26. 興亡の世界史 東インド会社とアジアの海 (3) ~ East India Company、護国卿オリバー・クロムウェルの戦略
木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間にこまやかになってきたことは、かつて荒妙を着ていた我々にも、毛皮を被っていた西洋の人たちにも、一様であった。
――柳田国男『木綿以前の事』
実はオランダ東インド会社に先んじて、イギリスでは1601年には東インド会社が設立されている。しかし、その門出は順風満帆とは行かなかった。組織改革や熾烈な競争など、あらゆる障害を乗り越えて、イギリス東インド会社は成長していったのである。
「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」著:羽田正
http://coretocore.ioc.u-tokyo.ac.jp/publications/2017/11/post-20.html
――民間企業としての発足
イギリスの東インド会社、EICは国営企業ではなく、あくまでも民間企業だった。ロンドンの商人および組合に対して、彼らが貿易を独占する権利を、国王エリザベス一世が認可しただけに過ぎない。
オランダのVOCが大量の資本を10年間据え置いて運用していたのに対して、資本が少なかったEICでは運用方法が制限された。EICでは一回の航海ごとに資金を集め、艦隊が帰還したら株主に利益を分配するという当座的な運営が1613年まで続いた。
また、EICはポルトガルやオランダと異なり、武力による領土獲得を視野に入れていなかった。土地の購入は考慮していたが、それは有利に取引を行う手段に過ぎず、まずは利益を上げることを求めた。
――アンボイナ事件
当初、資金繰りに苦慮するEICはVOCに水をあけられ続けた。香辛料を積んだ商船がオランダに拿捕されたり、平戸の商館をわずか10年しか維持できなかったりと、失敗が続いた。そんな中で三十年戦争の発生は英蘭の競争に歯止めをかけた。英蘭は一旦、競争を止め、東インドにおける利益を共有する協定を推し進めることになった。
しかし、協定の締結直前になって事件が起こる。1623年、香辛料諸島の一つ、アンボイナ島で、現地の日本人傭兵を使ってイギリスがオランダの要塞を奪取する計画が明らかになった。バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは商館長らイギリス人10人、日本人9人、ポルトガル人1人を処刑し、アンボイナ島からイギリスを駆逐した。取り調べにおける拷問は四肢の切断など、酸鼻を極めた。
この計画はクーンによる陰謀という説もあるが、事件を契機としてEICは協定を断念した。そして危険な東南アジアから撤退し、バンテンやマカッサルで辛うじて貿易を続ける方針に切り替えた。
――クロムウェルの改組
VOCに対抗するため、EICは改組の必要に迫られた。改組を実行に移したのは共和国政府の護国卿オリバー・クロムウェルである。1661年にチャールズ二世によって承認されるクロムウェルの改組は1657年に始まった。EICは永続的な資本の保有を認められ、この時点でようやく株式会社になった。その他に東インドにおける司法権、貨幣鋳造権、軍事権、違法貿易船の検挙などが認められた。
EICでは選挙で取締役を選ぶことにした。取締役の選挙において、株主は出資額に応じた投票権が認められ、間接的に経営に参画する権利を持っていた。
イギリスが要塞を築いた拠点、マドラス、ボンベイ、カルカッタの三都市ではそれぞれ総督が置かれた。しかし、総督の権力はVOCのバタヴィア総督ほどは強力ではなく、主に取締役会が経営の責任を負った。
――海運業の分離
当初、EICはブラックウォールに自前の造船所を持ち、船を所有していた。しかし、1656年にすべての船を売却し、海運業者から船を借りることで航海を行うことにした。ただし、船の所有権は16または32の株に分割されており、会社の役員が船主として株を持つことも少なくなかった。
VOCは1602~1794年の間に1772隻の船を所有していた。また、フランスインド会社、デンマークとスウェーデンの東インド会社も船を購入、所有していた。これらの国とは対照的に、EICは海運業を分離して純粋な貿易企業として経営されていたといえる。
一方で、EICはインド洋ではボンベイに造船所を作り、アジア海域用に船を建造した。VOCは逆に現地では船を作らず、購入に頼っていた。
――マドラス、南インドの玄関口
インド産の綿織物貿易でポルトガルとオランダに先を越されたEICは、インドでの拠点を探していた。そこに、シュリーカーラハスティの領主ダーマルラ・ヴェンカタ・ナーヤカから1639年に次のような条件が出された。
(1)イギリスはチェンナイの好きな場所に要塞を建設できる。
(2)要塞の建設費用はヤーナカが出資し、建設後にイギリスが返還する。
(3)関税収入はヤーナカとイギリスで折半する。
(4)イギリスが輸出入する商品の関税は永久に免除される。
(5)イギリスは当地で貨幣鋳造の権利を持つ。
このとてつもない好条件にEICは即座に飛びついた。1640年から要塞が建設され、チェンナイはEICによってマドラスと改名された。要塞はイギリスの守護聖人の名前をとり、聖ジョージ要塞と名付けられた。
マドラスの町が形成されていく過程で、現地の言語や習慣に不慣れなEICの社員は、当初から現地人に頼ることが多かった。仲介人兼通訳としてドゥバーシュと呼ばれる現地人が雇用された。マドラスではいかなる宗教も禁じられておらず、宗教による障壁が低かったことはEICに有利に働いた。また、現地政権は税金さえ納めれば、EICの貿易にほとんど干渉してこなかった。
しかし、現地政権の不干渉は司法についても同じだった。現地人同士の殺人事件が発生した際、EICがヤーナカに判断を仰ぐと、ヤーナカはマドラス内で起きた事件は統治権を持つEICが裁くように命じた。こうした司法判断は会計業務に忙しいEICの社員にとって頭痛の種にもなった。このため、1665年には貿易と統治の業務を分割し、新たに総督職を設置、総督が統治を行うことになった。
その後も現地政権が次々と変わる中で、EICは交渉を通じて特権を維持した。オランダのように東アジアの拠点を持たないイギリスはインドに比重を置いたのである。マドラスはヨーロッパとインドを結ぶ要衝として、また、ダイヤモンドや綿織物の貿易によってイギリスの繁栄を支えた。
――そもそも何故、香辛料だったのか?
香辛料は当初、医薬品として利用されていた。古代からの伝統医学によれば、人間の身体は乾と湿、熱と寒の対立する二組の要素から成り立つとされていた。この四要素のバランスを保つことが健康に繋がる。飲食品も四要素を持つため、身体に足りない要素を食事で補うことができるというわけである。
この観点において、ほとんどの香辛料は乾と熱の性質を持つとされた。このため、寒の要素を持つ肉と相性が良く、消化を助けるものと考えられていた。香辛料は単なる味付けではなく、セレブ御用達の健康食品だったと考えれば、その流行は納得が行くといえる。
また、食べるだけでなく、香辛料は魔除けとしても用いられた。上流階級の人々はポウマンダーと呼ばれる銀製の小さな香辛料入れを持ち歩いていた。ポウマンダーを通じて各種香辛料の香りを楽しむと同時に、淀んだ空気に潜むという悪魔や病気を退けようとした。
こうした流行だけでなく、イギリスではパイやプディングに香辛料を混ぜるなど、他国と一線を画する独特の食文化が形成された。なお、イギリスにおける紅茶の流行については、現在のところ確たる説は無いようである。
――キャラコ論争
インド産の綿織物はキャラコ(キャリコ)と総称される。香辛料、茶と並んで、綿織物は重要商品として取引された。東南アジアでは既にキャラコの人気が高く、香辛料諸島で香辛料を手に入れる材料としてキャラコは利用され始めた。その後、1620年には5万点もの綿織物がイギリスに運び込まれた。
EICの主力は織物であり、1760年までの間に最低でも29.7%、最高で92%が織物の輸入額で占められている。1664年には27万点ものキャラコが輸入され、その輸入額は全体の73%を占めた。中国の絹織物がせいぜい1~3%だったのに対して、キャラコが圧倒的な輸入量を誇っていたことが分かる。
当初、輸入された綿織物はテーブルクロスやカーテン、壁掛けなどの内装用に用いられた。17世紀後半には衣服の生地にも利用され始める。1670年代には外出着や正装としても認められるようになった。
キャラコは他の商品と違って安価であり、市民の間でも人気を博した。また、キャラコはアメリカや西インド諸島に再輸出され、奴隷用の衣服として利用された。西アフリカにおける奴隷の購入にもキャラコが対価として用いられることもあった。
一方で、安価なキャラコはヨーロッパの地元織物と競合した。多数のパンフレットが印刷され、工業への打撃や海外への資本流出の危険を訴えた。すると、絹、毛、麻の織物職人たちはキャラコ輸入に対して抗議を始めた。抗議はエスカレートし、キャラコを売る店が襲撃されたり、キャラコを着た女性の服を引き裂いたりといった事件が起こった。
抗議に対して、1700年と1721年にはキャラコ禁止法が議会で可決された。しかし、1700年には染色したキャラコが禁止されたものの、白地キャラコは禁止されていなかったため、輸入してから染色する業者が盛況になった。1721年には使用禁止が謳われたものの、藍色一色のキャラコや混織は除外されたため、禁止法は有名無実化した。





