの大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムだった。ディーツは神聖ローマ帝国軍を支援すべく編成されたブランデンブルク軍の軍医としてハンガリーへ出兵し、オーフェンの要塞を攻略する一部始終を目撃している。
輜重隊がいなかったため、ブランデンブルク軍は戦場までの行く先々で飢えに苦しんだ。ポーランドを通過する頃には途中の村の人々は逃げ出しており、食糧を探すことにも苦労して、病にも冒された。宿営する民家では度々カトリックの僧侶が現れ、このままではあの世に行くなどと脅かされている。
戦場では砲弾や銃弾が飛び交い、命の危険にも晒されたが、軍医だったため後方から前線を見ていることが多かったようである。
それでも戦場には違いがなく、砲籃(砲撃から身を守るために土を満たした籠状のもの)の影に隠れていると、危ないからといって砲術下士官に避難するように言われている。その後、彼がいた場所では将軍の近侍が銃撃を受けて戦死した。
戦場では現代の我々ではなかなか思い至らない戦術が取られていたようである。
大砲の砲弾は敵方が拾って撃ち返してくることがあったため、ブランデンブルク軍は回収され辛いように砲弾を熱してから撃った。歩兵たちがマスケットの銃身に大鎌を取り付け、接近した敵に振り回して戦うこともあった。塔に籠もっている敵がいれば粗朶や藁に火を放っていぶり殺そうとする者もいた。また、トルコ軍は大砲を奪取すると、点火口に大きな釘を打ち込んで使えなくするなどの処理も行っていた。
歩兵たちは砲弾や騎兵が倒した敵を見かけると戦利品を物色したが、死んだふりをしていた者がいきなり奇襲してきて、ディーツも危うく殺されかけたことがあった。また、赤痢にかかり死線を彷徨った。ハンガリーでは軍人であっても金を払わなければ介護すらしてもらえなかった。水一杯でも金が必要だった。
弱って死にかけたディーツは、たまたま通りがかった兵士の一人がキュウリのピクルスを食べていたのを見た。そして、最期にキュウリを食べたくなった彼は這って従軍商人の下へ行き、帽子いっぱいのキュウリを買い、貪り食った。その後、神の奇跡かキュウリのおかげか、ディーツは回復して戦場に復帰した。
オーフェンの占領時には、都市の中にいたトルコ人やタタール人が老若男女問わず殺される様を見て心を痛めている。町は放火され、トルコ軍が仕掛けた地雷の爆発によってモスクも崩壊した。
その最中、ディーツは隠れていたトルコ人の美しい娘二人を助け出した。彼女たちはベルリンに送られた後に洗礼を受け、錬金術師ベトガーに白磁器を作らせたザクセン選帝侯兼ポーランド王アウグスト二世の寵愛を受けることになった。
結局、派兵された8000人のうち帰ってこられたのは3000人だったという。
戦後、たまたま理髪した中将の口添えもあって兵役時の給金を早めにもらったディーツは再び旅に出る。そして、デンマーク王国軍の軍医としてホルシュタインで職を得た。しかし、給金が滞るようになると、暇乞いしてハンブルクに戻り、そこでオランダ人から捕鯨船の船医にならないかと誘われる。
その場の勢いで船医になったディーツは、(途中でまた病で死にかけながら)グリーンランド付近で捕鯨を見学する。捕獲された鯨はまず脂身をすべて切り取られ、肉と骨だけになる。鯨ひげは傘やコルセットに利用できたので高値で売れた。また、肉は腐熟させてシロクマを誘き寄せる餌にも利用した。
シロクマの毛皮もやはり高く売れたので、シロクマの首に投げ縄をかけて捕まえた。毛皮はおが屑と共に袋に入れ、柔らかくするために踏んづけていた。
船上の食事はやはり考えうる限り劣悪であった。樽の中の飲料水は悪臭が漂い、虫が湧いていた。乾パンは十分にあったものの、カビだらけであり、水に浸して柔らかくしないと食べられたものではなかった。毎週三度食べられたものは、水煮した挽き割り麦、エンドウ、レンズ豆、ボウダラ、牛肉の塩漬け、豚肉と羊肉、ベーコン、そしてたっぷりのバターだった。
船が風で大きく揺れるので、食事は大きなどんぶりに入れて誰か一人が持ち、皆で木のスプーンを使って食べた。ナイフなど使っていられる場所ではなかった。
これに加えて壊血病を予防するため、ディーツはすり下ろしたワサビダイコンを混ぜたワインをグラス二杯ほど飲んでいた。ディーツ以外の者たちは、北極点のすぐ近くにあるスピッツベルゲン島に着くまで長患いすることになったという。
白海の近くでトナカイ革ばかり着た住民とも密かに取引し、捕鯨船は帰路についた。しかし、旅は安全に終わらなかった。オランダと戦争中のフランス船が現れたのである。その船に乗っていたのは有名な海賊、ジャン・バルトだった。
金箔が貼られて光り輝くフランスのフリゲート艦には300~400人の乗組員がおり、大砲も30門程度あったようだ。逆風で海賊たちは近づいてこれなかったものの、砲撃によってミズンマストが倒れた。味方の鉄の大砲は敵に届かなかった。戦いは日中ずっと続けられたが、夜闇に紛れて捕鯨船は逃げることができた。
ディーツは2回目の航海に連れ出された際、今度は捕鯨船がいつの間にか北極点まで流されてしまった。辺りは氷が張り、船は動けなくなった。水夫たちは酔生夢死の状態で、食糧の配分が行われ始まると、この時ばかりは終わりかと思われた。しかし、祈りを捧げているうちに風が吹き始め、彼らはなんとか氷から抜け出すことができた。
その後、王室理髪師として親方になる道もまた苦難ばかりである。ディーツは理髪師組合の妨害を受けてなかなか開業できず、枢密顧問官の口添えを必要とした。また、結婚相手がとんでもない相手で、借金ばかりこさえる上、これは自分の家だからといって夫であるディーツから家賃まで取ろうとする(しかし、なんだかんだで子供はつくった)。
それでもディーツは神の計らいか天性の才能か、あるいは巧みな処方と医術のおかげか、最悪の事態を切り抜けた。その人生は小さな揉め事に悩まされ続ける毎日だったが、我々から見ると厚い敬神の念とそこからくる非常に興味深い言い回しに満ちている。
修業のため故郷を離れる際に家族に言った「知らない土地だって、神様は大勢の人をちゃんと養ってくださっているんだから、俺のことも心配してくださる」という言葉は、まさに彼の信仰心を如実に表わしているといえよう。