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26. 興亡の世界史 東インド会社とアジアの海 (4) ~ フランスインド会社、宰相ジャン=バティスト・コルベールの挑戦

王国はアジア交易の利益を手にすべきです。イギリス人とオランダ人だけがそれを利用している現状を打破すべきです。


――ジャン=バティスト・コルベール

 リシュリューとマザラン、二人の枢機卿の下で三十年戦争を勝ち抜き、絶対王政を確固たるものにしたフランス。そのような強国が何故、東インドの貿易では出遅れてしまったのだろうか。そこには色々な事情があった。本当に。



「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」著:羽田正

http://coretocore.ioc.u-tokyo.ac.jp/publications/2017/11/post-20.html


――中世まで遡ってみる

 まず、フランスの情報を補足するため、下記の書籍からフランスの港の概略を見ていく。


「海港と文明 近世フランスの港町」著:深沢克己

https://www.yamakawa.co.jp/product/48220


 中世から近世までの期間でフランスの国境は大きく変貌した。百年戦争を終えたばかりの15世紀中葉には、ブルターニュ公国とプロヴァンス伯領はまだ併合されていなかった。しかも、ガレの港町はイギリスに占領されていた。この当時、フランスはどちらかと言えば大陸国家だった。


 だが、近世になると他国に侵攻したり隣国を併合したりしていき、結果としてフランスの海岸線は延長されていった。ダンケルクを獲得する17世紀後半には北海の足場を強化するに至る。近世のフランスはヨーロッパのあらゆる海域に支配力を及ぼせるほど、強大な海軍を有するほどに成長したのだった。


 つまり、フランスは近世を通じて、海洋国家としての性格も併せ持つことになったというのが実情なのである。一方で、東方の内陸に拡張した領土を防衛するために、海軍と同時に巨大な陸軍をも維持しなければならなかった。その思想は第二次世界大戦におけるマジノ線の構築まで尾を引くことになる。マジ卍。


 とどのつまり、大陸国家と海洋国家、どちらの政策を優先すべきかは政治家の手腕にかかっていた。


――17th 東方仏領土

 フランスの東方に広がる地域はヨーロッパの先進地域であり、フランスは常にその影響を受けた。北イタリアからオランダを結ぶ地域では宗教改革と対抗宗教改革によって印刷・出版業が隆盛する。その結果、これらの地域は書物流通の中心地となり、ヨーロッパ随一の識字率を誇った。また、為替市場、国際年市、銀行の分野でも抜きん出た経済地域として知られていた。


 フランスはこうした文化的・経済的地域である東方の領土獲得のために戦争を仕掛け、実際にいくつかの成果を上げることに成功した。一方で、海岸線における事業は散発的にしか実行されなかった。リシュリューは海軍の増強を図ったが、続くマザランの時代には海軍は捨て置かれ、フランス海軍は壊滅する。


――他国との比較

 イギリスの場合はロンドンが政治と経済の中心地であり、その影響は貿易にも直結した。商人の意向はすぐに政治に組み込まれ、東インド会社の設立が決定された。オランダでは各州が協力することで連合東インド会社が設立され、結果的にアムステルダムが政治と経済の中心地となった。


 一方でフランスのパリは内陸にあり、地方の港とは大きな隔たりがあった。パリの貴族や官僚は地方の商人と接点を持たず、お互いの立場に齟齬があり、パリと地方の対立を引き起こすこともあった。


 また、港町同士が離れていることも不和を生んだ。ナント、ボルドー、トゥロンなどの諸都市はマルセイユによるレヴァント貿易独占を非難した。サン=マロとナントはインド会社の特権委譲を巡って係争を起こし、ボルドーはバイヨンヌ、ロリアン、ダンケルクの自由港制度の廃止を要求した。政治的には争っていても、港町同士の距離が近く、国家の政策上は一致団結したオランダとは対照的である。


 パリの無関心と港町同士の争いを解決し、フランスの重商主義政策と貿易事業を推し進めるには、コルベールの登場を待たねばならなかった。


――コルベール登場

 オランダ、イギリスに遅れること1664年、ようやく東インド会社がフランスでも設立される。港町同士の争いにより、長距離の貿易に出資できるだけの資本が特定の港に蓄積されていなかったことが災いした。港町はお互いに協力して資本を集めることすらしなかった。


 コルベールの進言により、国家主導の貿易事業が開始された。イギリス東インド会社が商人主導の民間企業だったのに対して、フランス東インド会社は行政機関に近いものだった。資本金は王族や貴族、官僚たちが出資し、会社の運営は官僚である国務評定官が担った。


 インド会社はコルベールが亡くなるまで毎年、公金が注入され、ある程度安定した運営がなされた。南インドにポンディシェリ、ベンガルではシャンデルナゴルを確保することに成功する。オランダやイギリスの商館があるバンダレ・アッバースやスーラトにも商館が設置された。


 こうした難事業を可能にしたのは人材の影響もあった。元VOC社員で平戸の商館長だったフランソワ・カロンや、ポンディシェリを建設したフランソワ・マルタンらの努力により、ヨーロッパとアジアを結ぶ基礎が完成した。


 しかし、コルベールが亡くなるとルイ14世は戦争に注意を向ける。戦争によって公金が東インド会社に回されなくなると、東インド会社は経営難に陥った。


――ジョン・ローによる改革とフランスインド会社

 1719年からスコットランド人のジョン・ローによって東インド会社の改革が行われた。まず、それまで分離していた東インド会社と西洋会社を合併し、一つのインド会社にまとめたのである。新たに発足したインド会社の守備範囲は東インドと西インド(アメリカ)、それにアフリカまで及ぶことになる。


 フランスインド会社は東西インドとアフリカの貿易を一体化させようとした点で、他国の東インド会社とは大きく異なる。東インドで綿織物を仕入れ、それを対価にしてアフリカで奴隷を購入し、奴隷を西インドへと運び、プランテーションで生産した砂糖をヨーロッパに運ぶ。三角貿易を超えた世界貿易の構想があったのだ。


 しかし、このあまりにも壮大な計画は独占の失敗によって頓挫した。西インドへの航海は参入が容易であり、独占を維持することが困難だったためである。1731年には西インドとアフリカの貿易は自由化され、インド会社による独占は立ち消えとなった。


 一方で、会社の運営は改革を経てもなお王権の影響が大きかった。インド会社の株の半分が一般に開放され、大幅な増資が行われたたものの、王権を代表する役員たちが取締役を決定していた。また、財務総監が会社を監督する権利も持ち合わせていた。


――東方Project、ロリアン

 1720から、ブルターニュの南部にフランスインド会社専用の港が建設された。その名はロリアン。綴りはそのままずばりL'Orient(東方)である。ロリとは無関係である。


 ドーヴァー海峡沿いの港を拠点として使う場合には、イギリスとの戦争中に船が拿捕される恐れがあった。そこで、危険を回避すべく大西洋側に港を設けたのである。1720~1730年まで10年かけて、ただの草っ原に広大な施設と港町が誕生した。ロリアンには造船所、年市用の建物、商品用の倉庫、そして労働者のための住宅が整備された。


 パリは依然として経営の本部として機能したが、貿易の実務をロリアンに集中させたことで、効率的な事業が可能となった。ロリアンの発展に伴い、1740年代にはフランスインド会社は、VOCには及ばないもの、EICに接近するほどの商品取扱量を誇るまでになった。


――東インドの拠点、ポンディシェリ

 ポンディシェリは現在もフランス語が話されているくらい、フランスとの関係が深い。その要因となったのはフランスインド会社が拠点として利用したことである。


 ポンディシェリには総督府と高等評議会が置かれ、シャンデルナゴルやマエ、そしてモカ、バスラ、バンダレ・アッバース、ペグなどの商館を管轄することになった。総督と高等評議会は現地の貿易を統括し、現地政権との交渉や時には交戦、和平締結の権利を有していた。さらに、管轄下の都市における司法権やインド会社の人事権も持っていた。


 インド会社の社員数は1727年に68人、1747年に94人、1757年に170人ほどがいたが、半数以上がポンディシェリで勤務していた。さらに社員の下で働く書記や通訳など現地職員がおり、その総数は1000人をくだらなかった。

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