26. 興亡の世界史 東インド会社とアジアの海 (1) ~ エスタード・ダ・インディア、ポルトガル海上帝国
これでヴェネツィア人は東方貿易をやめて漁師をやらねばならなくなるだろう。
――とあるフィレンツェ商人
海を渡って世界を変える。これほどロマン溢れるテーマはあるまい。歴史においてグローバリゼーションを担ったのはヨーロッパの巨大資本組織――東インド会社だった。
「興亡の世界史 東インド会社とアジアの海」著:羽田正
http://coretocore.ioc.u-tokyo.ac.jp/publications/2017/11/post-20.html
本書は興亡の世界史シリーズの一冊である。各国の東インド会社と、インドから日本までの広大な海と国々が、どのように世界史を紡いでいったのかを解説する。興亡の世界史シリーズは地図などの図表が多く、しかも巻末には年表、人名と地域名の索引、主要人物の略伝、参考文献がリストアップされている。非常に明快で使い勝手の良いシリーズである。
本稿では本書から(1)ポルトガル海上帝国、(2)オランダ東インド会社、(3)イギリス東インド会社、(4)フランスインド会社、(5)東インド会社の終焉 について述べる。
――モザンビーク・ヒア!
1497年、ポルトガル王マヌエル一世の命により、ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊はリズボンを出港した。彼らは喜望峰を越え、1498年にモザンビークへと達する。1492年にレコンキスタを成功させ、イスラム教徒を排除したポルトガルは、この頃まさに勢いに乗っていた。しかし、その勢いは熱狂的な信仰によって支えられていた。
モザンビーク、モンバサ、マリンディに立ち寄った艦隊はイスラム教徒たちを恫喝し、銃を発砲し、攻撃的な手段を繰り返し用いた。港を訪れた船は使用料を支払うといった習慣も無視して、艦隊は急いで補給を済ませて東へと向かった。アフリカ大陸でイスラム教徒に囲まれてきた彼らが海外で初めてキリスト教徒に出会ったのはインド洋だった。味方と呼べるキリスト教徒から情報を仕入れた艦隊は、インドへと向かう。
――インド洋の国々
当時のインド洋には多くの港町があった。マラッカ、カリカット、カンベイ、ホルムズ、アデン、キルワなどである。インド洋海域は東アジアから東アフリカまでの中継地であり、各地の港町では数多くの商船が行き交っていた。インドの多くの港町は内陸の政治権力と異なる政府を持ち、貿易国として独立していた。
インド内陸にはヴィジャヤナガル王国が14世紀から17世紀半ばまで存在していたが、その支配は港町の国には及んでいなかった。港町では異なる宗派の人々がお互いに商習慣を守って、比較的平和に商売に励んでいた。
――ヴァスコ・ダ・ガマとカリカットの悪夢
カリカットに到着したヴァスコ・ダ・ガマは尊大な態度でカリカット王への謁見を要求した。ポルトガル王国の大使なのだから当然だという理屈だった。ガマに謁見を許したカリカット王は、他の外国人と同じように、積荷を売れるだけ売るようにポルトガル人に命じた。関税こそが港町の命脈を繋ぐ税収だからである。
ポルトガル人たちの積荷は織物、錫、鎖などだったが、安価でしか売れなかった。それでも現地の物価は安く、胡椒、クローブ、シナモンなどの香辛料を手に入れるには十分だった。ガマによる真のインドの発見と高級香辛料の情報はたちまちヨーロッパを席巻した。しかし、ガマに続いてカブラルがインドに向かったものの、カリカットを攻撃して反発を招いた上に七隻の船を失うという散々な結果に終わった。
ガマは失敗を恐れるポルトガル王を説得し、自らも出資して再びインドへ向かった。今回のガマはインド洋の各地の王を脅し、強行に貿易条約を結ばせた。海を行く商船があれば襲って積荷を奪い、相手が異教徒であれば命乞いにも耳を傾けず焼き討ちし、船を沈めた。たとえ女子供であろうとも、ガマはイスラム教徒に容赦しなかった。
さらに、ガマはカリカットに着くとカブラルが失った被害の賠償を求め、カリカット港を海上封鎖した。ポルトガル船は強力であり、港から攻撃を受けて反撃するだけの戦力を備えていた。結果、多くの港がポルトガルに制圧された。ポルトガル人はそれらの地域で破壊と収奪を繰り返した。二度目の帰還で、ガマは1500トンもの香辛料を持ち帰ったという。
――エスタード・ダ・インディア
1515年までに、それまで自由に航行、商売ができたインド洋の港町は、ポルトガルの武力によって支配されていった。こうしたインド領をエスタード・ダ・インディアと呼ぶ。しかし、あくまでもポルトガルの目論見は巨万の富を生む香辛料貿易の独占だった。
当初、インド洋貿易は王室の独占事業だった。しかし、必要な予算を王室財政だけで賄うことは不可能だった。そこで商会や貴族が事業に出資し、航海の権利を譲渡してもらうようになる。航海の権利は王から下賜されたものではあったが、実質的には個人が航海を行っていた。こうした王室の独占事業に対して、密貿易も盛んに行われた。役人たちも密貿易に関わり、取り締まりは進まなかった。
とはいえ、エスタード・ダ・インディアではポルトガルが設けた独自の管理制度が幅を利かせることになった。ポルトガルは支配下の海域で貿易を行う船にはカルタスという通行証を発行し、カルタスを持たない船は私掠の対象となった。カルタスを持つ船は必ずポルトガルの港に寄港し、税金を収める必要があった。
――そして東アジアへ
ご存知の通りポルトガルは日本まで到達する。その途上で香辛料の産地を抑えることも忘れていなかった。そして、行き着く場所場所で理不尽なことにイスラム教徒を処刑していった。インド洋でのポルトガルの暴力を知っていたグジャラートのイスラム教徒たちは以後、マラッカでの商売を諦めて他の町へと撤退した。
マラッカを基地としたポルトガルはプリカット、チッタゴン、ビルマのペグなどを支配下に置いた。そして、中国の絹織物や陶磁器を手に入れることに成功する。
しかし、東アジアにおいてポルトガルの武力支配は通用しなかった。明帝国の海軍は弱体ではなく、反撃によってポルトガルは一度は撤退する。しかし明との貿易はあまりにも魅力的だった。ポルトガルは海賊船に対処して明に恩を売り、積荷を乾かすためと理由をつけてマカオへと上陸した。明も1573年には事後的にポルトガル人の居留を認め、マカオの土地を貸し出すことに同意した。
――布教保護者
ヴァスコ・ダ・ガマの航海の目的の一つとして、東方のキリスト教徒の王を発見することが挙げられる。ポルトガル人はキリスト教徒として海上でも礼拝を欠かすことはできない。宣教師を始めとする聖職者もインドに向かったのである。
ポルトガル王は教会を保護する保護者であり、新たに獲得された海外領土においては布教保護者とされた。このような風習に従って、キリスト教の布教が開始される。ザビエルは1542年にゴアに着き、南インドやマラッカで布教を行ったが、結果は芳しくなかった。1549年、日本に到着し、ようやく一定の成果を得る。
ポルトガル王からの直接の金銭的援助が乏しかったことから、宣教師たちも率先的に貿易を行った。ザビエルの手紙にも堺の盛況な状況や金や銀が豊富にあるという記載が見られる。一方で彼らは軍事にも携わった。寄進された長崎をすぐに要塞化したのも、布教保護者である現地の大名を支援するためだった。結果的に鎖国政策により、ポルトガルによる日本での貿易は終焉を迎える。
――ヴェネツィアの巻き返しとオランダの進出
当初は成功したと思われた香辛料貿易の独占であったが、実は綻びがあった。紅海の入り口、アデンを落とすことができていなかったのである。ポルトガルの規制を逃れてエジプトや西アジアを経由してヴェネツィアは香辛料を運び出し、再びポルトガルのライバルとなった。
海上を管理する費用が肥大化し、利益を生みづらくなっていくことも大きな問題だった。また、ポルトガル人が私貿易に手を染め、アジアに行ったきり戻ってこないことも増えた。彼らは現地の女性と結婚し、アジアに根を下ろして生活することにしたのである。人材の不足は深刻だった。
また、ポルトガルとスペインがフェリペ二世の下で一つの国になったことも問題となった。英国との戦争、オランダの反乱はフェリペ二世をヨーロッパに釘付けにした。王室の貿易に出資していたアントワープの商人たちはアムステルダムへと逃れ、オランダの支配の礎となっていく。
ポルトガル海上帝国は国家の事業でありながら一体性を欠いていた。そのため、オランダやイギリスの巨大資本に対抗できず、終焉を迎えたのだった。