26. 興亡の世界史 東インド会社とアジアの海 (5) ~ 東インド会社の終焉、そして解散へ
あなたにイギリスのことわざを贈るわ。
四本足の馬でさえつまずく。強さも勝利も永遠じゃないわ。
――ダージリン(ガールズ&パンツァー)
興亡の世界史というのだから、「興」の面だけでなく「亡」の面も説明すべきであろう。政情不安は東インド会社を変質させ、危険な道へと導いていった。
「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」著:羽田正
http://coretocore.ioc.u-tokyo.ac.jp/publications/2017/11/post-20.html
――インドの政情不安
ムガル帝国の第6代皇帝アウラングゼーブが1707年に亡くなると、インドは政情不安に陥った。各地で反乱が起きると、危険を察知した東インド会社では安全のために軍事力強化が図られた。貿易が順調に行われるためには平和であることが望ましかったが、現地の危機的状況を乗り切るには軍事力に頼るしか無かった。
軍事力強化によって、なし崩し的に東インド会社は内戦に巻き込まれることになった。1740年にアルコットの太守を援助したことで、フランスインド会社の総督はムガル皇帝から太守としての地位を認められる。最早、一領主として軍を維持する他になかった。EICもこの流れに続く。
――オーストリア継承戦争とプラッシーの戦い
1740年からヨーロッパではオーストリア継承戦争が始まり、1744年からは英仏の戦いが始まった。本来であれば国と独立した組織であるはずの両国東インド会社も、現地で戦闘に突入する。1746年にフランスインド会社はEICのインド拠点マドラスを陥落させた。1748年の継承戦争終戦後にマドラスはイギリスに返還されたものの、現地の紛争は悪化し、代理戦争として東インド会社同士の戦いは続いた。
1756年、ベンガルで太守となったスィラージュ・アッダウラは東インド会社各社に反発し、EICのカルカッタ要塞を占領した。この動きに対して1757年、イギリスのロバート・クライブ率いる3000人の兵は、プラッシーでアッダウラの5万人の軍を打ち破った。この勝利は太守の叔父ミール・ジャーファルの調略に成功したためだった。
他国の東インド会社が撤退し、イギリス贔屓のジャーファルを新たな太守に置いたことで、EICはベンガルでの地位を確固たるものにした。EICは1760年にフランスインド会社をヴァンダヴァシュの戦いで破り、1761年にはフランスインド会社の拠点ポンディシェリを陥落させる。
戦争による政府の財政難は公的性格の強いフランスインド会社へ直接影響した。また、パリにイングランド銀行のような金融機関を持たないフランスでは運転資金が用意できなくなり、会社は業務停止に追い込まれた。こうして1769年、フランスインド会社の挑戦は幕を閉じた。
――EICの財務状況悪化とボストン茶会事件
ベンガルでは1770年には大飢饉が発生し、EICが期待した利益は上げられなかった。また、現地の手形に対して現金を用意する準備もなかったため、本国の銀行からの借り入れ金が膨らみ続けた。
しかし、EICの株主たちは配当金の増額を要求した。1771年には配当金が12.5%まで引き上げられ、EICの財務を圧迫した。また、アメリカでは高額なEICの茶がボイコットされ、オランダなどから密輸された茶が買われるようになっていた。EICはアメリカの在庫をイギリスに輸入税を払って再輸入せねばならず、負担が増加した。
そこで1773年、財務状況が悪化したEICを立て直すため、議会は一つの条例を可決する。EICが直接、植民地に茶を運んで独占的に販売する権利を認めた、この茶条例は大きな反発を招いた。同年、独立急進派の住民がボストンに停泊中の東インド会社の船を襲った。このボストン茶会事件によって、茶を始めとする総額1万8000ポンド以上の積荷が海に投げ込まれた。
こうした状況を政府が見過ごすことはなかった。1773年に規制法が可決され、会社の破綻時に政府が140万ポンドを貸し付けること、配当金を6%にすることなどが決定し、EICは政府の影響下に置かれることで一時的に危機を脱した。
――インド法と独占体制の終焉
EIC本体が財務悪化に喘ぎ、ベンガルでは飢餓が発生し、本国がアメリカとの関係で苦労しているにも関わらず、EICの社員たちは汚職などで私腹を肥やした。彼らはインド成金と呼ばれ、悠々自適の生活を送っていた。
EICの腐敗に政府のメスが入るのは必然だった。1784年に首相ウィリアム・ピットが主導してインド法が可決された。インド法によって、王が任命する「管理委員会」が東インド会社のインドでの業務を監督、指導、管理することになった。取締役の手紙は管理委員会が承認せねば発送できず、不当所得を防ぐためEIC社員による贈呈品は禁止された。
インド法の制定後もEICは30年ほどは独占体制を堅持した。しかし、アダム・スミスによって独占が批判され、自由貿易が求められ始めると、EIC自体が非難の的となった。EICは産業革命と自由貿易という流れに対して、時代遅れの存在になっていた。
1793年、インド貿易の一部が自由化され、1813年にはインドでの独占貿易が終了する。1833年には中国との独占貿易も終了し、EICの貿易会社としての営業は終了した。以後20年にわたり、EICは単なる現地の統治組織として運営されることとなる。
――英蘭戦争とオランダの失速
1780年、第四次英蘭戦争が始まると、オランダは壊滅的打撃を被った。VOCの船はイギリス海軍によって次々と拿捕され、持ち帰るはずだった積荷が本国に届かなくなった。アジアからの商品が奪われれば現金収入も得られない。現金が無ければ、次の船の艤装やアジア向けの商品を準備することもできず、商館で振り出された為替手形にも対応できない。
VOCの危機はオランダ海軍の弱体化と戦争での敗北だけではなかった。東南アジアの政情不安によってジャワ島で領土獲得に走ったものの、軍事費が拡大して赤字が増大した。また、インド洋では各地の紛争で商館を喪失することになった。バタヴィアでは衛生状態が悪化し、人的資源の減少が深刻化した。さらに、VOCは配当金に金を回し続け、本体の資本増強を行わなかったことも財務悪化に拍車をかけた。
完全な負のスパイラルに陥ったVOCの経営は急速に悪化した。1780年代始めには2500万ギルダーの負債を抱え、政府に緊急の財政援助を求めた。1795年には財政破綻を来たし、完全な国営企業とされた。
さらに、1795年にはフランス革命軍がオランダを占領した。ネーデルラント共和国政府は廃され、代わりにバタヴィア共和国政府が樹立される。1798年、VOCの海外領土や財産と負債はすべてバタヴィア共和国が引き継ぐことが決定した。1799年にはVOCそのものが廃止、解散された。





