26. 興亡の世界史 東インド会社とアジアの海 (2) ~ 連合東インド会社、バタヴィア植民地のアジア本社
祖国の紳士方はあちらで最上とお考えの決定を下す。しかし、我々はこちらで我々自身の良識に基づいて判断を下すのだ。
――バタヴィア総督ファン・リーベーク
ポルトガルに続いて、オランダ、イギリス、フランスが相次いで東インド会社を設立し、アジアの貿易に参戦した。まずはVOC(連合東インド会社)、通称オランダ東インド会社について見てみよう。
「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」著:羽田正
http://coretocore.ioc.u-tokyo.ac.jp/publications/2017/11/post-20.html
――独占からの脱却
オランダが香辛料貿易に参戦した理由はいくつかある。
一つはイギリスの私掠船の活動。イギリスとポルトガル・スペインが戦争に入ると、イギリスの私掠船は香辛料を積んだポルトガル船を襲うようになる。これにより、ヨーロッパにおける香辛料価格は高騰した。
また、リスボンに運ばれた香辛料は王室と契約したカトリックの一部の商人たちのみが独占して販売した。勿論この中にプロテスタントのオランダは含まれていなかった。オランダは香辛料を手に入れることも販売することもできなかったのである。
そこでついに1595年、オランダは自前の艦隊をインドへと派遣する。ガマの時代から一世紀、ヨーロッパではアジアの情報が蓄積され、地図も作成されていた。オランダの艦隊は一定の成功を収め、ポルトガルによる楔から脱出したのであった。
――VOC誕生
以後、オランダでは東方貿易がブームとなり、多くの会社が設立された。しかし、季節風の影響で同じ時期に艦隊が行き来するため、目的を同じくする会社の乱立は仕入れ価格の高騰と売値の低下を招いた。
そこでオランダの各都市は自国内での競争を止めるため、各地の会社を一つにまとめることにした。1602年、VOCが誕生する。アムステルダム、デルフト、ホールン、ロッテルダム、エンクホイゼン、ミッデルブルクを拠点とする6社が合併し、巨大資本組織が生まれたのだ。
VOCは共和国政府からまず21年間有効な特許状を与えられた。そこには要塞の建設、総督の任命、兵士の雇用、現地の支配者との条約締結を行う、強力な権利が含まれていた。VOCは単なる株式会社ではなかった。現地でのあらゆる権利を有する準国家と呼ぶべき性格を備えていた。
とはいえ、会社は公的な性格も有している。政府が資金を必要とすれば、特許状の更新に金を払うこともあった。また、政府が軍艦を必要とすれば、VOCから船を徴発することもあった。
一回目のVOCの艦隊は1603年に出港した。提督は貿易を取り仕切るだけでなく、ポルトガルの拠点を攻撃するように命令されていた。彼らの目的はイギリス東インド会社とは異なり、初めからポルトガルの追い落としが狙いだった。
――バタヴィア設立
オランダはポルトガルの砦を奪い、イギリス東インド会社を追い払い、着々と拠点を築いた。しかし、現地の勢力とは調整を図る必要に迫られた。そこで、慎重に協議した結果、ジャカルタを拠点とすることに決定した。新たに要塞が築かれた町はバタヴィアと名付けられた。
1620年の段階でバタヴィアには873名が住み、そのうち71名が日本人だった。彼らの多くは平戸の商館から渡蘭した傭兵だった。オランダは自国の兵士とこうした傭兵を頼り、ポルトガルにも勝る残虐な武力行使を行った。
オランダは東南アジアの島々を次々と襲った。イギリスの拠点だったルン島では800人近い島民が奴隷としてバタヴィアに送られた。抵抗した者たちは当然の如く処刑された。1621年にはバタヴィア総督自らがナツメグの生産地バンダ島に上陸し、無差別に殺戮を行った。そして、奴隷によるナツメグ生産を開始している。
バタヴィアは当初から軍事上でも交易上でも大きな比重を占めていた。バタヴィアに置かれたインド評議会と本国の連絡には1年半もの時間を要するため、現地での素早い判断が重視された。インド評議会は出張所というよりもアジア本社といえる立場だったのである。
――香辛料独占とアジア全域での活動
VOCによる武力支配は続く。1669年、クローブ買い付けの商人が集まるマカッサルを激しい戦闘により支配。1641年にはポルトガルの拠点だったマラッカも占拠。こうしてオランダは他国を香辛料の生産地から完全に排除した。また、香辛料以外の木を伐採し、それ以外の生産を行えないようにするなどの政策も実行した。
ただし、オランダが排除したのはヨーロッパ各国のヨーロッパ向けの船のみで、中国や地元の商人、私貿易を行うポルトガルなどは排除されなかった。
香辛料の独占と平行して、VOCは各地に商館を構えた。17世紀前半にはモカ、バンダレ・アッバース、グジャラートのスーラト、17世紀半ばにはポルトガルからコーチンを奪取、セイロン島からポルトガル人を追放、マスリパトナム、プリカット、アユタヤにも商館を置いた。
そして日本でも平戸、長崎、さらに台湾にも商館を設置。VOCはアジアの全域で事業を行うことができるようにしたのだった。
――日本の政策とVOC
豊臣秀吉が指示した朝鮮侵攻は明帝国との関係に重大な変更をもたらした。明は成立当初から朝貢に基づく貿易しか許さず、国内における民間の商人の活動を制限する、海禁政策を施行した。日本を含む周辺各国はこれに従っていた。しかし、豊臣秀吉は日本での明との朝貢関係を破棄し、明の海上支配へ挑戦したのだった。
一方で、中国国内では軍隊を維持するため、税収として銀での支払いを必要としていた。国内で銀が不足すると、明は日本からの銀を求めるようになる。ちょうど日本では石見銀山が発見され、銀の産出が飛躍的に伸びていた。しかし、朝貢貿易が破棄された結果、日本と明の貿易はポルトガルを仲介するか、密貿易でしか成立しなかった。
そこで、徳川幕府は朱印状を用いた朱印船貿易を開始する。国籍を問わず、長崎を出港する船の安全と貿易の保障を東南アジア諸国に求め、貿易の安定化を図った。
このような事情はオランダも同様だった。マカオの攻撃に失敗したため、オランダは台湾に拠点を置くしかなかった。オランダの武力行使は日本や明には通用せず、大人しく現地政権に従うことになったのである。それでも、日本との貿易には軍事的目的があった。平戸は軍事拠点として、マカオと長崎を結ぶポルトガル商船を襲うのに絶好の位置だったのである。
1637年にはVOCの利益のうち、平戸での利益は7割にも及んだ。利益のため、VOCは幕府の要求を受け入れることが多かった。長崎の出島に移動することになった際もそれに従っている。
日本に輸入された商品の中にはインド産の綿織物もあった。オランダと明が運ぶ綿織物は特徴的な縦縞が織り込まれており、江戸では唐桟、上方では奥嶋と呼ばれた。特に人気だったのはマドラスの南にあるサントメで織られた桟留縞だったという。
――移動する人々
VOCの船でヨーロッパからインドに渡った人の数は97万5700人。アジアからヨーロッパに向かったのは36万7000人に上る。ここには捕虜となった人や奴隷は含まれていないので、さらに多くの人数がいると考えられる。しかし、アジアに向かう人々の多くは船上で命を落とした。壊血病や脚気が船員を襲った。バタヴィアではマラリアが猛威を振るった。
船乗りは3年、その他の人々は5年の契約でVOCに雇用された。船乗りから現地の商人へと転身することも多かったが、上手く総督にまで上り詰める人も存在した。アジアでは人の死亡率が高く、重要なポストが空席になることも多かったので、出世の道も開かれていた。
しかし、社員の雇用は詐欺まがいのブローカーによる契約が横行した。「魂売り」と呼ばれたブローカーたちは居酒屋や娼館で対象者を遊ばせて借金を作らせ、その返済のために船乗りになるように仕向けた。また、VOCの歴史には100人以上の女性が兵士や船乗りとして働いていたとされる。人材の不足が慢性化するオランダでは女性の手も必要とされたのである。
――オランダの茶会
茶がヨーロッパにもたらされた時期は不明である。最古の記録としては、1610年に平戸からオランダが茶を持ち帰ったとされる。しかし、茶は当初、あまり人気のある商品ではなかった。茶が健康に良いか悪いか議論の的となったが、輸入はさほど伸びなかった。
しかし、18世紀に入ると茶は重要な商品へと成長する。輸入総額のうち茶が占める割合は、1711~1713年には2%、1730~1732年には18.8%、1771~1773年には24.2%、1789~1790年には54.4%となる。これは同時期のコーヒーの輸入額が1771~1773年に7.55%だったのとは対照的である。オランダでもイギリスと同じく茶を飲むことが習慣化したのだと考えられる。
喫茶はまず上流階級の間で広まった。女性は茶会を開き、女性同士の社交場として利用した。茶は淹れてもらった茶をズルズルと音を立てて飲むのがマナーだったらしい。これは当然ながら日本の茶の湯の作法を真似たものである。